第五話
何がきっかけかは分からないが、エヴァンスは目を覚ました。
だが魔女の呪いが解けたというのに、喜ぶどころかすこぶる機嫌が悪い。
「ご気分は如何ですの、お兄様」
「ああ」
「頭が痛むとかはございませんの」
「ああ」
「横になられていた方がよろしいのでは?」
「ああ」
あれやこれやと体調を気遣うリリアーヌに対し、エヴァンスはいかにも投げやりといった返事をするばかりだった。
酷く腹立たしげな面持ちで、タケルの方を見ようともしない。
「お父様に、ご報告してまいりますわね」
「ああ」
「それでは大賢者様、あとはよろしくお願い致しますわ」
お願いされても非常に困る。
それが、タケルの正直な感想だった。
だがニコリと微笑む花のような美しい笑みに拒絶の意思を示せるほど、タケルは女の子に慣れてはいなかった。
頬の火照りを感じながら、黙って頷くのが精一杯だった。
ドアが閉まるのとほぼ同時に、エヴァンスはため息を漏らした。
「まったく、余計なことを」
「余計なこと?」
「なぜジュリアスではなく、そなたのような者がここにいる」
「ジュリアスって、呪いをかけた?」
自分に呪いをかけた魔女が傍にいないことをなぜ嘆くのか、タケルには理解出来なかった。
疑問符を飛ばすタケルに、エヴァンスはきつい眼差しを向けた。
「大体、そなたは何者だ」
「暁 タケル。中学生」
「アカツキ……タケル?」
記憶を手繰るように柳眉がひそめられた。
次の瞬間、弾けたように金色の瞳が見開かれた。
「父上を助けたという、大賢者タケル!?」
「それは別人」
この国に来たのは今日が初めてだ。
無論、一国の王に面識などあるはずがない。
ため息混じりで竦めた肩を、身を乗り出したエヴァンスにがっしりとつかまれた。
「なんとかしろ!」
「へっ?」
「私とジュリアスの仲もなんとかしろ!」
「なんとかって……」
「私はジュリアスと結婚したいんだ!」
「……ジュリアスがじゃなくて?」
「私がだ!」
断言するエヴァンスの姿に、タケルは眉根を寄せた。
確かジュリアスがエヴァンスとの結婚を望んで呪いをかけたはず。
「……話、全然見えないんですけど」
「二月ほど前、ジュリアスに結婚を申し込んだ。だが即答で断られた。何度申し込んでも首を縦には振らず、最後には薬師を辞め城を出て行ってしまった」
「……嫌われているのでは?」
タケルの言葉に、エヴァンスは金色の瞳を大きく開いた。
「私を嫌うはずがないだろう! 眉目秀麗、頭脳明晰、結婚したい人第一位に選ばれたこの私が!」
「……そんな横柄なところが嫌だったんじゃないか」
「横柄などではない! 事実だ!」
例え事実にしろ口にするのは如何なものかとタケルは思った。
この辺りが日本人と西洋人の気質の違いかもしれない。
そもそもダイヤモンド王国とは、どの地帯に属するのだろうか。
やはりヨーロッパ辺りか。
いや、トイレを通り抜けて現れた世界が、自分がいた世界と同一空間とは思えない。
やはり異次元だろう。
だとしたらタケルが知っている地形や知識は、何の役にも立たないことになる。
そう思ったら、急に怖くなった。
自分はどこにいて、この先どうなってしまうのだろうか。
もし発作を起こしたら、誰が助けてくれるのだろうか。
「いいからなんとかしろ!」
「なんとかしてほしいのは、こっちだよ!」
絶叫でエヴァンスのヒステリックな声を遮った。
突然の反発に呆然とするエヴァンスを、逆に睨みつける。
「洗面所から出たら、いきなり見たこともない世界だし。わけわかんないのに、呪いを解いてほしいなんて言われるし。ダイヤモンド王国? どこだよそれ! 魔女? いつの時代だよ!」
ゲームの世界で主人公が異次元に飛ばされ、魔王討伐の旅に出るという話は多くある。
だが実際そんな場面に出くわしたら、冷静でいられるはずがない。
わけのわからない世界に飛ばされて、いきなり聖剣を渡されて「はい、わかりました」と旅に出られる人間が、この世に何人いるだろうか。
そんな人間いるはずがない。
少なくとも自分は、そんな強い人間ではない。
握りしめた拳で自分の頭を殴りつける。
「タケル!?」
驚くエヴァンスの前で、同じ行為を繰り返した。
頭がズキズキと痛む。
それでもかまわず、タケルは殴り続けた。
「やめないか、タケル!」
制止の声と共に両手首をつかまれた。
「はなせよ!」
「タケル!」
「これは夢なんだ! 俺は夢から覚めて、自分の世界に戻るんだ!」
つかまれていた腕を強引に振りほどく。
再び殴ろうとした行為は、抱き寄せられたエヴァンスの腕により制された。
「わかった、タケル」
優しい囁きと共に、宥めるように掌が背中を滑った。
何度も何度も、繰り返し。
温もりに涙が零れそうになり、タケルは奥歯をグッと噛みしめた。
「大丈夫だ」
「何が……大丈夫なんだよ」
精一杯の虚勢で言葉を紡ぐ。
「何もかもだ」
「何も……かも?」
「私の恋も、そなたの帰郷も」
帰郷という言葉が胸に響いた。
途端、涙が溢れ出した。
「本当に……帰れるの……かな」
「大丈夫だ」
抱きしめる腕に力がこもった。
「大丈夫」
確約するように告げられた言葉に堪えきれず、タケルは泣き崩れた。
明確なビジョンがあっての言葉でないことくらい、タケルにも分かっていた。
それでも明瞭に響く声音は、不安に震える心を深い安堵へと導いてくれた。