第3話
屋敷から出てからどれくらい走っただろう。毎日の大半を部屋で過ごしていた私はすぐに体力が尽き、身を隠しながら移動を続けた。
誕生日にもらった本の一冊に、ご令嬢が屋敷を抜け出して大冒険をするお話があった。その話の中で身を隠しながら移動するのがいいと語られていたのを思い出した私は、自分の体力と相談しながらその冒険劇さながらの移動をしていたのだ。お陰で私は未だに屋敷の者に捕まってはいない。
もしかしたら捕まえる価値もない程の存在なのかもしれないが、念には念を入れなければ。今あそこに戻されたらどうなるか分からない。それは死ぬより恐ろしいことだった。
あの屋敷を出てから数日が過ぎた。何も食べず何も飲まずにいた私はもう限界だった。それでも捕まりたくない一心で足だけは動かし続け、いつの間にか森の中にいた。
どこへ向かうかなんて考えていなかったが、何故か惹かれるように足がこの森へと動いていたのだ。そして辿り着いたのは、大きな洞窟の前。洞窟の近くには美しい泉があり、水が弾けるような音を小さく響かせ湧き出ていた。
その泉の水をそっと掬って口に含んだ。久しぶりに飲んだ水はとても美味しく、私に飢えと渇きを思い出させる。
渇きを解消したくて更に水を掬い、口に運ぶ。さっきより多く水を口に含み飲み込むと、潤いになれない喉が悲鳴を上げた。ゲホゲホとむせ、息苦しくなる。
少し痛んだ喉が私に生きていることを実感させる。そう、まだ生きている。
むせた後にもう一度、今度はゆっくり水を飲みしばらく休んだ。泉の近くに座り込み、ぼーっと空を見上げて森の中を観察した。
空は爽やかな青を一面に広げ、白い雲がゆっくり流れる。太陽は力強く輝き森の木々に光を降り注ぐ。艶々とした葉は光を浴びて青々と輝き、生命力に満ち溢れている。さわさわと風に揺られて葉の擦れる音は、耳に心地の良い音を運んだ。
目に見える景色が、耳に届く音がどれも美しかった。屋敷にいたときには感じられなかった幸福感。
辞書に載っていた「幸せ」という言葉の意味が、初めて理解できた気がした。
ここでなら死んでもいい。どうせ私はもう、動くことはできない。一度座り込んでしまったら、疲労困憊の私の足は立つことを許さなかった。座っているのも辛くて地面に横になる。
呼吸が整った頃には心地の良い疲労感が眠りを誘う。私はそれに逆らうことができずにゆっくりと瞼を閉じた。聞こえてくるのは泉のぽこぽこと水が湧く音と、さわさわと葉が揺れる音だけ。
屋根裏部屋にいたときに感じていた静寂とは違う、心地のいい静寂が私を包む。安らぎをくれる自然の音が微かに聞こえていたが、次第に音は遠ざかっていった。それと同時に私の意識も遠くなる。
ここで死ねるのならば悔いはない。最期にあんなに美しい景色を見られた。一つ悔いがあるとすれば、誕生日が来れば読めるはずだった新しい本が読めなかったことぐらいだろうか。でもそれももういい。
この目で耳で、新しい世界を知ることが出来たのだから。
私はそのまま、ゆっくりと眠りについた。
◇ ◇ ◇
ぽたっぽたっと水の落ちる音がする。それになんだか空気がひんやりとしていて少し肌寒い。私はゆっくりと瞼を押し上げ寝ぼけ眼に世界を映し出す。
ぼやける視界に映ったのは、蒼く輝く岩肌とキラキラと輝く石たち。その石はほとんど透明で、蒼い岩肌を自身に映し出している。お伽噺に出てくるような、とても美しい世界だった。
ゆっくりと上半身を起こす。身体のあちこちがとても痛いが、怪我などは特にないようだった。
見たことのない場所に、少し戸惑う。私は確かに森の中の泉の近くに横になっていたはずだった。今瞳に映し出しているこの景色は見覚えのないもの。
私は死んだのだろうか?
眠る前のことを思い出し、答えを探す。
…死んだのかもしれない。もう体力などなかったし、ずっと何も食べていなかった。飢えて衰弱して死んでしまったのだろう。何故か死んでしまったということをすんなりと信じることが出来た。この美しい蒼の世界が、それを信じさせてくれたのかもしれない
「死後の世界って、こんなに美しい世界だったのね…」
私の目に映る世界は、ため息の出そうなほど美しい所だった。
蒼い岩肌に綺麗な石や岩。少し遠くでは水が湧き出し、小さな泉が隠れるようにひっそりとあった。透明な石ばかりだと思っていたが蒼い石がぽつぽつとあり、その石はほんのり光を帯びている。岩肌が蒼いのは、この石の光に照らされているからかもしれない。
あまりに明るくて気付かなかったが、ここは洞窟の中のようだった。光は差していないのに、光る石のお陰でとても明るい。だけど目が覚めたばかりの私がそう感じるだけで、実際には明るすぎることはなく暗く感じない程度の明るさだった。
立ち上がろうとしてバランスを崩し転んだ。痛くて思わず声が漏れる。
「死んだ後でも痛覚は残っているのね…そういえば身体もあちこち痛いわ。死んでも楽はさせてもらえないようね」
転ばないように壁に手をついてゆっくりと起き上がる。関節がギシギシと痛い。だけど今度は転ばずに起き上がれたようだ。改めて周りを見る。
美しくて見惚れるほど綺麗な、蒼の世界。
私はこの美しい世界を探検したくて堪らなくなった。死んでしまったのだから私を縛るものは何もない。自由が許されるのならば、何度も読んだあの冒険小説の主人公のように冒険がしたい。知らないことを知れるのは楽しい。自分の目で、耳で確かめることが今の私には出来る。
こんなに美しい世界を見て回れるなら死ぬのも悪くないものだな、などとのんきなことを考えていた。
「お主は死んでおらんよ」
だから急に声を掛けられて驚いて転んでしまうのも仕方なかったと思う。
痛くて泣きそうなのを我慢した。これはきっと傷になっているな。
「そそっかしい娘よの」
男性とも女性とも判断できない中性的なその声は、頭の中に直接響くような不思議な声をしていた。
私はその声の主に何故か凄く心惹かれた。ずっと待っていたような、会いたかったような。早く、早く姿を見たい。身体が痛いのも気にせずに急いで起き上がり声のする方を向いた。
そこには、一匹のドラゴンがいた。
瑠璃色の鱗を身に纏う、美しい蒼いドラゴンだった。