第41話
食事の時間は流石に話すことはできないので夜、次の日の服をオスカー様が持ってくる時を私は待っていた。
その間に何故わざわざ毎晩オスカー様は手ずから私に服を持ってくるのだろうと考えていたが、答えは出なかった。
オスカー様の様子を観察していたが、別にそれを面倒だと思っている様子はない。むしろ、嬉々として服を持って会いに来る。
彼が言っていたように私を好いているからなのか、何か別の理由があるのか。私には見当もつかない。
こういうとき、他人と触れ合う機会が非常に少なかったことを悔しく思う。そういう機会があれば、ここまで他人の心の機微に疎くはならなかったはずだ。もっと、相手の胸中を想像して推測することが出来たはずだ。
知らないことが多すぎて、悔しい。
悔しさに震えていても仕方がないので、この部屋に常備されている美しいフォルムをした水差しからコップへと水を注ぐ。
水を一気に飲み干し、水差しを見つめた。
この水差しはベッドの近くの小さな机の上に置かれており、量が少なくなってもいつの間にか増えている。
これは間違いなく魔法によるものだろう。ソーファさん宅でも見たことがあり、その時不思議に思ってソーファさんに聞いたことがある。
水の精霊は水を大量に飲むらしく、一定量まで減ると水が元の決めた量まで増えるように魔法をかけているそうだ。
水の精霊は必ず自分用の水差しセットを持っているんだと、嬉しそうに語ってくれたソーファさんを思い出す。
水の精霊以外もそうなのかと聞いてみると、水の精霊だけだと思うと言われた。
ならば、ユリという女性は水の精霊の可能性が高い。もちろん水の精霊ではなく、ただ必要だろうと思ってそういう魔法をかけただけかもしれないという可能性は捨てきれない。
ただ、可能性が高いと知っておくことは重要だと思うので頭の片隅に置いておくことにした。
気分転換に体を清め、ひたすら訪れを待った。部屋にある小さな振り子時計がカチ、カチ、と一定のリズムで音を鳴らして秒針は進んでいく。
時計の針が夜の訪れを指し示す頃、少し緊張感を孕んだ室内をトントン、と小さなノックの音が鳴り響いた。
来た。
いつものように返事も聞かず、当たり前のように普段は決して開くことのない扉は開く。
目に入ったのは見慣れた金髪と、ロイヤルブルー。
「やぁ、ジェシカ。待ったかい?」
美しい刺繍の施された見るからに良い生地の青い夜着を持って、オスカー様はやって来た。
いつもなら何も答えずに俯いていたが、今日はその言葉に小さく頷いた。
するとそんな私を見たオスカー様は、とても嬉しそうに破顔した。
「そっか、待っててくれたんだ。嬉しいなぁ。早く仕事を終わらせて来た甲斐があったよ」
私が腰掛けているベッドの隣に座り、ゆっくりとベッドに服を乗せた後、私の髪をそっと撫でた。
手つきはとても優しいのに、それがとても怖くてならない。オスカー様の燃えるように熱い視線が恐怖を煽る。
優しくて穏やかな、あの満月のような金の目が恋しかった。
だけど私は今日は恐怖に竦んでばかりはいられない。情報を聞き出さなければ。
そんな決心をしていると、オスカー様がとても優しい声色で話しかけて来た。
「今日はどうしたの?いつもと様子が違うね?」
この人の、こういう所が怖くてたまらない。
実際はそんなことはないのだろうけれど、こちらの心の内を見透かしているような、そんな風に思える。
だけど勇気をふり絞らなくては。
「あの…ユリ、さんとは誰ですか?」
突然の私の質問に目をまん丸くしたオスカー様は、しばらくした後何故か蕾がほころぶように笑った。
「ああ!そういえばあのときユリの名前を言っていたね。大丈夫、僕が愛しているのはジェシカだけだよ」
何かを勘違いしている気がする。
だけどそのままの方が都合が良さそうなので、訂正しないでオスカー様の言葉を待った。
「彼女は水の精霊のユリだ。彼女には君を探すのを手伝っていてもらっただけだよ。今後も君を守る為に協力してもらうことになっているけど、ただそれだけだ。彼女はただの僕の側近。だから安心して?」
何も安心できない。
だけど私の推測は確信へと変わった。やはり私が攫われた一件には精霊、しかも水の精霊が絡んでいた。私はユリという女性を知らないので恐らく、別の集落にいた水の精霊なのだろう。
しかし、これだけでは分からないことばかりだ。もっと情報が欲しい。
「…精霊様が何故、オスカー様の側近になっていらっしゃるのですか?」
「もっともな疑問だね。いいよ、教えてあげるよ。ただし、条件があるけどね」
「条件?」
「ねぇ、ジェシカ。君から僕にキスして?場所はどこでもいいよ。君から僕へキスしてくれるなら」
時間が停止したような、そんな錯覚を覚えた。要求されたことがあまりにも予想外で、絶望的で。
答えようとして口から出てきたのは吐息だけ。言葉は口の中で溶けて消えてしまった。
「本当は抱いてしまおうかとも思ったんだけど、まだ僕の穢れた体で君を汚したくないから」
忌々しそうに小さく呟くオスカー様の口から吐かれる言葉に、身も心も硬直した。
家庭教師から教育を受けていたとき、閨のことも教育を受けた。あの屋敷でひっそりと生きていく自分には関係のないことだと、ずっとそう思っていた。
嫌だ。
その一言が、頭の中をグルグルと回る。この人に抱かれたくなどない。そもそも、誰にも抱かれたくない。
私はただ、スイリュウとずっと穏やかに過ごしていたかっただけなのに、どうしてこんなことになってしまったんだろう。
「まぁ、それは結婚してからでいいよ。だから、僕にキスをして?」
オスカー様はいつものような優しい声色で、どこか懇願するようにそう呟く。目を合わせればどこか切なげで、何故か許しを求めているように思えた。
何故そんな風に思ったのかは分からないが、そんな雰囲気を彼は醸し出している。言葉の内容と彼の表情がちぐはぐで、少し面食らう。
どうしたらいいのかと必死に考えるが、情報が欲しいのなら、彼の要求を受け入れるしかない。
私が情報を手に入れる為に差し出せるのは、この身ただ一つ。あの平穏な日々を取り戻す為に必要ならば、私はやるしかないのだ。
オスカー様の熱い視線は無視し、少しずつ彼の顔に近づく。彼の頬に軽く触れるようなキスをし、素早く離れようとしたら体を抱き寄せられた。
「よくできました」
精霊様たちに抱きしめられたときとは違う抱擁に戸惑う。ぎゅっと愛情のままに抱きしめるそれとは違う、壊れ物を扱うかのような優しい抱擁は、何故だか恐怖を掻き立てた。
腕の中から解放されると、そこにはこの世の幸せを全て手に入れたと言わんばかりの顔をしたオスカー様がいた。
どうやら私の意志で彼にキスをしたという事実が、彼にとっては大事だったらしい。物凄く嬉しそうな顔をしている。
私の心の内など、きっと彼には関係ないのだろう。
「さて、きちんと応えてくれた君に先程の質問の答えを教えようか。何故精霊のはずの彼女が僕の側近になっているかといえば、答えは僕が彼女にとっての愛し子だからだよ」
「…え?」
「君はドラゴンと接触があったから『忌み子』の秘密はおそらくもう知っているよね?だったら、意味がわかるでしょ?」
「オスカー様は…双子の上の子なのですか?」
「いや、違うよ」
「では、何故…」
「それ以上は、いくら君でも教えられない。そうだね…でも結婚したら教えてあげる。それまでは内緒」
一つ謎が解けたと思えば、また一つ謎が増える。私が思っている以上にこの王国の王族は複雑な事情を抱えているのかもしれない。
「…さて、今日はこのくらいにして引き上げようかな。名残惜しいけれど、また明日会えるからね。おやすみ、ジェシカ」
そう言うと、オスカー様は私の頬に口付けた。今までそんなことをされたことなどなくて、驚きに目を見開いてオスカー様を見れば、満足そうな顔をしていた。
「愛しているよ、ジェシカ。これはその証さ。今は頑なに僕を拒んでいるようだけど、いつか僕を受け入れてほしい。僕はいくらでも待つから。だから、もう僕から逃げ出さないでね?」
私の考えていることなど知っているとでもいわんばかりの強い視線で射抜かれ、身体が震えた。
「それじゃ、おやすみ」
するりと髪を撫で、オスカー様はこの部屋唯一の外へ出られる扉から出ていった。
しばらく呆然とした後、ベッドに座り込んでいた重い体を無理やり起こし、浴室に向かう。
服を脱ぎ捨て、備え付けてあった良い香りのする石鹸で体を強く洗う。中でも特にキスをされた頬を念入りに洗った。全てを洗い流す為に。体を洗い終えたら唇を何度も水で洗い、拭う。あの感触がなくなるように。
体を清め終えると夜着に身を包み、泣きながらベッドに潜り込んだ。ここのベッドは心地が良いけれど、洞窟にある、あのベッドが恋しい。
同じ快適なベッドでも、柔らかさが違うことが、触り心地が違うことが、寝心地が違うことが。その全てが精霊様たちに頂いたベッドとは違うのだと、もう私はあそこにはいないのだと、現実を突きつけてくる。
あんなに情報を得るんだと意気込んでいたのに、もう挫けそうだった。
キスをすることが、されることが、触られることがこんなに嫌だなんて、知らなかった。
スイリュウ様に、会いたい。
枕に顔を押し付けて泣いている間に、私はいつの間にか眠っていた。
一部内容を変更してますが、ほぼ内容は変わりません。