第39話 スイリュウ(8)
ジェシカがいなくなってからどれくらいが経ったのか。
気がつくと、森を流さんばかりに流れていた夥しい量の水はいくらか減り、水が流れる音や雨の音の合間に聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「スイリュウ様!スイリュウ様!」
この声は、スイファか。
声のする方を見れば、必死の形相のスイファがいた。
「よかった!気が付かれましたか!どうか怒りを収めて雨量を減らして下さい!このままでは森が流されてしまいます!」
その声にハッとして周りを見渡せば、一時的にできた巨大な運河を流れる大量の木々。
気に入っていたこの森をなくしてしまう訳にはいかないと、慌てて森を蹂躙する量の水を空中に掻き集め、雲散させた。
目の前に広がったのは、半分近く緑を失ってしまった我の住処だった。
◇
あの後スイファたちに協力してもらい、なんとか森を前のように蘇らせた。
以前のように逞しく育った木々ではないが、これから成長するであろう若木たちを生やし、草木を生い茂らせる。
これが今現在の限界だ。ドラゴンも精霊も神ではない。精霊たちも良くやってくれた方だと思う。
スイファたちに話を聞けば、我の慟哭が縁の深い精霊たちには聞こえたらしく、大慌てでこちらに向かったそうだ。
そこで見たのは森を押し流そうと濁流が滔々と流れる様と、怒り狂った我。
まずは我に怒りを収めてもらわねばとずっと声をかけていたらしい。
ジェシカを連れ去られ、冷静さを欠いた我は怒りのままに魔法を少し暴走させてしまったらしい。
森が完全になくなる前に気がついて良かった。
ジェシカのいなくなってしまった洞窟に戻り、事の次第をスイファたちに説明した。
ソーファは怒りのあまり顔を真っ赤にし、地面を睨みつけるようにして強く手を握りしめている。
スイファからは魔力が湧き上がり、無表情なその顔からは怒り以外の何も感じられない。
他の応援に来ていた精霊たちも、似たような反応をしていた。
しばらくして口を開いたのは、ソーファだった。
「……恐らく、ジェシカちゃんを攫ったのはフィーデン王国の者でしょう。これは間違いないと思います。…だけど理由が分からないわ。条約で元々こちらに引き渡すはずだった愛し子を隠蔽していた。その愛し子を私たちが一度保護し、もう条約違反であることはバレていると分かっているはず。なのに何故、ジェシカちゃんを取り返そうとしたの…?」
「ジェシカさんを手放したくない理由があったのだとしたら、その理由は何でしょうか…」
皆で思案するが、やはり分からない。
条約違反を犯していたのが、こちらで保護したジェシカの存在で今回明らかになった。
王国側はそのことを分かっているはずだ。なのに何故、今回のような強気な態度をとれるのか。
なにか切り札があるのか…。
そこまで考えて、ふと魔法を使いこなしていた者の存在を思い出す。
「そういえば…今回の件であちら側が侵入してきた時、人間には使えぬであろう魔法を使いこなしていた者がおった。何者かが王国側につき、協力しているのかもしれぬ」
「そんな!どうして…」
ソーファは信じられないといった様子で顔を驚愕に染めている。
「理由は我にも分からぬ。だが…もしかしたら奇妙な気配を持っていた者と関係があるのかもしれぬ」
「奇妙な気配とは…どういった気配なのでしょうか?
顔を険しくしたスイファがきわめて冷静に問うてくる。
だがしかし、その瞳には燃え上がるような怒りを閉じ込めていた。
「説明が難しいのだが…愛し子のような魔力を持っていた者がおったのだ。ような、というのはどうにもその魔力が歪でな…。まるで人工的に作り出したかのような…」
そこで、空気が凍った。
愛し子であるジェシカ、人工的に作られたかのような歪な魔力を持つ者、ジェシカが存在を隠蔽されて屋敷に閉じ込められていたこと、そのジェシカを取り戻そうとしたこと。
全てが繋がっているような、そんな気がした。
もしも本当に全てが繋がっているのならば、導き出される答えは口に出すのも恐ろしい現実が存在しているということだ。
皆が、口を開いては閉じてを繰り返した。口に出してしまったら、それを事実だと認めてしまうような気がして、言葉にはならなかったのだ。
皆が考えているであろうそれを一番に口にしたのは、スイファだった。
「もし。もしもですよ、今までも愛し子を神殿に引き渡さずに存在を隠蔽し、同じ血筋の者と婚姻させて子孫を残してきたのだとしたら…」
その先は口に出すのを躊躇したらしく、逡巡した後、呟くような小さな声で囁くように言った。
「意図的に魔力を持つ者を誕生させることに成功したのかもしれません」
皆が考えていたであろうそれをスイファが言葉にした途端、それが我らの妄想などではなく現実に存在していると突きつけられたようで、誰も何も続く言葉を発しなかった。
不気味なほどに静かな洞窟の中には、湧き水が流れる音のみ。
それだけがこの洞窟で、いつも通りだった。
ジェシカがいることで聞こえた生活音も、ジェシカが魔法の練習をしていて聞こえてきた風の音や水の音も…ジェシカの我を呼ぶ愛しい声も、何もかもがジェシカと共に消えてしまった。
ああ、フウリュウの奴はこんな喪失感をいつも、その身に、心に感じているのか。
『お主は、失うなよ』
ふと、フウリュウに言われた言葉を思い出す。
我はまだ、失ってはいない。
先程の考えが本当だとすれば、ジェシカは殺されはしない。
まだ、間に合う。
「……我はフィーデン王国に向かう」
「スイリュウ様!?」
「ジェシカはきっと、殺されてはおらんはずだ。だが、このままでは深く苦しみ、傷付くことになる。我はジェシカを迎えに行く。ジェシカが戻ってきたいと言うならば、そのままあの国から攫ってこよう」
攫われた先で、ジェシカがこれからどんな扱いを受けるかは分からぬ。虐げられるかもしれぬし、何にも困らぬ暮らしをさせてもらうのかもしれぬ。
もし、あちらの方で暮らすことに納得していてそれを望むのであれば、例え胸が裂けそうなほどに苦しくとも、受け入れよう。
それが、あの子の幸せならば。
「…なら、僕らはあちら側についているであろう何者かについて調べます。緊急性を要するため、分かり次第念話で直接お知らせしますが、よろしいでしょうか」
「構わぬ」
念話というのは、相手の頭に直接言葉を送り込む魔法だ。
頭の中を覗かれているようで不快に思う者もいるので確認をとったのだろう。
我も普段ならばあまり好まぬ方法だが、今はそれどころではない。
相手の情報が分かり次第、すぐにその情報が欲しかった。
我がドラゴンだということを分かった上で、我の住処に侵入してきた者たち。
あれは、かなり周到に用意をしてきている。決してドラゴンを侮っていた訳ではなく、むしろ恐れたからこそ、あれだけの魔法を使っていたのだろう。
我も、相手を侮ってはならない。
ジェシカに無事に会うまでは。
「スイファ。恐らく、あれは精霊だ。ドラゴンはそれほど魔法を使わぬ。使う必要がないからだ。妖精が使うにしては魔法に使う魔力量が多すぎる。だから、あれは精霊だ。そして相手はドラゴンに関して詳しい者だろう。その辺を踏まえて探すとよい」
「分かりました、その条件で探してみます」
精霊たちはスイファの言葉を合図に転移し、洞窟には我だけが残された。
静かな洞窟には、ジェシカはいない。
その事実を改めて感じ、とてつもない絶望と虚無感が心を蝕む。
それを振り払うようにまだ洞窟内に残る不快な臭いを風魔法で消し去り、洞窟から上空へと転移した。
フィーデン王国の方角を睨み、そのまま前へと進んだ。
フウリュウから愛し子を奪った王国は、今度は我から愛し子を奪おうとしている。
フウリュウの愛し子が愛した国を、滅ぼしたくはない。
だが収まらぬ怒りは、あの王国をどうしてやろうかと、そればかりを考えさせるように思考を誘導している。
思い留まっているのは、ジェシカの安否が気になるからだ。
ジェシカがどういう扱いを受けているかによって、きっと王国の命運は決まる。
どうか虐げるようなことはしてくれているなよ。
我も罪のない人間を殺したくはない。
だがジェシカが苦しんでいたら、きっと殺さずにはいられないであろう。
余計なことを考えないよう無心で翼を動かし、ただひたすら王国の方へと向かった。