第35話
前半ジェシカ視点、後半スイリュウ様視点です。
次の日、目が覚めるとやっぱり雨が降っていた。矢が空から降り注ぐような、地面に刺さるように打ちつける強い雨で、スイリュウ様が張ってくれた水晶ガラスが割れるのではないかと思える程だった。
重い体を起こし、なんとか着替えて部屋を出ると、張り詰めた空気が洞窟内を席巻していた。
いつもと違う空気に少し怖くなってスイリュウ様を見れば、普段の優しい顔はなく、厳しい表情で洞窟の外の方を睨むように見ている。
「おはようございます、スイリュウ様。…何かあったのですか?」
「ああ、おはようジェシカ。いや、どうも洞窟の外がきな臭くてな。少し見てくるからここで待っていなさい」
「はい」
強張る声でなんとか返事をした。
スイリュウ様は転移の魔法で洞窟から姿を消す。恐らく上空から森の様子を伺うのだろう。
一体、外で何が起きているのだろう。あんなスイリュウ様を見たのは初めてだ。
言い知れぬ不安に駆られ、黙ってじっとしていることが怖く、朝食を食べることにした。
だけれどいつもは美味しいはずの料理たちは、舌の上をなぞるばかりで味覚を刺激せず、私になんの味も齎さない。
まるで屋敷にいたときの食事に戻ったような、生きていくのに必要な栄養を摂取する為の食事をしているようだった。
なかなか喉を通らない食事をやっとのことで終え、食器を洗って気を紛らわせる。
何かしていないと、不安でおかしくなってしまいそうだった。
食器を洗ってしまうと今やることのできることがなくなり、落ち着かない。
何かしなければと思うけれど、不安に支配された頭では上手く考えられない。
ふと、スイリュウ様の鱗を思わせる、洞窟でたまたま発見した石を取り出す。
これを持っているとスイリュウ様と一緒にいるみたいで安心するので、今では私のお守りになっている。
ぎゅっと握ってみると、少し安心する。いつもより気忙しい鼓動が徐々に落ち着き、深呼吸をしてさらに鎮めた。
洞窟の奥に位置するこの場所には、外の雨の音はほとんど届かない。だけど僅かに届く雨音から、荒々しく地面を叩いているのが分かった。
どのくらい石を握り、縮こまっていただろうか。ふと、気が付くと甘い匂いがした。
眠気を誘うその匂いは、どんどんとこちらに漂ってきて、私の意識を朦朧とさせてゆく。
立っていられず、その場に倒れるようにして地面に伏せた。石が手から転げ落ちて行くが、私の手が石を再び捕らえることはなかった。
朦朧とする意識をなんとか保ち、必死に瞼を押し上げた。洞窟の外へと続く方から、足音が聞こえてきた気がする。この洞窟で私の足音以外を聞いたのは初めてだ。
「見つけた」
何を、見つけたのだろう。その声は、随分前に聞いたような気がした。
腕に触れたそれは、人の手の形を思わせる。精霊たちとは違った温度のそれは、人の手なのだろうか。
地面から離され、体をいとも簡単に持ち上げられる。回らない頭なりに、それがとても怖いことだということだけは分かった。
眠くてもはや目は開かず、私を持ち上げているのが誰だか分からない。
怖い、とても怖い。私の幸せを壊してしまうような何かが、私を雨の匂いのほうへと連れて行く。
スイリュウ様はどうしているのだろう。
まだ上空にいるのかしら。寂しいから、早く会いたいな。
意識がなくなる寸前に思ったのは、それだけだった。
◇
その日、おかしな気配が近づいてくるのを感じた。
愛し子のような惹かれる魔力を感じつつ、だが確実に違う濁ったような何か。
今まで感じたことのない奇妙な気配に、いつもは穏やかな洞窟内に緊張が走り抜ける。
一体何が近づいているのか。それは徐々に、確実にこちらに向かってきていた。
どうしようかと考えあぐねていると、ジェシカが起きてきた。
ジェシカを、我は守らなければならない。
そう強く思い、ジェシカに洞窟内で待っているように言いつけて転移して上空に出た。
滝のような雨が地上に打ちつけており、視界が悪い。気配を探るが、小賢しいことに魔法を使って存在を上手く隠している。精霊の使う魔法の気配がするが、精霊が使っているような感じはないので、これは恐らく人間がカードを使っているのだろう。
僅かに感じる気配を察するに、相手の人数は少ない。だがなかなかの手練れなのか、魔法の助力もあって我でもこの状況では詳しい居場所を割り出せなかった。
何が目的なのか。
人間が何しにこの森へとやって来たのかと思ったが、すぐに気付く。
奴らは、ジェシカを狙っているのだ。
だが何のために?
逃げ出した『忌み子』の存在の隠蔽のためだろうか。にしても何かが違う気がすると、我の勘が訴えかける。
相手の思惑が見えないことに焦り、上手く気配を探れずさらに焦った。
奴らはかなり周到に用意をして来ている。それがジェシカを捕らえるためだと思うと、焦燥感ばかりが増していく。
洞窟にだいぶ近づいた頃、ふいに気配が完全に消えた。
精霊のカードを使っただけにしては、魔法を使いこなし過ぎている。
一体何者なのか。恐れと苛立ちが募る。ジェシカを失うかもしれないという恐怖と、己の強さに胡座をかいて敵などおらぬと、そう思っていた自分への苛立ちが。
ジェシカの元へと戻ろうとすると、ジェシカの気配が突然消えた。
それはあまりに突然で、思わず呆気にとられる。ただの人間にこんなことが出来るとは思えない。ならば、誰が…どの種族が相手側についているのか。
急いで戻るもジェシカの姿はもうそこにはなく、ただほんのりと青く光る洞窟が広がるばかり。そこにはジェシカの代わりに甘く漂う不快な匂いが残されていただけだった。
上空に転移し、血眼になってジェシカを探すも、気配すらしない状況ではこの広い森の中から見つけ出すことはできなかった。
思わず膨れ上がった魔力が滝のような雨の水量をさらに増し、草木を押し流さんばかりの洪水が森の至る所で荒々しく暴れる。
我の劈くような慟哭が、暗い空に雷鳴のように響き渡った。