第二話
久しぶりに思い切り泣いた。
何が原因で言い争いになったのかを、忘れてしまうくらいに。
「とにかく、謝らなくちゃ」
入院に必要な道具を揃えて、もうすぐ両親が戻ってくるはずだ。
「きっと酷い顔してる」
備え付けの洗面所で、急いで顔を洗った。
タオルで強く顔を拭き、鏡の中を覗き込む。
日の光など知らないような、青く白い色素の薄い薄茶の瞳。
Mサイズなのにブカブカのパジャマ。
くっきりと浮かぶ鎖骨のライン。
癖のない少し赤味がかった長めの髪のせいで、女の子のように見えなくもない。
優しく柔らかな顔立ちとよく人から言われるが、タケルから見れば貧相で意気地のない顔だ。
「ちっとも父さんに似ていない」
学生時代、ラグビーに明け暮れていたという父親とは似ても似つかない脆弱な身体に、タケルは深いため息を漏らした。
もし心臓が治ったら、父親のような立派な体躯に成長するのだろうか。
長身で恰幅の良い目鼻立ちのはっきりとした父親は、タケルの憧れだった。
だからといって手術を受ける気にはなれなかった。
だが、両親は手術を望んでいる。
その気持ちは、痛いほど分かる。
誰だって自分の子供が元気に走り回る姿を見たいだろう。
成功の確率は、50:50
どう考えても成功するとは思えない。
幼い頃から制約の多い暮らしをしていたタケルには、物事をポジティブに考えることがどうしても出来なかった。
「どうしたらいいんだろう」
沈痛な面持ちで、洗面所のドアを開く。
途端、背後から今まで経験したことのない強風に襲われた。
声を上げる間もなく、スライディングの要領で前のめりに倒れこむ。
「いたたたたた……」
したたかぶつけた顎先を掌で撫でながら、挫けた身体をゆっくりと起こす。
そして、瞠目した。
「なに……これ……」
見慣れた狭い病室は姿を消し、白大理石で作られた壁と床が目の前に広がっていた。
呆然となりながらも、視線を動かす。
細かな細工の施された天蓋付きのベッド。
優美で繊細な美しいロココ調の家具。
高い天井に取り付けられた豪華なシャンデリアが、大窓からの陽光を受け輝いていた。
「夢……?」
混乱した頭で記憶を遡る。
両親と言い争いをして、ベッドで泣いた。
その後、身なりを整えるために洗面所へ向かった。
そのこと自体が夢で、泣き疲れて眠り込んでしまったのだろうか。
だが、夢にしては妙にリアルだった。
芳しい花の香りに眉根をひそめる。
夢に匂いなどあるのだろうか。
何より掌や顎先、膝頭の痛みが、この世界が現実であることを告げていた。
「大賢者様!?」
突然の甲高い少女の声に、驚き顔を向けた。
途端、レースをふんだんに使った裾のふんわりと広がったピンクのドレスが視界一杯に広がった。
ゆっくりと視線を上げる。
折れそうな細いウエスト。
豊満な胸の前で、祈るように組まれた白く長い細い指。
弾む金色の巻き毛。
最後に見たのは西洋人形のような華やいだ顔立ちの中、キラキラと輝く南国の海のような青い瞳だった。
呆然とするタケルの両手を、跪いた少女がしっかりと握りしめる。
「大賢者はタンスより現る。お父様が仰っていたとおりですわ!」
「タンス?」
少女の言葉に振り返る。
大きく開け放たれた扉には、色とりどりのドレスが、これでもかというくらい詰まっていた。
「俺……ここから出てきたの?」
「ええ。突然ドアが開いて、転がり出てきましたの!」
「転がり出てきた……」
転がった記憶はない。
だが少女には、そう見えたのだろう。
だとしたら、あまりに間の抜けた登場の仕方だ。
思わず嘆息するタケルの腕に、少女はガッシリと自分の腕を絡めた。
「さあ、大賢者様。こちらです」
「こちらですって……」
思いのほか強い力で引っ張られ、立ち上がる。
「魔女にかけられた呪いを解くために、来て下さったのでしょう」
「助ける? 一体なんのことだか……」
「さあ、早く!」
「あの、ちょっと!」
状況が把握出来ぬまま引きずられるようにして、タケルは歩き出した。