桜井香里はスタートした。
内気な文学少女がその美人に見惚れるのは必然だった。
図書室という名の古くさい本棚の林の中で独り本を読む、制服姿の美少女。
陳腐な表現をするなら、烏の濡れ羽色。腰まで届きそうな艶やかな黒髪は大和撫子という単語を連想させ……いや、くどい描写は要らない。とにかく、普段は誰もいない高校の図書室で、美少女が夕陽を背にして読書をしていた。
そしてその光景に、偶然図書室を訪れた桜井 香里は目を奪われた。
(きれいなひと……)
心の声がひらがな言葉になってしまうほどに。実際にはそれなりに間抜けな顔を晒してもいたが、そこまで気は回らない。
続けてこう思う。
(あの人なら……もしかしたら)
電子機器の発達が著しい現代において、学校の図書室などという場所に需要はない。調べものなどWebの海を探せばいくらでも可能で、小説であってさえスマートフォンだのパソコンだので手軽に読めてしまうのだ。
そんな時代に、図書室にいる若い人物。相当な本好きである可能性は十分にあった。
だから彼女は行った。
芸術品めいた、絵画のような空間に、一つの異物として。
「あ、あのっ!」
手が震え、声も上擦った。
美少女は膝の上で本を開いたまま、顔だけを向ける。
「何かしら」
透き通るような声に、香里は劣等感さえ覚え始めた。
だが、ここまで来て引き返すわけにも行かない。
香里は、上擦ったままの声で彼女に告げる。
「あたしの小説を、読んでくれませんか!」
「いいわよ」
「…………え、あっ、えっ?」
間髪入れない即答に戸惑う香里だったが、謎の美少女は繰り返した。
「いいわよ。読ませて頂戴」
そんな簡単に。
香里には、緊張した自分がバカみたいに思えた。
「あ、そうです、自己紹介がまだでした。あたしは」
「要らないわ」
美少女はともすれば冷たく聞こえる声音で言い放った。
読んでいた本に栞を挟むこともせずに閉じ、雪のように白い手を差し出す。
「えっ、でも」
「貴女は小説を書くのでしょう? だったら、名前なんかより先に作品を提示して。早く」
マイペース、かつ拒否を許さないハッキリした態度で言われ、香里は気圧されるように鞄から原稿を取り出す。
現代人らしく、パソコンで入力したものをコピー用紙に出力したもの。全く珍しくないはずだが、名も知れぬ少女は眉をひそめた。
「……原稿用紙じゃないのね」
「あの、でも文字数は二十×二十になってます」
「そうじゃなくて……コピー用紙って気味が悪いじゃない?」
よくわからないことを言い出す。
小説や物語によく触れる香里でさえ、その感覚はわからなかった。
「す、すみません……」
わからない、などと口に出来るほど強くないのだが。
「貴女は悪くないわ。ごめんなさい、余計なことを言ったわね」
「い、いえ……」
彼女はそれなりに速いペースで文字を追い始めた。
香里はテーブルを挟んだ向かい側に座ろうとして、その際にうっかり音を立ててしまい。おそるおそる様子を窺って、聞こえてすらいなさそうな少女を認めてホッとする。
そんな独り喜劇を演じながら、少し後悔していた。
(思ってたより変な人に話しかけちゃったかな……)
思考が読めないというか、不思議な人だと思う。
本が好きで、特に小説が好きなのだろうというのは容易に理解出来た。だが、それ以外が全くわからない。そもそも、まだ互いに名乗ってすらいないのだ。
そんな人が自分の描いた物語を読んでいるのだと思うと、背筋がこそばゆく感じられた。
すんなり頼みを聞いてくれたのは幸運だったが、香里に今出来るのは待つことだけ。退屈しのぎに視線を巡らせたところで、他には誰もいない。公立校のはずだが司書もいたりいなかったりで、今日はいない日。管理が雑過ぎる。
それだけ、本の需要は落ちてきているのだ。
再び美少女に視線を戻す。かなり速いペースで読んでおり、既に半分近くを読み切っている。香里が来るまでに読んでいた本は噛みしめるようにゆっくり追っていたのだが、今の彼女は瞳の動きを止めることなく、とにかく速く読もうとしているように感じられた。
本当に読んでいるのかも怪しくなってくる。
(あんまり面白くないのかな……)
言葉面ほど悲観はしていない。なにせこれは香里が初めて書いた話。上手く出来ていなくていいとは思わないが、最初から上手く出来るはずはない、とも思う。
だから、凄まじい速度で原稿を読み終えた彼女が特に表情を変えなかったことにも、別段驚きはしなかった。唾を飲み込んで、問う。
「どう、でしたか?」
「どう、っていうのは?」
まさかのオウム返し。
予想外の返答に戸惑い、香里は言葉を詰まらせる。
だからか、少女は続けてこう言った。
「貴女は私にこれを読ませて、何が聞きたいのかしら。単なる女子高生としての感想? 内容に関して言及して欲しい? それとも技術的な面? そもそもこれは趣味で書いているだけのもの? それとも」
矢継ぎ早な言葉は、そこで一度切られた。
「小説家になりたいの?」
夕陽を反射して茜色に煌く瞳に、香里は圧倒された。
吸い込まれたり、引き込まれたのではない。
その眼は力強く、意志は固く、どうしようもないほどに魅力的だった。
圧倒され、気圧され、彼女に魅了された。
「……聞いてるの?」
「へっ!? あ、あぁ、はい! すみません聞いてます!」
「なら答えて頂戴。私に何を求めているのか」
一つ、深呼吸を置く。
頭の中を整理して、最初に言うべき言葉を香里は探した。
出てきた選択肢は、たった一つだけだった。
「あたしは桜井 香里っていいます。二年です」
「えっ……いやあのね、私が言ってるのは」
「小説が……本が好きです」
被せるように放った自己紹介に、黒髪の美女は口を閉ざした。
続ける。
「大好きで、自分でも物語を編んでみたいって思うようになって……それが初めて書いたお話だったんです。そして、あなたが最初の読者。もし、よかったら」
もし、よかったら。
「あたしと一緒に、物語を創ってくれませんか?」
内気で本や空想ばかりが友達だった香里にとって、それは新しい扉。
どれほど勇気を振り絞ったか……そんなものは、説明の必要もない。
だが、美しく、香里にも劣らぬほど本が好きであろう少女は、躊躇も逡巡もなく、一つの微笑みを返した。
「私は冬華。小説が好きよ。自分で書くつもりはないけれど、貴女の処女作の読者で、多分今後の作品も最初の読者になると思うわ。だから敬語はやめて頂戴」
冬華は右手を。
「よろしくね、香里ちゃん」
香里も右の手を。
「うんっ。よろしくね冬華ちゃん」
固い握手を交わし、彼女らはしばらくそのままだった。
数分とも思える時間を過ごした後、二人の手はようやく離される。
冬華が原稿を手に取った。
「早速これの感想だけど」
「う、うん」
「ダメね。全然ダメ」
どうやら、前途は多難なようだ。