第十六話
時を待たずにジュリアスは城に現れた。
タケルに全てを話したことで、胸のつかえが取れたのだろう。
いつも以上に凛とした、清々しい眼差しをしていた。
「タケルから話は聞いた」
「納得していただけましたか」
「私にも、その未来を見せてほしい」
エヴァンスの言葉に、戸惑うような仕草をジュリアスは見せた。
視線が落ち、漆黒の瞳に陰りが走る。
ジュリアスにとって、エヴァンスが他の者と幸福に暮らす風景は見たくはないはず。
言葉にするのもいやだったのかもしれない。
だから、タケルを通して真実をエヴァンスに伝えようとしたのだろう。
「この目で見なければ信じられぬ。それが確かであるのならば、そなたのことは諦める」
揺れるジュリアスの眼差しとは対照的に、エヴァンスは明瞭に言葉を紡いだ。
ジュリアスが真実を告げる覚悟を決めたのと同様、エヴァンスも覚悟を決めたのだ。
思いが伝わったのだろう。
漆黒の瞳がまっすぐにエヴァンスを見た。
その眼差しに、もう迷いも不安もない。
どこまでも静謐で真摯な眼差しだ。
「わかりました」
了承の言葉と共に、エヴァンスに対して掌が向けられる。
「掌を合わせて下さい」
ジュリアスの言葉に、エヴァンスは右手を重ねた。
突然、エヴァンスはタケルの方を見た。
「タケルもここへ」
小さな驚きの声と共に、タケルは大きく目を見開いた。
タケルは既に、エヴァンスの未来を見ている。
再度見せようとするエヴァンスの意図が、タケルにはつかめなかった。
戸惑う心のままにジュリアスを見る。
促すように、ジュリアスは小さく頷いた。
二人に見つめられ、タケルは渋々動いた。
ため息を零しながら左手をジュリアスに、右手をエヴァンスに重ね、三人で三角形を作る。
エヴァンスがジュリアス以外の人間と幸福に暮らす世界を、タケルは二度も見たくなかった。
「目を閉じて、ゆっくりと呼吸を繰り返して下さい」
不快感を抱くタケルの心情を知らないジュリアスの声が、ゆっくりとエヴァンスの未来へと導いてゆく。
今より年数を重ねた幸福そうなエヴァンスの横顔があった。
青い薔薇の咲き乱れる庭園で戯れる、幼子達の姿があった。
先ほど見た情景と何も変わらない。
弾む少女の赤い髪が、タケルには恨めしく思えてならなかった。
「妻の姿を」
静寂に響いたエヴァンスの声に、ジュリアスの掌がビクリと震えるのが分かった。
驚きにタケルは目を見開いた。
目の前に金色の眼差しを閉じたエヴァンスの姿があった。
その表情は驚くほど落ち着いていた。
それに対しジュリアスは、形の良い眉毛をひそめ辛そうだ。
愛するエヴァンスに寄り添う妻の姿など、ジュリアスは見たくはないはず。
その苦しみは、固く閉ざされた眼差しからも感じられた。
「エヴァンス、それは――」
「わかりました」
あまりに残酷な一言に止めに入ろうとしたタケルを遮るように、ジュリアスの了承の声が耳に響いた。
心臓を冷たい手で撫でられたような感触に、背筋に寒気が走る。
見たくない。
でも、見なければならない。
それが、二人への誠意だとタケルは思った。
それでも隠しきれない動揺の中、タケルはためらいながらも目を閉じた。
再び写しだされた映像が、青薔薇の庭園からエヴァンスの傍らへと緩やかに流れる。
椅子に腰を下ろすハシバミ色のドレスの裾には、金色の糸で見事な刺繍が施されていた。
ゆっくりと視線が上がってゆく。
幾重にも重なったレースの塊を女性は抱いていた。
どうやら赤子らしい。
大切そうに抱える左手の薬指は、清楚ながらも強い輝きを放つダイヤモンドの指輪で飾られていた。
更に上へ。
不思議なことに、首から上は霞がかかったようになっていた。
表情どころか目鼻立ちを判別することも出来ない。
胸元を飾るペンダントの一つ一つの文様が分かるほど他は鮮明に映し出されているのに、女性の顔だけはどうしても見ることが出来なかった。
代わりに、女性の腕に抱かれた赤子の姿が見えた。
ほんのりとピンク色に染まる頬に映える、艶やかな黒い髪。
くっきりとした目鼻立ちが、ジュリアスの面差しと重なった。
瞬間、タケルは驚きに目を見開いた。
同じく漆黒の瞳を見開くジュリアスの横顔が目の前にあった。
そんなジュリアスを、波立たない金色の穏やかな眼差しがまっすぐに見つめていた。
「私の曾祖母は、ガーネット王家の出身だ」
エヴァンスの言葉に、ジュリアスもタケルも驚きの声すら出なかった。
ただ目を瞬かせ見つめるばかりのジュリアスに、エヴァンスが慈愛を持って微笑みかける。
「曾祖母の血が、色濃く出たのであろう」
途端、ジュリアスの瞳から大粒の涙が零れ落ちた。
どうにもならない未来に、切ない思いをしていたのだろう。
諦めきれぬ思いに、眠れぬ夜を過ごしたかもしれない。
深い絶望も感じただろう。
気丈なジュリアスの涙は、千の言葉を尽くして語るより雄弁にその心情を表していた。
エヴァンスの両腕が風を抱くような柔らかさを持って、ジュリアスの細い肢体を抱きしめた。
「切ない思いをさせた。すまぬ」
「私の方こそ、申し訳ございませんでした。勝手な思い込みで、あなたを傷つけました。本当に申し訳ございません」
「よいのだ、ジュリアス。もうよい」
宥めるように大きな掌が、優しく背中を撫でる。
愛おしむように慈しむように、繰り返し繰り返し、何度も。
「改めて問う。ジュリアス、私と結婚してくれるか」
エヴァンスの腕の中のジュリアスが顔を上げた。
「はい。喜んで」
凍てつく冬を乗り越えて咲き乱れる満開の桜の花のような笑みを、ジュリアスは浮かべた。
それが、ジュリアスの精一杯だった。
笑顔が涙に壊れる。
緊張の糸が途切れたのか膝が折れ、ジュリアスの身体はストンと床に落ちた。
嗚咽が号泣へと変わる。
崩れた身体を跪いたエヴァンスが強く抱きしめる。
「もう悲しい思いは決してさせない。必ず幸せにする」
決意の固さを示すように、抱きしめる腕に力がこもる。
「必ず」
確約にジュリアスは答えることも頷くことも出来ず、ただエヴァンスにしがみつき幼子のように泣いていた。
人が幸せになる瞬間というものを始めて見た。
自分の愛する人が幸福になることが、自分が幸福になる以上に嬉しいということも初めて知った。
不意に両親の顔が脳裏に浮かんだ。
二人は、自分の幸福を心から願ってくれている。
自分達の時間や思いを犠牲にしてまでも。
いくら感謝しても足りない。
タケルだって両親の幸せを願っている。
二人の幸せ。
それは、タケルが元気になること。
それが二人にとって、何よりの幸福だということはタケルにも分かっていた。
勇気を出せば、切なる両親の願いが叶うかもしれないということも。
それでも、一歩が踏み出せない。
「タケル」
不甲斐ない自分に拳を握りしめるタケルの名を、エヴァンスが静かに呼んだ。
「感謝する」
「俺は何も――」
「感謝する」
ジュリアスを抱きしめるエヴァンスは、とても穏やかで満ち足りた顔をしていた。
「うん」
自分が役に立ったとは思えない。
けれども幸せそうなエヴァンスの横顔に言葉を重ねることは無意味な気がして、タケルは微笑みを持って頷いた。
幸せなのだ。
エヴァンスもジュリアスも。
それだけで、今は十分だ。
手術のことは、元の世界に戻ってから考えればいい。
例えそれが逃避だとしても、今はただ幸福な二人の姿で心をいっぱいにしたかった。