第十四話
何となく身体が重くて、タケルは布団から抜け出すことが出来なかった。
それは、慣れない乗馬に身体が悲鳴を上げているせいばかりではない。
エヴァンスの心を思う。
願いの叶う果実を欲するほどに、ジュリアスとの婚姻を望んでいる。
その心情を思うと、叶えてやりたい気持ちになる。
ジュリアスの心を思う。
聖魔女という大役から逃れてきた地で、王子の妃にと望まれた。
その戸惑いを思うと、そっとしておきたい気持ちになる。
「どうしたらいいんだろう」
どちらの気持ちも分かる。
だから、動けなかった。
日が昇りきっても布団から抜け出せず悩むタケルの元に、ジュリアスからの早文が届いた。
すぐに来てほしいとの文面にただならぬものを感じ、タケルは着の身着のままで城を飛び出した。
「私には、ほんの少しだけ未来が見える力があります」
ジュリアスの家に着いて早々告げられた言葉に、タケルは目を見開いた。
「未来が……見える?」
「はい。見ようと思って見えるわけではないのです。その人に触れた瞬間や、その人を強く思った時、閃きのように未来が見えることがあるのです」
「そう……なんだ」
現実として捉えにくい出来事にタケルは言葉数も少なく、ただ驚きの眼差しでジュリアスを見つめた。
ライラが言っていた。
ジュリアスの能力は半端なく凄いと。
未来が見えるというのは、そんな計り知れない能力のほんの一部に過ぎないのかもしれない。
改めて知る能力の高さに目を瞬かせるタケルに、ジュリアスは困ったような笑みを浮かべた。
「それが、次の聖魔女に選ばれた理由です」
「ライラさんが話していた……」
「やはりライラは話したのですね。私が逃げたことも」
「ごめんなさい」
苦笑するジュリアスに、タケルは思わず頭を下げた。
小さな笑い声に顔を上げる。
「謝る必要はありません。事実なのですから」
「……逃げ出したのは、責任の重さに耐えかねて?」
聞いてはいけないことなのかもしれない。
けれども、知りたかった。
ジュリアスが逃げ出した理由に正当性が見いだせれば、自分が手術をいやがることも何ら恥じることがないように感じられた。
ジュリアスほどの能力のある者が逃げ出したのだ。
無力で臆病な自分が逃げたところで不思議はない。
立場も事情も違う二つの話を、比較して考えるには無理があることは分かっている。
けれども、確証する思いがほしかった。
手術を受けないことは間違っていない。
逃げることは、決して罪ではないと。
「それもあります」
失礼とも取れる質問に、ジュリアスは嫌な顔一つすることなく微笑みで肯定した。
「聖魔女の重要な役目の一つに、未来透視があります。そのためには、今ある微力な能力を高める必要があります。でもそのような修行、私はしたくなかった。未来を見る力など、欲しくはなかったのです」
「どうして?」
未来が見える力があったら便利だと思う。
危険は回避出来るし、未来に向かって堅実に歩める気がした。
何より知りたい。
未来の自分は手術を受けて、元気に暮らしているのか。
もしそんな未来が見えたら、ためらわずに手術を受けることが出来る。
「未来がわかったら、人は歩めなくなります」
「未来がわかれば、歩みやすくなるんじゃ……」
「自分が理想とする未来だったら、歩むことは容易いでしょう。けれど、望む未来でなかったら?」
確かに何も変わらずベッドに横たわる自分の姿が見えたら、悲観的な気持ちになるだろう。
最悪、仏壇に遺影が飾られていたら。
考えただけで、生きる気力も萎える。
「未来とは、神聖で尊いものです。覗き見てよいものでは、決してありません」
力強い漆黒の瞳には、迷いや戸惑いは微塵も存在しない。
その眼差しこそ神聖で、その心根こそ尊いのだとタケルは思った。
雄弁に語ったことを恥らうように、ジュリアスの視線が落ちた。
「結局、逃げたことにかわりはないのですが」
「逃げたわけじゃないよ」
タケルが怯えて手術を受けないのとジュリアスが聖魔女になることを拒んだのでは、意味合いがまるで違う。
「ジュリアスは、信念を貫いたんだ」
力強いタケルの言葉に、ジュリアスは驚きの表情を見せた。
だが次の瞬間、昨日見た花園を思わせるような美しい笑みを浮かべた。
「そう仰って頂けると嬉しいです」
柔らかな笑みを浮かべるジュリアスの姿に、これまでの苦労を見たような気がした。
聖魔女の地位を拒むには、それなりのリスクを伴ったに違いない。
仲間から冷たい仕打ちを受けたかもしれない。
そういえば以前言っていた。
帰る場所がないことは不安だと。
聖魔女になることを受け入れなかった代償として、ジュリアスは故郷を失ったのだ。
十五歳の少女にとって、それはどれほど辛く心細いものだっただろう。
帰れない自分の現在とジュリアスの過去が重なり、胸を刺すような痛みに襲われた。
鼻の奥がスンと痛くなる。
「自分の未来とかは見えないの」
黙っていると涙が零れ落ちそうな気がして、慌ててタケルは口を開いた。
「残念ながら、自分の姿を見ることは出来ません」
「そうなんだ」
「けれども、エヴァンス様の未来は見えます」
「そうなの!?」
「ご覧になりますか」
「そんなこと出来るの!?」
驚きと興奮に大きく身を乗り出すタケルに、ジュリアスは戸惑ったような寂しいような曖昧な笑みを浮かべた。
掌がゆっくりとタケルの胸の前に向けられる。
「掌を合わせて下さい」
ジュリアスの言葉に、心臓が大きく跳ねた。
体育祭で行われるダンスにすら参加出来なかったタケルが、女の子の手に触れる機会など皆無に等しかった。
恥ずかしい気持ちが、ためらいを生む。
けれど目の前の真剣なジュリアスの眼差しに、照れている場合ではないと悟った。
それでも気恥ずかしさに早まる心音を感じながら、ゆっくりと掌を合わせる。
「目蓋を閉じて、ゆっくりと呼吸をして下さい」
ジュリアスの言葉に、深い呼吸を繰り返す。
繰り返すうちに、心臓が落ち着きを取り戻してゆく。
ジュリアスの鼓動が聞こえてきそうなほどの静寂の中、暗かった世界に光がゆっくりと広がってゆく。
同時に映像が浮かび上がる。
「見えますか」
「うん。見える」
目の前に銀色の髪を風に遊ばせる、エヴァンスの横顔があった。
驚くほど鮮明な映像だ。
目で捉えるよりはっきりしているくらいだ。
今より一回りは上だろうか。
声をかければ振り向きそうなエヴァンスの眼差しは、驚くほど優しげで慈しみに満ちた光を湛えていた。
口元に柔らかく浮かぶ笑みが、幸福な心情を表しているかのようだった。
視線の先を追うように映像が動く。
青く澄んだ薔薇が咲き誇る庭園が、視界一杯に広がる。
見覚えのある風景。
先日、リリーヌに案内された城の南に広がる薔薇園であることにすぐに気付いた。
彫刻の施された真っ白な大理石で出来た噴水の傍に置かれた鉄製のベンチに、本を読む少女の姿があった。
年の頃は、十歳といったところだろうか。
大きく波打つ髪は、夕焼けを思わせるほど赤く鮮やかだ。
文字を追う眼差しも、紅を塗ったように赤く濃い。
少女を二つか三つほど幼くした女児の姿が、少し離れた所にあった。
深紅の髪と瞳が、とても美しい。
双子だろうか。
癖のないまっすぐな銀の髪を弾ませる金色の眼差しの男児と共に、狐の仔と戯れていた。
「エヴァンス様のお子様達です」
「うん」
弾けんばかりの笑みを浮かべる男児の面差しは、驚くほどエヴァンスに似ていた。
幸福な風景。
今にも幼子達の笑い声が聞こえてきそうだ。
「エヴァンス様は、ガーネット王国の姫君と結婚します」
「どうしてわかるの」
ジュリアスの言葉に、タケルは軽く眉根をひそめた。
景色の中に、エヴァンスの妻らしき人物の姿はない。
「深紅の髪、深紅の瞳は、ガーネット王家の印です」
静かな声だった。
けれども、タケルを動揺させるには余りある力を持っていた。
驚きに目を見開く。
目の前に、寂しげな笑みを浮かべるジュリアスの姿があった。
「これでおわかりでしょう」
未来が見えることを拒否したジュリアスが見た未来。
それは、ジュリアスからエヴァンスとの婚姻という未来を奪った。
そして、タケルは言葉を失った。