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氷川に言われるがままに入ったのは昔からやっているような古い喫茶店だ。首都圏では殆どの駅という駅の近くにチェーン喫茶店が出来たからか、こういう雰囲気の喫茶店は珍しい。一見ではなかなか入りにくい。
「経費で落とせますので、遠慮せずお好きな物を頼んで頂いて結構ですよ」
自宅で今井と話をして、すぐに警察署に来て、気付けばもう十五時だ。昼食を取る事も忘れていたが、先程までのやり取りが原因で、食事が喉を通るような状態ではなかった。葛城はコーヒーを注文し、今井にはオレンジジュースを注文してあげた。氷川はコーヒーとサンドウィッチを注文していた。
「話を聞きたいと言うのは、息子の件ですよね?それでしたら、何度も皆さんにお話してきましたが、中には根も葉もないようなでっち上げの記事が出た事もありますし、正直、私は貴方方マスコミを信用出来ていない。今回にしたって、どうせ話した事と違う内容の記事が出るんだろうと考えています」
葛城がそう言うと、氷川は苦笑いをした。今井も黙って頷き、葛城を無言でフォローしている。
「私も週刊誌の記者ですから、葛城さんが今仰ったようなご意見を聞く事も多々あります。そして、それは全てではないにしろ、事実ですので、何も反論は御座いません。私も葛城さんに関する様々なニュースや記事を拝見しましたが、仰る通りどれも一貫性はありませんでした。私が謝罪した所で、何も意味はないかもしれませんが、マスコミを代表して、謝罪致します」
そう言って、氷川はわざわざ席を一度立ち、深く頭を下げた。まさかこのような行動に出るとは思っていなかったので葛城はどう反応していいか分からず、ただ黙っていた。
「一度頭を下げたからって、私の取材に協力して欲しいなんて都合のいい事は言いません。ですが、私が今回葛城さん、そして今井君に話す内容は恐らくお二人も非常に興味深い事だと思います」
氷川の話を遮るように、先程注文した品が運ばれてきた。清潔感の無い風貌から、氷川という男にあまり親しみを覚える事は無かったが、この店に入ってから今の話を聞いて、氷川の話に耳を傾ける気になったのは間違いない。それは、氷川が一社会人として、一人の人間として最低限のマナーや思いやりを持っているかのように思えたからだ。だから葛城は一人だけ食事を頼んだ氷川に、遠慮する事なくゆっくり食べてくれるよう伝えた。
「すいません、昨日の夜から何も食べてなくて。パパッと食べてしまいますので少しお待ち下さい」
そう言って氷川は急いでサンドウィッチを掴んだ。レタスやトマトが入ったヘルシーなものと、ハムとチーズが入った少しボリュームのあるものと、見た目には非常に美味しそうなサンドウィッチであったがやはり食欲は沸かない。本来であれば、目の前で食事をしている人がいる時は煙草は遠慮している葛城だが、今日会ったばかりの二人との沈黙はただひたすら気まずく、失礼、と一声掛けて、二人に背を向け、最大限煙がいかないよう配慮をした上で煙草に火を点けた。
その姿勢で煙草を吸うと、望の事を思い出す。望の空手の練習が終わった後、紀子と一緒に道場へ迎えに行き、そのままファミレスや定食屋で食事をする事がたまにあった。煙草の嫌いな紀子や望に文句を言われない為に、二人に背を向けて煙草を吸っていたのだ。
望の事で、葛城は仕事を辞めざるを得なくなった。あれだけ世間で騒がれてしまえば、最もだ。特に葛城も紀子も市役所に勤める公務員。立場上、退職は必須だった。今は葛城も、紀子も職を追われたが、二人とも公務員だったという事もあって、退職金はそれなりに貰えたし、葛城は二十代の頃から株式投資で資産をコツコツと増やしてきた事もあったので、今すぐに生活に困窮するという状況ではなかった。最も、仮に仕事がしたくても、望は世間からすれば同級生二名を学校内で殺害した凶悪犯。少年犯罪法の適用をされれば葛城自身が罪を負う事になり、そんな人物を新たに雇う職場などまず無いだろうが。
それでも葛城は、こうやって自由に外を出歩き、喫茶店でコーヒーだって飲む事が出来る。望は今どうしているんだろうか。幸いにも、精神状況を考慮され、刑務所ではなく、病院に入院しているが自由など恐らく何も無いだろうし、美味しい食事が出る訳でもない。犯罪者なのだから、これが望でなければ当たり前だと断言するところだが、やはり自分の子であれば、仮に犯罪者でも常に幸せでいて欲しいと願ってしまう。まして、今回の事件が正当防衛であり、望にそこまでされる程の罪がないのであれば、一日でも早く自分達の元に返して欲しい。その願いが、警察で木田の話を聞いてから一層強くなった。
「お待たせしました。すいません、自分から呼び付けておいて食事なんてして」
まだ口の中にサンドウィッチを含んだまま、慌しく氷川が言った。葛城と今井は互いに飲み物を一口飲み、氷川が話し始めるのを待った。
「気分を悪くしたら申し訳ないんですが、実は私は以前から今井君、君の行動を追っていたんだ」
「え?」
今井が怪訝な顔を氷川に向ける。
「これまで、何度か警察署の上沢という刑事に今回の事件の件を相談していたよね?」
「あ・・・はい」
「いつまで経っても警察は取り合ってくれず、ただ無駄に時間だけが過ぎていく。このままでは葛城望君に対して何もしてあげられない。だから、君は葛城君のご両親に相談し、葛城君のご両親が動いてくれる事を期待した。そうだね?」
「はい・・・」
「実はね、葛城さん。私もこの事件、少しおかしいと思ってるんですよ」
「え?」
「葛城さん、今井君。私達三人で国家に戦いを挑みませんか?」
氷川が何を言いたいのか要領を得ず、国家と戦うなんていうテロリズム思想かと誤解されるような提案に、葛城はこの男は頭がおかしいのではないかとすら思った。ただ、一つだけ言えるのは、氷川の目は、望が大好きな空手の大会に向かう朝のように、キラキラと輝いていた。