第36話
体がとても重い。目が覚めて起き上がろうとするも、まるで地面に吸い寄せられているかのように体は動かない。
なんとか瞼を押し上げれば、そこには見知らぬ天井があった。 顔を左右に動かすのも億劫で、視線だけを彷徨わせる。どうやらここは見知らぬ部屋のようだ。
見えるところだけをざっと見てみたが、高級そうな家具がちらほらと置かれている。今自分が寝ているベッドも寝心地が良く、何故このような場所にいるのかが気になる。私のようなものがいるところではないと思うけれど。
ここは、一体何処なのだろうか。
洞窟の中で甘い匂いがし、眠くなってしまったのを覚えている。自分が誰かに運ばれていたことも。
だけど、その後のことは何一つ覚えていない。思い出そうとするも、頭がズキズキと痛んで上手く思い出せない。
「スイ…リュウさま…」
掠れた声で、自分が一番安心できる存在に縋る。
ここは何処。何故私はあそこから連れ去られたの。
疑問ばかりが頭を擡げ、恐怖心を煽る。動くことも叶わず、何処だかもわからないところに置かれているこの状況は、屋敷の屋根裏部屋にずっと捨て置かれていたときより怖かった。
少しでも変化が欲しくて寝返りを打とうと、必死に動かない体を動かそうとしていると、何かが近づいてくる気配がした。
少し惹かれるような…でも何かが違うと思わせる存在が迫っている。
近づいてくるそれは、なんだかとても怖かった。あの日の朧げな記憶の中でも、同じように感じた気がする。
扉を叩く音がした。びくりと身体が震え、視線をそっと扉へと向ける。
キィ…と軋んだ音を出しながら、ゆっくりと扉が開いた。入ってきた人物に、思わず目を見開く。サラサラとした月の光のような金髪に、ロイヤルブルーの瞳。
そこにいたのは、妹の婚約者であった。
「やぁ、目が覚めたんだね」
口は開閉を繰り返すばかりで、言葉は宙に消えていく。
もしかして、私はアリスと間違えられている…?でもアリスなら屋敷にいるはず。
一体どういう……。
「ずっと君に逢いたかったよ、ジェシカ」
頭が真っ白になり、元々動かなかった身体が、更に凍りついたように動かなくなった。
どうして、私の名前を知っているの。
恐怖で動かないはずの身体が勝手に痙攣を繰り返す。
私はあの屋敷で、隠されて育てられていた。何故、私の存在を知っているの…?
オスカー・フィーデンは私の疑問に答えるように、柔らかく微笑んだ。
「そんな顔をしないでよ。あの日、僕と君は出逢ったじゃないか。僕が中庭を案内してよと言ったのに、君は逃げてしまったけどね」
心臓をぎゅっと握られたような気分だった。
たった一度、オスカー・フィーデンに出逢ってしまっただけなのに、彼は私が妹ではないと見抜いていたのだ。
ああ、そうか。
神殿に献上されなかった忌み子がいたことに、彼は激怒しているのだ。その証拠に彼は、さっきから優しく笑っているのに、目が笑っていない。
だけど彼は私のそんな考えを見透かすように、仄暗く笑った。
「僕は怒っているよ。でもそれは君が神殿に献上されなかったからじゃない。僕から逃げたからだ。もう逃がさないよ、僕のラピスラズリ」
狂気を孕んだロイヤルブルーは、それでも宝石のように美しかった。
その視線は私を捕らえて離さない。怖いくらいに真っ直ぐで、熱い視線。私はやっぱり、この視線が苦手だ。
それにしても私を捕らえてどうしようというのだろう。オスカー・フィーデンにはアリスという婚約者がいるはずだ。
「わ……ど、う…」
声が掠れて言葉が細切れになってしまう。やはり声は出ないらしい。
そんな私を見て満足気な彼は、一枚のカードを取り出し、そっと私の喉に押し当てる。
「《声よ戻れ》」
彼が何かを呟くと、私の喉は驚くほどに先程までの息苦しさを忘れた。
「魔法…?」
「そうだよ。貴重なカードだからね、普通は見たことがないだろう。これは僕に何かあったときのために持たされてるカードだよ。まぁ僕にはもっと良いものがあるから初めて使ったけどね」
「何故私にそんな貴重なカードを…」
「君を連れ出してこんな状態にしてしまったのは僕だからね。せめてもの罪滅ぼしだよ」
やっぱり私を洞窟から連れ出したのはこの人だったのか。
それにしてもこの不思議な気配は何?
まるで精霊たちに感じるのと似た気配。オスカー・フィーデンは人間のはず。
怪訝な顔をしていたのか、彼はニコリと笑った。
「僕に何かを感じる?それなら王家のやってきたことは間違ってはいなかったのかな。嬉しいよ」
一体、何を言っているんだろう。全く言っていることが分からない。
そんな私の様子などお構いなしに、オスカー・フィーデンは子供のように無邪気に微笑んだ。
「君は僕と結婚するんだ」
驚きすぎて言葉も出ない。
言葉の意味を徐々に理解すると、先程の疑問が戻ってくる。
アリスと婚約しているはずなのに、この人は何を言っているの…?
「ああ、大丈夫だよ。表面上はあの子と結婚する必要があるからするけど、僕が愛しているのは君だけだ。社交などは全てあの子に任せてしまうから、君は何もしなくていい。ただこの部屋にいるだけでいいんだ。一目君を見たとき、僕は君に囚われた。君が好きだよ、ジェシカ。愛してる」
ますます何を言っているのか分からない。
言っていることの一欠片も理解できないし、したくない。
身体は震えるだけでなく、歯をカチカチと打ち鳴らした。血の気が引き、体温が急速に冷えていく。
恐い、恐い!この人まともじゃない!
思わず反射的に王族相手に魔法をかけようとするが、魔法は使えない。
そんな私の様子に気付いたのか、目を細めて仄暗く笑った。
「駄目じゃないか、魔法なんて使おうとして。君は悪い子だね。…しかし、ユリの言う通りだったみたいだ。彼女にはあとで褒美をやらなきゃ」
私の髪を一房手に取り、キスをしてオスカー・フィーデンは部屋を出て行った。
分からないことばかりで、何もかも理解することを拒む。
もう何も考えたくない。恐い。嫌、嫌!
スイリュウ様に会いたい。
その一心で逃げ出そうと重い体をなんとか起こし、扉まで這って辿り着く。扉に体を押しつけるようにして少しずつ起き上がり、ドアノブを回してみるもドアは開かない。
ドアに左半身を預けるようにして立っているので、空いている右手で強く扉を叩く。
音がしているはずなのに、誰かが反応したような様子はない。
「誰か、助けて!」
声が出るようになったので叫んでみるも、何も反応はない。
もしかして、誰も近くにいないのだろうか。
そう思ったらもう立っていられず、崩れるように品の良い絨毯の上に座り込む。
「誰か、誰か助けて…」
私の願いは届かず、静かな部屋から出られないままだった。