桜井香里は新たに刻んだ。
書き物の森にユーザー登録をして数日。香里の小説活動といえば、専ら処女作の改稿だった。ぼんやりと浮かんでいる新作は一旦脇に置いておき、まずは書き上がっている作品を手直しして投稿してみようというのが冬華と話した結果でた答えだ。
このサイトにはスマホ版とパソコン版があり、ログインさえすればどちらでも書け、閲覧できるのは大きな利点と言えた。自宅のパソコンで執筆し、学校で冬華に見せる時にはスマホで見る。何か指摘された点の修正もメモを取る必要性はなく、その場ですぐに直してしまえる。
そういった修正や新しいエピソードの挿入などを経て、一話辺り三千から五千文字の区切りで準備していく。ネット小説では一話辺りで好まれる文字数が決まっており、今はその程度が好まれやすい傾向にあるのだとか。
「いい? 段落の頭は下げる。日本語はきちんと伝わるように。誤字も見直すようにして頂戴」
「ねえ、冬華ちゃん。どうしてそういう所に気をつけさせるの? 話が面白ければ、文字数の区切りとか、少しくらい誤字や日本語がおかしな箇所があっても気にならないように思うんだけど」
「私もそう思うわ。小説なんて娯楽なのだから、面白ければ何でもいいのよ。けれど、誰にでも満点が取れるような部分でわざわざ減点をもらうことないじゃない」
文章マナーや好まれやすい傾向などにばかり躍起になっては本末転倒だが、知っているのならわざわざ無視して嫌われにいく必要もない。それが冬華の持論だった。
そんな数日間を過ごし、彼女の処女作は四分の一程度写し終えていた。まだ公開はしておらず、執筆中の段階ではあったが。
「ストックも溜まって来たわね。そろそろ投稿していいんじゃないかしら」
「ついに運命のターニングポイントがきたんだね……!」
「いくらなんでも大袈裟よ……」
息を巻く少女と、ため息を吐く少女。
「あ、でも冬華ちゃん。どうして溜めてからだったの? 完成した話からどんどん公開してもよかったんじゃない?」
「それも好みの問題ね。ネット小説では更新速度が気にされることは多いわ。公開前にストックを溜めておけば、毎日にしろ毎週にしろ、しばらくは自分の思ったように更新できるでしょう?」
「なるほど。……では早速」
人生初となる、小説投稿画面。操作をミスしないとも限らない為に今まで触れることもしてこなかった。ふと、これから何度もお世話になったりするのかな。などと考える。
執筆中となっている小説の中から一話目にあたるものを選択し、間違えないよう慎重に操作を進める。先に決めてあったあらすじ、タイトルも入力し、ジャンルを選択する。
「うん……? タグ?」
「そこには作品の属性や特徴を、自由に入力できるのよ」
「えーっと……?」
初めての彼女にはよくわからなかった。
冬華は自身のスマホでサイトの画面を開き、適当な作品の作品情報を開いてみせる。
「ここに書いてあるのがタグよ」
「戦争、剣と魔法、ショタ、恋愛要素強め……なんとなくわかったような、わからないような」
人間、好みというものがある。一概にファンタジーと言えども、ギャグ展開が多かったり、シリアスな戦いがメインであったりと、系統は千差万別。それを表記したものがこのタグというものだ。ストーリーだけでなく、主要人物の性格などが書かれている場合も少なくない。
「どうしてこれを設定するの? あらすじとかだけじゃダメなの?」
「公開されている作品の数が多すぎて、読者も好みの作品を探すのが大変なのよ。検索に引っかかりやすくするためにも、これらは出来る限り設定しておいた方がいいわ。もちろん、作品と関係ないのはダメよ」
「どんなのを書けばいいの?」
「キャラクターや作品に端的な特徴があればそれを書けばいいわ」
深く考えることでもないわ、という彼女の言に従い、思いついた単語で全ての欄を埋めてみる。その中から不必要な単語をいくつか削り、タグとすることにした。
残すは、「この内容で間違いないですか?」という簡単なクエスチョンのみ。
高揚感で頬が熱くなるのを香里は感じていた。
「お、押すね……!」
「ええ」
指先の操作一つで。ついに、桜井香里の描いた物語のその始まりは、世に発信される。
ここで通信エラーなどが出るというオチも特になく、何でもない、日常の一コマとして扱われるようにあっさりと投稿は完了してしまった。
「ちゃんと出来てるかな?」
「こっちで調べてあげるわ」
冬華が作品名で直接検索し、検索結果が表示される。
そこには、きちんと香里の作品が存在していた。広い世界に、新しい一ページが確かに刻まれている。
自分の作品が世に放たれたことを確認した香里だったが、困ったような笑みを浮かべた。
「えへへ、なんかまだ実感ないね」
「そうかもしれないわね。投稿して数秒で読まれるわけでもないし」
初めて作品を生み出して、送り出した彼女は、うずうず、そわそわしている。落ち着きなく、視線もキョロキョロとさまよわせるばかりだ。
冬華は苦笑しながらその様子を見ていたが、数分が経過したところで口を開いた。
「……少し、落ち着いたら?」
「えー、いやー、だって、「知らない人が今まさにあれを読んでるのかも」って思ったら、今度はなんか恥ずかしくなってきちゃって」
「嬉しそうね」
「うん。嬉しいよ。結構冬華ちゃんに怒られたり、色々指摘されて自信を失くしかけたりもしたけど」
今度からもう少し言い方を考えよう。冬華は密かに誓った。
「でもね、おかげで納得いく作品に仕上がっていくし、そりゃ、プロには遠く及ばないけど、でも、ちゃんとした作品として完成させられそうだし、それで……えっと……」
「嬉しいのはわかったから落ち着きなさい」
「えへへ……ごめんね?」
香里は、嬉しさと楽しさと照れと気恥ずかしさと……色んな感情がごちゃ混ぜになったそれを言葉で表せなかった。だが、甘さばかりが心を満たすような、幸せな気持ちであることは確かだ。
汲み取ってくれた少女に謝罪をするとともに、もう一つ伝える。
「それから、本当にありがとう。冬華ちゃんがいなかったら、多分あたしこんな風に楽しく思えなかったと思う」
「そんなことないわよ。一人でやっても二人でやっても、初めての時はそういう気分になるわ」
「ううん。冬華ちゃんが色々教えてくれたから。冬華ちゃんがいてくれたからだよ」
「……はいはい。わかったわ」
冬華は香里の処女作が表示されたスマホに目線を落とす。
違和感を覚えた香里は、言うか言うまいか悩んだが、結局欲求に勝てずに訊いた。
「……もしかして、照れてる?」
沈黙。
冬華は香里の小説を読んでいるフリをしているが、実際には頭に何一つ入ってきていない。
「…………………………………………別に」
「そっかあ」
「もう。私の事はいいから続きを見せなさい。いつも通り見てあげるから」
普段よりも早口の冬華を見て、香里は何故か嬉しいと感じるのだった。