第33話
目を開けると、そこには青く広大な水面が風に揺れ、日の光を眩しいほどに反射していた。
「わぁ!」
穏やかで心地よい日差しが地面を照らし、地に生えた草木や花々を煌めかせる。
森の爽やかな風とは違う、少しベタつくような独特の匂いのする風が頬をかすめ、水平線の彼方へと消えていった。
白い砂浜から見える鮮やかな青は遥か彼方へと続き、空との境界線を見失わせる。
山々に囲まれたフィーデン王国に暮らし、ずっと屋敷以外の世界を知らなかった私には、初めての光景だった。
「海を見たのは初めてか?」
「はい!海がこんなにも永遠に続くように感じられるほどの大きさだったなんて、知りませんでした」
「ここは小さな島だ。そのせいで余計に広大にかんじられるのであろう」
見渡す限り海が広がっていると思っていたら、ここはどうやら小島だったらしい。
よく見れば砂浜は思ったより狭く、緑地を辿ってゆくと地表は海から離れて空へと近づいていく。
「せっかくだから島の全景を見せてやろう」
スイリュウ様の上に乗せられ、初めて空の上を散歩した。
ドキドキしたけれど、スイリュウ様とお散歩をしているからなのか、初めて空を移動するという体験をしたからなのか、興奮して今はそれすらも分からない。
島をぐるりと一周する。白い砂浜以外は森で見た木々とは違う木が群生し、緑に溢れている。本当に小さい島らしく、一周がすぐに終わってしまった。
どうやら海に手が届く場所はあの砂浜くらいで、あとは切り立った崖になっているようだ。
一箇所、とても気になるところがあった。
とても見晴らしの良さそうな崖の一番高いところに、なにか石のようなものがあったのだ。それ以外には花畑が広がるばかりだが、何故だろう。
異様にそこが気になった。
あとでスイリュウ様のご友人に聞いてみよう。
元いた砂浜に戻り、スイリュウ様の友人の元へと歩みを進めた。
その間にも見たことのない植物や果物など、色々なものが物珍しくて随分ときょろきょろとしてしまったが、スイリュウ様は迷惑そうな顔もせず、何やら温かい目で見られていた気がする。
着いたのは洞窟だった。
スイリュウ様も洞窟に住んでいるし、ドラゴンとは洞窟を住処にするのを好むのかもしれない。
「おい、フウリュウ。遊びに来てやったぞ」
………。返事がない。
「フウリュウ!おい!寝とるのか!おい!」
しばらくの沈黙の後、洞窟の奥から何やらもぞもぞと動くような音が聞こえてきた。
「フウリュウ!」
「……うるさいのう。今起きたからちょっと待っておれ」
スイリュウ様と同じような不思議な声だが、心なしか少しだけ女性らしい声のように感じられた。
洞窟の奥から姿を現したそのドラゴンは、深い森のような翠の鱗を持つ、美しい竜だった。
「綺麗…」
思わず呟くと、スイリュウ様と同じ満月をたたえる宝玉のような目を、優しく和らげた。
まるで何かを懐かしむような、そのあまりにも優しく、どこか悲しげな瞳に思わず息を呑む。
私が息をするのも忘れてその瞳に捕らわれていると、不意に目線を逸らされた。
視線の先には呆れ顔のスイリュウ様がいた。
「ようやっと起きたか。お主は相変わらずなかなか起きんな」
「妾がせっかく夢の世界を旅しておったところを邪魔しおって。…それにしても久しいのう、スイリュウ」
「以前に来たのは何百年前だったか、もう覚えとらんな。久しぶりだな、フウリュウ」
古くからの友だからこそ出来るであろうそのやり取りに、羨ましさを感じる。
私にはそういう友人はいない。これから先、こんな風に挨拶ができる友人ができるといいな。
「…して、この娘は?」
「愛し子よ」
「ああ、どうりで。にしてもお主が愛し子を妾のところに連れてくるとはな」
「我は今、愛し子と共に暮らしておる。お主に会わせてやりたくてな」
「そうか……」
また視線が交わる。そこにはもう、あの悲しい色はなかった。
だけど、なんだろう。どこか寂しそうな…そんな気がした。
「お主、名はなんと申す?」
「ジェシカ、と申します」
「良い名だ。この島は気に入ったかえ?」
「はい!とても気持ちのいいところですね。…そういえば、ここに吹く風は砂浜にいたときの風と違い、潮の匂いもベタつく感じもないんですね」
「ああ、よく気づいたのう。ここともう一箇所は、妾が魔法で清涼な風になるようにしておるのだ。寝ている間にベタつくのは嫌でのう」
「もう一箇所とは?」
「……どれ、連れて行ってやろう」
強い風が吹いたかと思うと、洞窟の前にいたはずなのに、あの気になる石があった崖にいた。
スイリュウ様とは少し違うけれど、これも転移魔法なのかもしれない。
転移したときに吹いた風は空へと舞い上がり、咲いていた花たちを散らして一緒に空へと連れて行く。
花吹雪が舞うその光景は、美しくもどこか切なかった。
「…ここは」
「妾が潮風を、森を駆け抜ける風のように変えている、もう一つの場所よ」
フウリュウ様はぽつりと呟く。
視線の先を辿ると、そこにはあの石があった。
「あの石はなんでしょうか?」
ぽつんとそこに一つだけある、不自然な石。
よく見ると綺麗に形が整えられており、何か文字が刻まれていた。
「あれは…墓石よ」
「墓石…?」
フウリュウ様から苦しげに吐き出された言葉は、想像もしていなかったものだった。
私はもしかして、聞いてはいけないことを聞いてしまったのだろうか。
慌ててスイリュウ様を見てみるも、スイリュウ様は静かに墓石を見つめるばかりで答えが分からない。
顔から血の気が引いていくのを感じるが、こういうとき、どうしたらいいのだろう。
くくく、と小さく笑うような声が聞こえたので声の方を見ると、フウリュウ様が笑っていた。
「すまぬ、あまりに面白くてな。…別に聞かれて困るようなことではない。この墓には妾の愛し子だった…契約するはずであった子が眠っているのだ」
「はずだった…」
「そう…契約してやるはずだったのだ」
その声があまりに悔恨が滲む声で、事情を知らない私でも、大きな何かがあったのだと分かった。
無関係の私が何か言葉をかけることは憚られ、開きかけていた口をきゅっと結ぶ。
喋るは風に揺られた草木ばかりで、私たちの間には沈黙がただあった。
墓石の前には花が添えられている。花の名前は知らないが、美しい白い花だ。
墓石に掘られた文字は、ただ『ライアン』とだけ書かれており、磨かれた墓石の表面が太陽の光を浴びてきらきらと光っていた。
「……お主らに、昔話をしてやろう」
フウリュウ様はそう、独り言のように呟く。私とスイリュウ様はそれに答えず、ただ小さく頷いた。