道連れ人形
私が彼女と結婚したのが二年前。
互いに二十歳のときだった。
彼女と付き合い始めたのは高校の時で、私が指輪を贈ったのが三回目の記念日。夏が終わり、山が紅葉に彩られ始める季節は、私たちにとっては大切な季節だ。
思い返してみれば、最初に出会ったのもそんな茜の空色だった気がする。
彼女は笑顔の絶えない人だった。
当時、図書委員を務めていた彼女と接点を持ちたいがために、私は読みもしない本を借りに図書室へ行ったり、意味もなく本棚とにらめっこをしていた。
ようやく会話を交わし、勇気を出して告白をしたときも夕暮れの図書室だった。
後にも先にも、あんな恋い焦がれる想いはその一度きり。
甘い初恋を成就できた私は、そういった意味ではやはり幸せ者だったのだろう。
彼女を知り、彼女に触れ、私の想いはますます強く硬いものとなっていった。
結婚して彼女は私の実家に一緒に暮らすことになった。
私の両親はすでに他界していて、祖母と私と彼女の三人暮らしだったが、しかしそれでも賑やかになったことは間違いない。一年もしないうちに家族がまた一人増え、翌年には四人から五人にまた増えた。
二人目の息子が生まれてしばらくは、互いに自分の意見を主張し合い、口論など些細な喧嘩が絶えなかった。
喧嘩の度に私は彼女に謝るはめになった。
私は口べたで、彼女は口達者なのだ。
彼女の言いなりになるのは少し癪に感じたが、私も出来るなりに育児に参加したし、子供が熱を出したら仕事を休んででも病院へ連れていったりもした。しかし私の職業柄、夜間家を空けておくことが多かったので、彼女の負担はやはり大きいものがあっただろう。
十全に支えてやれたとは言えないかもしれない。
それでも彼女は、私の隣にいてくれた。
高校の時に私が見惚れた笑顔を絶やさないでいてくれた。
家に帰ると「おかえりなさい」と声が返ってくる。この安堵感に勝るものはない。
家族がいることは私の大きな励みとなったし、支えてくれる彼女への想いは、もはや揺るぎないものとなっていた。
私は幸せだった。
間違いなく幸せだったと思う。
私が人形になったのは、彼女と迎える五回目の記念日だった。
その夜。
私の携帯が鳴り、職場から緊急招集をかけられた。私は地方公務員で、市の消防署に勤めていた。その日は非番だったのだが、起きた火災の規模の大きさに人手が足りないとのことだった。
私は家を出、車を走らせる。
所に着くと、すぐさま防火服に着替えて消防車に乗り換えて現場へと急いだ。
そこまでは覚えている。
それからは覚えていない。
気が付くと私は暗闇の中にいた。
静寂の壁一枚隔てた奥にわずかな物音が聞こえる。
自分が目覚めているのか……それとも眠っているのか……。
この意識がどこにあるのか、いまいちわからない。
身体を動かそうと試みる。
そこで私は、顔から下の感覚がないことに気が付く。
全身に力を入れて起き上がろうと頭では思うのだが、実際には顎を動かすことすら出来ない。
まるで暗闇に頭だけが浮かんでいるような、奇妙な感覚だった。
私は恐ろしくなって叫ぼうとする。
だが、声は出ない。
普段どうやって喋っていたのか、それすらも曖昧になるほどの虚無感だけが後に残る。首を、右手を、左手を、腕を、腹を、腰を、足をどうにか動かそうと必死になるが、私の身体は私の言うことを利いてはくれなかった。
感覚として認識できたのが聴力。
わずかながら鼻を撫でる空気の流れも感じられる。
しかし、耳はどこか遠く、いつも通りの音が聞こえるとは言い難い。
必死にもがくうちに、目蓋に引っ掛かるような抵抗を感じた。
努めて意識して持ち上げてみると、薄暗い景色が私の前に広がって見せた。
そこは病室のようだった。
目を右に動かすと、窓の外に月が見えた。
その手前にはドラマで見たことのある、重症患者に取り付けられるような機器が数台並んでいて、そこから生えるいくつものチューブは私に繋がっているらしかった。
左を見ようとしたところで、私は自分の視界が狭いことに気が付く。
……どうやら、左目は開いていないようだ。
もしくは、既に見えていない……か。
いったいなにがどうなった?
自分の置かれている状況が把握できず、私は恐怖と混乱に襲われる。
心臓の動悸は感じられなかったが、耳をドクドクと脈打つ震動が聞こえた。
悲鳴をあげることも、そこから逃げ出すこともできない。
酷く客観的に自分を捕える目が、いまの私の姿を連想させた。
恐らく私は火災現場でなんらかの事故にあったのだろう。
右の視覚、ぼやける聴覚とわずかな鼻の触覚。それ以外のすべてが、まるで最初からなかったかのようにさっぱりと消失していることを鑑みるに、そう悟らずにはいられない。
火災現場で焼死体を……もしくは重体患者を見ることは、消防という職業柄めずらしいことではない。もしかしたら私の身体は焼け爛れ、燻り、溶けて癒着し、人としての形を歪めているのかもしれない。それかミイラ男のように包帯のぐるぐる巻きの姿か……。
あるいは……。
これを現実のものとして臓腑に落とし込むことは存外難しい。
まるで出来の悪い悪夢のようだった。
夢だったらどれほど良かったか……。
私の心は、どこまでも不安に、そして寂しくなった。
*
寝ることも出来ず、地獄のような夜が明けた。
滲む視界に陽斜が差し込む。泣き果てた私の目には、それは少しばかり刺激が強い。
しばらくして白衣の看護婦が現れた。
看護婦は私をまるでおぞましい生き物を見るような目で一瞥すると、あからさまに嫌悪抱いた表情で私の世話をした。少なくとも私にはそう見えた。ある種、そういった人間を見慣れているはずの看護婦が、患者に負の一面を零して見せたということは相当なことだ。
現状を否定したい思いで一杯だった私の心は、この瞬間に零度の凍てつきによって激しく震えた。
信じたくなかった。
夢であって欲しいと切に願っていた。
しかし、私はやはり“そういう状態”になっていることに間違いはないのだ。
堰き止めていた感情が溢れ出した。それはまるでダムが決壊したように、すべてを押し流す濁流となって、私を絶望の淵へと押し流す。
なぜ私は生きた?
なぜ生き延びた?
なぜ神は私を死なせなかった?
こんな不自由な身体で、この先何十年と残された人生を送れというのか?
私は呪った。
いっそ自殺してしまおうかと本気で考えた。
しかし、私の身体はもはや自殺することすら叶わない。
殺してくれと看護婦に訴えたかったが、私には瞬きしか許されない。
それを表現する手段は、もう私には残されていなかった。
このもどかしさを常人に伝えることは難しいかもしれない。
そして、この恐怖を五体満足な人間に伝えることは、おそらくは不可能に近い。
例えば、真っ暗闇の中で縛られ、拘束されたとしても身体に感覚は残るだろう。
痛みがあるだろう。
喘ぐ自分の悲鳴が聞こえるだろう。
涙する感覚が頬を伝うだろう。
私にはいずれも残されていない。
私に残されたのは恐怖と不安の二つだけだ。
それでもなお私を生かすというなら、いっそのこと思考することすら奪ってくれれば、どれだけ楽になれただろうか。どれだけ救われただろうか。
看護婦が去り、現実から目を背けたい一心で私は目蓋を固く閉じた。
やがて目蓋を撫でられる感覚に私は目を開く。
そこには彼女がいた。
目に涙をいっぱいに溜めて、くしゃくしゃになった顔で。
私と目があった彼女は何かをつぶやき、泣き崩れた。
耳も遠くなっていたので、最初はそれが聞き取れなかったが、私の胸に顔をうずめる彼女が何度も呟くうちに、その言葉がようやく耳を打った。
「よかった」
それは、私が生きていて良かった、と。
そういう意味だっただろう。
間違っても、私がこんな姿になってしまって良かった、という意味ではないはずだ。
しかし、卑しいことに私の心は彼女の言葉に憤りを感じずにはいられない。良かったはずはないのだ。自分で動くことも出来ず、咽び泣く彼女の頭を撫でることも出来ず、彼女に声を掛けてやることも出来ず、ただベットに横たわり泣き着かれるがまま何も出来ない自分のこの状態が良かったはずがない。
私の心はすでに絶望の底に足をつけていた。
ざらりとした生々しい感覚が私の涙腺を緩ませ涙を誘う。
彼女の優しさが痛かった。
こんな姿になっても私を想ってくれている彼女。
彼女のために私は辛うじて生かされていると思った。それは私の荒んだ心に、一筋の光となって沁み込んでいった。
*
その日、彼女はペンと息子のお絵かき帳を持って病室にやってきた。
それを使って私と会話を試みるつもりなのだろう。
始めは互いに感情の交換が難しかったが、それを何日も繰り返すことで、簡単な意思なら伝えることができるようになった。
「あなたおはよう」
私は瞬きでそれに応じる。
「具合はどう?」
否定を示すときは、目蓋を閉じて一秒待つ。
「そっか。でもきっと良くなるよ。わたしがついてるから、一緒に頑張ろうね」
励ましが書かれたとなりには、私が愛した笑顔があった。
彼女は用紙に、ひらがなの『あ』から『ん』までを書き出したものを作ってくれていた。
私は視線で言葉を選び、伝える。
「ありがとう、がんばるよ」
彼女の笑顔が一層濃くなる。
彼女は気丈なのだ。私の前で、辛い素振りを一切見せない。
だから私は静かに誓った。なにを頑張ればこの状態が回復するとも知れなかったが、私は彼女のために頑張ることを心に誓った。
窓から見える景色が夕焼けに染まると、私は孤独に取り残されることを知る。
「また明日ね。おやすみ」
そう書き残して彼女は去っていく。
その度に私は、見捨てられるのではないか、とそんな漠然とした不安に襲われた。
彼女が二度と来てくれなかったらどうしよう。
なにを希望に生きていけばいいのだろう。
しかし、人は寂しさで死ぬことはできない。私は必死に耐え続ける。
そして夜が明け、彼女が再び姿を見せてくれると、私は深く安堵した。
彼女はまた用紙に言葉を書きつづる。
私は視線で言葉を伝える。
夜になり、また彼女がいない不安な時間がやってくる。
その繰り返しだった。
彼女のいなくなった病室で、私は身体を動かそうと懸命に努めた。
いつかきっとまた、以前と変わらない彼女との日々を過ごすことを夢見て、私は虚空に信号を送り続けた。
それがどれだけ無駄なことだったか、私が現実を知ったのはその翌日だった。
*
ある朝、彼女は息子二人を連れて病室へやってきた。
息子たちの顔には恐れはなかった。
きっと私の姿がわからないのだ。
目の前に横たわる物体が、いったいなんなのか理解出来ない。そんな顔だった。
この事実は私を大きく打ちのめした。
痛む胸をこの場はどうにか抑え込んだが、彼女たちが去った後で私は一人涙した。
私はすでに知っていた。
私が知覚できるのは顔のほんの一部分のみ。
首から下を感覚することはできない。
……いや、違う。
私の四肢は、もうすでに“私という個体から取り払われている”のだ。
彼女はそのことに触れようとはしないが、私は看護婦が世話してくれる中で、自分の胴体には腕も足も既に付いていないことを知っていた。そのような状態の私を見て、息子たちが私を父親であると認識できるとは、とても思えなかった。
私にはもう息子たちを抱っこしてやることもできない。
卒園式に足を運ぶことも、
入学式に出てやることも、
悪いことをしたら叩いてやることも、
一緒に遊んでやることも、なにひとつできないのだ。
こんなことなら、面倒くさがらずに、もっと風呂に入れてやればよかった。
寝かしつけてあげればよかった。
何気ない日常が目蓋に浮かぶ。
いまはそれがただただ愛おしい。
私が彼らに父親らしいことをしてやることは、この先もうきっとない。
残された私は考えることのみを許された肉塊なのだから。
そうやって考える時間だけが無駄にあった。
ぐるぐると苦悩を続ける頭の中で、やがてこんな疑問がたびたび過ぎるようになる。
……私は生きているのだろうか?
……果たして生きているといえるのだろうか?
焼死体と私との違いは、焦げているかベットで横たわっているか……あるいは、なにも考えられずに検死台に乗せられるか、ぴくりとも動けず考えにふけることができるか……その程度の違いでしかない。
これではまるで考える死体だ。
しかし、この現代において、私は一応生きている側に属するらしい。
それが私にとってどれだけ苦痛で、どれだけの地獄を強いているのか……外側から見る私は、きっと無骨無形な人の形をした人形。あるいは醜い芋虫のように映っているに違いない。
医者だってもう動けないと私以上に理解しているはずなのに、それでも生かすという行為になんの疑問も抱かないのだろうか?
もし仮に、私に私を殺す手段が残されていたなら、私は迷うことなく私を殺していただろう。だが、そんな優しい手段を神が用意してくれることもなく、優しい彼女がそんな優しい決断を下してくれることも、やはりなかった。
*
そうして二年が経った。
月日が流れても私の身体は変わらない。
唯一変わったとすれば、人工呼吸器が取り外されたくらいだ。
幸か不幸か彼女も変わることはなく、いまでも決まって夕刻に私の病室に訪れてくれる。
しかし、彼女のその顔には疲労の色がこびりついていた。
私たち二人で育てるはずだった子供たち。
二人で面倒を見るはずだった祖母。
私が支えるはずだった彼女。
いつの間にか彼女の顔からは、笑顔の一切が失われていた。
優しい彼女は私を見捨てることができない。
こんな人形と成り果てた私を、まだ夫として面倒を見てくれている。
私は本当に幸せ者だった。
だからこそ辛くて仕方がなかった。
彼女の人生はまだまだ可能性に満ちていたはずだ。
こんな死んだ人形に糸を引かれ、彼女までもが自分の人生を失おうとしている。
私は彼女に幸せになって欲しいと強く願った。
だが、彼女が幸せになるには、私という存在があまりにも邪魔過ぎたのだ。
私は普段と変わらない眼球の動きを見せ続けている。
彼女に無駄な心配はかけたくなかったからだ。
その内では、死にたいという願望だけが膨れ上がっていた。
私は生きている。
だが、それは生命という意味であって、社会的に見れば死人も同然だ。
……いや死人より質が悪い。
私は、死んでも尚、愛する人に迷惑を掛け続ける、呪いの人形だ。
私の身体の機能がどのくらいまで死ねば、私は死んだということになるのだろうか……?
どの程度まで死ねば、外の人間たちは私を殺してくれるのだろうか……?
そんなことを考えていると、彼女がひらがなを書き出した紙を広げてくれた。
私は視線で言葉を紡いでいく。
「だいじょうぶか」
彼女はうろんな顔で応える。
「大丈夫。ちょっと疲れているだけ」
私は深く目を閉じる。
そして再度開くと、選んだ言葉を視線でなぞった。
「わかれよう」
私は呪いに満ちた言葉を選ぶことはできなかった。本当は殺してくれと、そう伝えたかった。
彼女がどこまで汲み取ってくれたかはわからない。
どの程度伝わったかは、しかし彼女の表情を見れば明らかだった。
彼女は拳を振り上げ私の胸を叩いた。
叩き続けた。
私は心の中で謝り続けた。
ごめん。
私の身体は、彼女の怒りに痛みを感じてあげることすらできない。
本当にごめん。
そして彼女は疲れ切った声で呟いた。
「……もっと普通の人生を送りたかった……」
これ以上に私の胸を抉る言葉を、私は知らなかった。
彼女が居なくなった病室で、私はまた考える。
私の想像の及ばないほどの苦労を彼女は強いられてきた。
私という存在が掛けた呪縛は、彼女を決して逃そうとはしなかったのだ。
涙すら零さず、呪いを吐き捨てた彼女には、もう不条理に対する怒りしか残されていないように思えた。私にはそれが辛くて仕方がなかった。
もう私に涙してくれなどとは言うつもりなどない。
そんな大それたことを言う資格など私には無い。
慈愛に溢れていた彼女の心は涸れ果て、枯渇の状態にあった。かつて投げかけてくれた愛おしい笑顔は潰え、見る影もなくなった窶れ顔しか残されてはいなかった。
全ては私という呪いのせいだ。
解き放たなくてはいけない。彼女を救わなければいけない。
私が彼女に最後に綴った言葉は、その決意の表れだった。
……実を言うと、私は私の殺し方をひとつだけ思いついていた。
私にはもう人工呼吸器が取り付けられていない。それはつまり、私の身体は自発的に呼吸を行っているということだ。
感覚としているわけではないが、幸いにも私の鼻孔はかすかながらに生きてた。
私は流れる空気を感じ取り、虚無に向けて信号を送る。
茜色に染まる病室からの景色を眺め、私は鼻に意識を注ぐ。
鼻を通る空気が止まった。
息を止めた。
私は感動に打ち震えた。
走馬灯のように思い起こされる愛おしい記憶たち。
私は目を閉じ、闇に心を預ける。
彼女はまだ二十五だ。捨てるには長すぎる人生がまだ残されている。新しい旦那を見つけ、子供たちとともに幸せになって欲しい。彼女の世界はまだまだ可能性の光に満ち満ちているはずだ。
だから、こんな物言わぬ肉塊のことなど忘れて欲しい。
彼女が新たに自分としての人生を見つけて欲しい。
きっと彼女なら幸せになってくれる。
そう思うと、私は本当にうれしい気持ちになった。
彼女は私のことなど忘れるべきで、もう関わるべきでもないのだ。
私は彼女を引いていた糸を絶ち切ることに努めた。
彼女を戒めていた呪縛を、自らの息を止めることによって開放することができる。
私にとってこれ以上望むことはない。
閉じた光の中で、私は久しぶりの安堵に心を撫で下ろした。
ありがとう。
愛している。
私は君に出会えて、本当に幸せだった。