桜井香里は飛び込んだ。
翌朝。
「えへへぇ……」
桜井 香里は間抜けな顔を晒していることに気づいていない。朝登校する間も、無闇に早起きしたせいでいつもより早く着いてしまった教室でも、ずっと。しまらない、だらしのない顔。幸せそうであるのは明白で、これが漫画の一コマなら背景には花が舞っている。
理由は単純、昨日の図書室での出来事が嬉しかったというだけのことだ。
「かおりーん? ニヤニヤしてどうしたー?」
「ひにゃっ!?」
唐突に声をかけられ、醜態を重ねる。彼女を驚かせたのは幼馴染で親友の遥だった。
「なんだはるちゃんか……びっくりさせないでよ」
「……びっくりもなにも、あたしは普通に朝の挨拶を気持ちよーくしただけなんだけど。そして全く気づかないかおりんに近づいて話しかけただけなんだけど」
「う……」
「そいで? いいことでもあった?」
「あ、うん。実はね……」
昨日の出来事をかいつまんで話す。小説を書こうと思ったこと、実は既に完成させたことなどは、付き合いが長く一番信頼している遥にさえ言っていなかった。つまりここで初めて打ち明けたことになる。
だが、聞いた遥はさほど驚きもしなかった。
「ふぅん……冬華ちゃん……ね。確かE組の娘でしょ?」
「え? そうなの?」
初耳である。というのも、
「かおりんはもう少し周りに気がついた方がいいねぇ」
彼女は基本、独りである。
友人らしい友人と言えば遥くらいのもの。性格は大人しい娘そのもの。クラスでも目立たない存在で、名前を覚えてもらえていないことも珍しくない。エネルギッシュな女子の輪に入るなんてもってのほかである。
別のクラスの女子のことを知っているはずなど到底なかった。
「今後も付き合うんでしょ?」
見透かしたように言う。
「うん。……あ、そうだはるちゃんも」
「あたしはパス」
食い気味に断られ、香里は思わず身を引いた。
「え……どうして?」
「かおりんが自力で作った友達でしょ? 大体あたしは本とか読まないし」
遥は活発な方であり、アクティブ。制服を着崩したりカスタマイズすることも当たり前にするし、胸元にはこっそりアクセサリーをつけていたりもする。本来であれば香里には入りにくい世界の住人なのだ。
だから遥は人間関係については人一倍気を遣う。……香里が疎すぎるだけとも言えるし、偶然遥と幼馴染でなければ、香里はかなり浮いて今頃孤立していた可能性も高いのだが、そんなことを無論遥は言わないし、言う必要もない。
「タイプが違うの。かおりんだって、あたしの友達紹介するって言ったら仲良くやってけると思う?」
香里の脳内を想像が巡る。こちらの気持ちなどお構いなしにぐいぐいくる女子。いくら遥の友達でも、いや、遥の友達だからこそ邪険にも出来ずに困ることだろう。
つまり、無理。
想像が結論を出したところで、やはり見透かしたように遥は問うた。
「わかった?」
「……うん」
「よろしい。じゃ、放課後は一人でその冬華って娘と会いなさい」
最後に「何かあれば助けてあげるから」というとてもありがたいお言葉を残し、彼女は姦しいグループの輪へと戻っていった。
☆☆☆
その日の放課後も、香里と冬華は図書室で会う予定になっていた。新しい話を書いてからでもいいのではないか、と香里は言ったのだが、冬華には話したいことがまだあるのだとか。
なんだろう。また技術的なことでも言われるのだろうか。
誤字だのプロットだのという話は実際には技術未満の話題だが、完全に素人の香里にはわかるはずもない。
「あ、いる」
図書室に入ると、昨日と同じ光景が目に入った。
昨日と違うのは、今度は話しかけるのに勇気はいらないということ。
「冬華ちゃん。おまたせ」
「ええ、ずいぶん待たされたわ。時間を奪われた気分」
冷たい(つまりは普段通り)の声色で言われ、香里の胸がズキンと痛む。
「えっ……ご、ごめんね? その……待たせるつもりじゃなかったんだけど……えっと……」
「……冗談よ。私が悪かったわ」
「え、冗談……?」
降参の意を示すようにホールドアップを見せる冬華。
「こんな冗談を本気にされたらたまらないわ。また泣かれるのもね」
「な、泣かないよ!」
「目、潤んでるわよ」
ぐしぐしと拭う。冗談かどうかの区別もつけられない自分が情けない。
とはいえ、気にしいな性格は直しようがない。
「貴女は優しいわね。ちょっと心配になるくらい」
「そんなことない……と思うけど」
「自分の長所、短所を把握するってことは何においても大事なことよ。もちろん、小説を書く時にも」
「そうなの?」
とりあえず座ったら? と促され、香里は対面にかけた。今日も今日とて誰もいない。二人きりの物静かな空間。
「知らなくてももちろん書けるけれど。知っておいて損はないはずよ」
「うーん……あのね?」
「うん?」
「あたしね、昨日言われたこと考えてみたんだけど、どうして書きたいって思ったのか、なんの為に書くのか、書くべきなのか……そういうの、まだよくわかんなくて」
誰に見せる予定もないまま処女作を書き上げることは出来たものの、ほとんど勢いだった。どうしてあんなことが出来たのか、次に作品を書くならどうするべきなのか。どうしたいのか。全部不明瞭で、目的も理由も、明確なものは見つけられなかった。
ただ、少しだけ思考が脱線して新しい話の構想が浮かんだりはしているのだが。
「趣味でいいんじゃないかしら」
「そう……なのかな。変じゃないかな?」
「変だって言われたら、もうやらないのかしら?」
「……続ける、と思う」
「でしょう? じゃあ別に気にしなくていいわよ。香里ちゃんは少し考えすぎね」
人はそれを怖がりと呼ぶ、ということを香里は知らない。
「……ごめんね?」
「いいのよ。小説を書こうなんて人は得てして繊細なものだから。……それで、昨日話せなかったことなのだけれど」
冬華はカバンを開き、スマートフォンを取り出した。手早く操作し、開いた画面を香里に見えるように差し出す。
そこに表示されていたのは、あるサイトのトップページ。
「書き物の森?」
「要するに、小説投稿サイトよ。小説を書くことを趣味としている人が自由に発表できる場ね」
「登録者数……すごい、八十万人も……!」
「一応、最大手と言えるんじゃないかしら」
香里は他人のスマホであることも忘れ、興味津々といった風情でサイト内を色々探索するようにアクセスしまくった。
冬華はその反応からこの存在を知らなかったのだと判断し、苦笑気味に解説を続ける。
「書きたい人は書いて投稿する。読みたい人が見つけて読む。気に入った作品はお気に入りに登録して続きを追いかけたり、書く側も好きな物を書いてみたり、良質な作品を書くための練習の場にしたり、各々好きなように活動してるわ」
「へえぇ……あれ? これって」
香里はある作品の名前を見つけて首を傾げた。冬華は反対側から覗き込み、納得いったという顔で頷く。
「それ、知ってるのね?」
「うん。最近アニメ化したよね? あたし見てた」
「そう。素人が書いた作品でも、面白いと判断されたら紙の書籍や電子書籍化される。出版社の人も実力のある作者がいないか、面白い作品はないか、常に見ているのよ」
香里は何故か緊張した面持ちで、声を震わせる。
「じゃ、じゃあ、もしかして素人でもプロになるチャンスが……?」
「そういうことになるわね」
「す、すごいね……!」
目を輝かせて、拳を握り、うずうずと身体を震わせているその姿は、まるで無垢な子供が初めて知った感動を表現しきれない時のようで、冬華は笑いを堪えるのに必死だった。その様子も見えていない香里は感嘆の声を上げながらスマホにくぎ付けになっている。
「面白い作品ならそういうこともあるけれど。それとは関係なく趣味で書くにしても、軽い気持ちで投稿してみたらいいんじゃないかしら。誰にも見せないで続けるより、何かフィードバックがある方がモチベーションも保ちやすいはずよ」
既に香里の頭の中には、様々な妄想が飛び交っている。誰かに読んでもらえる。自分の作品が誰かの手元に届く。自分の満足の為だけでなく、誰かの為に書けるかもしれない。もしかしたら、喜んでもらえることだってあるかもしれない。顔も名前も知らない、遠くの誰かに。
それは、とても素敵なことだ。そう、香里は素直に思う。
「自分が好きで始めたことで、誰かが楽しいって思ってくれたら……それってすごい嬉しいことだよね!」
もう彼女の勢いは止まらない。スマホを元の持ち主に返還し、自身のそれで早速ユーザー登録を始める。
我が子を見守るかのような目でその様子を見ていた冬華は、香里にも聞こえないほどの小さな声で呟いた。
「……そうね。その通りだわ」