第45話
※嘔吐注意
運命のサイコロが振られるその日がやってきた。
思ったよりも清々しい気持ちで目を覚ます。あの純白のドレスに身を包むことにならないよう、今日は最善を尽くさなくては。
そんな決意を秘めていつものように身支度を済ませて座っていると、聞き慣れたノックの音より少し軽い音がした。時間は午前9時ピッタリだ。
「おはようございます」
柔らかで艶めかしい声が耳に届き、そういえばオスカー様が今日は来れないと言っていたことを思い出す。昨日の嬉しそうに話していた様子を思い出すと、胸の内に苦い思いが込み上げてきそうなので、正直会わなくて助かった。
安堵と共に顔を上げれば、目の前には美しい青い髪を肩から水が流れるように流している女性がいた。
――なんて、美しいんだろう。
思わず息を飲んでしまう程に美しいその女性は、人外的なまでの美貌を持っていた。必要以上に整った顔も、絹糸のような滑らかさを持つ髪も、白魚のような肌も、全てが浮世離れをしていて、まるでその道を極めた人形職人が丹精込めて作り上げた最高傑作のようだ。
そして何よりも美しいのは、静謐な湖畔がそこにあるような錯覚を覚える程の純然たる紺碧の瞳だった。その美しい瞳に吸い込まれて、溺れてしまいそうになる。
私が黙って見惚れていると、形の良い唇の口角が上がる。
「オスカー様の代わりに朝食を持って参りました、ユリと申します」
ユリ、という名前を聞いてハッと自分を取り戻す。それはオスカー様に手を貸した精霊の名前ではなかったか。
だとすればドラゴンすらも欺いた魔法を使う女性だ、これから何かをされるのだろうか。露骨に警戒心を出せば、彼女は困ったように微笑んだ。
「私のことはオスカー様からお聞きになっているのでしょう?そんなに警戒しないで」
「聞いたから、警戒しています…」
「あら、嫌われちゃったわね」
話には聞いていた精霊との対面に動揺する私と違って、彼女はとても落ち着いている。食事を机の上に置き、私に椅子に座るよう促している。恐る恐るそれに従えば、やっぱり困ったような、でも余裕のある顔をして不自然なほどに笑みを絶やさない。
食事を全て食べなければ許されないと思ってしまう圧力が、その笑みにはあった。
「さあ、召し上がれ」
恐怖からいつも以上に喉を通らない食事を無理やり喉の奥に詰め込み、水を仕上げとばかりに流し込む。屋敷で食べていた時の食事と、同じような味だった。
彼女はそれを見届けると、すっと表情を消して私をじっと見た。
「あなたが、オスカー様の愛した子…」
急に感情の抜け落ちた声に、身体が硬直して持っていたコップを床に落とし、透明な水は床に濃い染みを作った。動けずにいると、ゆったりとした動作でコップを拾い上げ、なんの感情もない瞳にコップが映る。
「あら、こぼれちゃったわね。せっかく封印の魔法をかけてあるのに、もったいない」
「封印の、魔法…」
呆然と呟けば、にこりと嬉しそうに彼女は笑う。
「ええ!あなた、魔法が使えなかったでしょう?私があなたの食事や飲み物に毎度封印の魔法をかけていたのよ。それを摂取すれば、4、5時間は魔法が使えなくなるの。凄いでしょう?オスカー様も褒めてくださったのよ!」
無邪気に喜ぶその姿がまるで小さな子供のようで、先程の様子との変わりように戸惑った。
だけどそれより、重要なのは何故今まで魔法が使えなかったのかという疑問が解消されたことだ。私が食べていた食事、飲んでいた水。それが原因だったのだ。
「お昼は私も来れなくなってしまうけれど、ちゃんと食べるのよ?でも食べなくても大丈夫なように今食べた食事にいつもより封印の魔法をかけたから、気分じゃなかったら食べなくてもいいのよ?ふふふ。さて、じゃあこの後結婚式の警護もあるから、私はもう行くわね」
食器を乗せたトレーを持ち、外へと出れる扉の前まで行くと急に立ち止まった。ゆっくりとこちらを向いたその瞳には、悲傷がたゆたっている。
「……あなたは今日から、彼の心も体も手に入れることができるのね。羨ましいわ」
「え?」
それ以上彼女は何も言わず、静かに扉を閉めた。急いで駆け寄って扉を開けようとしてみるがガチャ、と鍵のかかる音の方が早く、扉はいつものように私を外界から切り離した。この扉が閉まったらもう外に出る手段はないといつもは諦めていたけれど、もう諦めない。あの家に帰るって決めたから。
どういう意図があったかは分からないが、彼女は一つ手の内を明かしていった。私の食べていた物や飲んでいた物に封印の魔法をかけていたという、重要な情報。どんな理由があったって良い。これはまたとない好機だ。今を逃すわけにはいかない。
彼女は普段、食事を摂取すれば4、5時間は魔法が使えなくなる魔法をかけていたと言っていた。食べた瞬間に魔法が効力を発揮するのか、それとも少しずつ時間をかけて効力が出るのかは不明だ。でも私は前者の可能性にかけてみたい。
今の私にできることはどっちみち、それしかないのだ。
覚悟を決めたら深呼吸をし、御手洗いへと向かう。幸い今日は食事をとる前に水を飲んでおらず、何かを飲み食いしたのは純粋にあの朝食の時だけだ。やったことがないのでうまくいくかは分からないけど、やってみよう。
石鹸で丁寧に手を洗い、清潔なタオルで手を拭ったら御手洗いの扉を開いた。御手洗いは個室になっており、そこに陶器でできた椅子型の便器がある。下には引き出しがついていて、汚物が溜まったら中身を捨てるといった様式の一般的なトイレだ。ちなみに中身はどこへ行くかというと、肥料にされている事が多い。
なのにこのトイレは特殊で、用を足すと中で水が渦巻きその後水も用を足したものも綺麗に消えてしまう。おそらくこれは彼女によって魔法がかけられているのだろう。もしくは、勿体ないが条約で手に入れた魔法のカードを使用しているか。どちらにせよ、魔法を使ったものであることには変わりはない。ソーファさんの家も似たような感じだった。
便器の前に座り込み、もう一度大きく深呼吸をする。そして、思いっきり手を喉の奥へと突っ込んだ。
こみ上げる嘔吐感に生理的な涙が目の淵に溜まるが、気にせず再度奥へと押し込める。ぼろぼろと涙を流しながら何度か試し、やっとの思いで先ほど食べたばかりの食べ物の残骸を吐き出した。だけどすぐに水と共に消えてゆき、次を催促されている気すらしてくる。
吐き出した時の独特な匂いまでは流れずに漂っているのでそれにより嘔吐感が増し、何度か吐き出して胃液しか出なくなるまで繰り返した。
もう出なくなったところでなんとか立ち上がり、倦怠感と不快感を抱えながら洗面台で口を何度もゆすぐ。ついでに汚れたところを綺麗にしてふらふらする体をベッドまで運び、倒れ込むようにベッドの上に転がる。
服に汚れたところはないようだれど、なんだか気持ち悪くて着替えたい。昨日着ていた服に着替えるのは不服だけど、そうしよう。毎夜1着しか替えの服を持ってこないオスカー様を恨んだ。
魔法で昨日の服を綺麗にしようと思い、使おうと試みるけれどやっぱり使えない。吐き出したとしても一度は食べてしまったから封印の魔法が効いているのだろう。もし魔法が使えるようになっていたら、一番に風魔法と水魔法を使って綺麗にしよう。
そう決意して、消耗した身体を眠りにつかせた。