第十話
城に戻ったタケルは、すぐにエヴァンスの下を訪ねた。
だが、いくら呼びかけてもドアが開くことはなく返事すらなかった。
暗い気持ちで、与えられた部屋へと続く廊下を歩く。
ふと見上げた先に、綺麗に並んだ丸い二つの月の姿があった。
吸い寄せられるように窓辺に近付く。
青白い光を放ち、寄り添うように並ぶ二つの月。
この世に生を受けて以来、どれほどの時を共に過ごし、どれほどの夜を共に迎えたのだろう。
滑らかな月の表面に、エヴァンスとジュリアスの姿を思い描く。
この月のように二人が寄り添い、同じ年月を重ねてゆくことは不可能なのだろうか。
「ジュリアスの説得、難航しているようだな、タケル」
背後からの声に振り返る。
「王様!?」
王冠もマントも外し、寛いだ姿で微笑むアヴェリュスの姿に驚き声がひっくり返る。
「そのままでよい」
慌てて跪こうとしたタケルの動きは、柔らかな声音に制された。
下げかけた頭を上げる。
慈しむような眼差しで見つめるアヴェリュスと視線が合った。
「ジュリアスは、一筋縄ではいくまい」
「そのことなんですが、王様……」
アヴェリュスは、完全にジュリアスのことを誤解しているようだった。
だが、あの手紙がエヴァンスの自作自演だったというのは何となくためらわれた。
「あの手紙は、間違いというか……手違いというか……」
「手紙?」
「ジュリアスが出した……」
「結婚出来なければ呪いは解けない、という手紙のことか」
「はい」
返事をするより早く、アヴェリュスは城内に響き渡るような大きな声で笑いだした。
「おっ、王様?」
笑いの意味が、タケルには全く分からなかった。
「ああ、すまぬ、タケル」
眦の涙を拭いながら、オロオロするタケルにアヴェリュスは謝罪の言葉を口にした。
「あの手紙を信じている者は、城内にはおらぬ」
「えっ?」
「あれはエヴァンスが書いた。そうであろう」
「ご存知だったんですか!?」
あっさりと真実を言い当てられ、タケルは瞠目し身を乗り出した。
「勿論だ。あのような愚行、ジュリアスがするはずもない」
大きな微笑みと共に、力強く断言された。
脳裏にピンクのドレスがひるがえる。
「……もしかして、リリアーヌも……」
「無論、承知だ」
「つまり俺は、エヴァンスを目覚めさせるきっかけ作りに利用された。というわけですね」
「すまぬな、タケル」
クツクツと笑うアヴェリュスの姿に親しみを覚え、王の御前であるという緊張感が解れていった。
年の頃は父親と同じ、四十代半ばといったところだろうか。
アイロンをかけて伸ばしたような癖のないまっすぐな銀の髪は、エヴァンスとそっくりだ。
きりりと引き締まった面差しも、驚くほどよく似ていた。
エヴァンスが年を重ねたら、このような容姿になるのだろうと容易く想像出来た。
目の前の王が笑う。
「王様はもしかしてエヴァンスとジュリアスの結婚、お認めになっているんですか」
ジュリアスは、王子として然るべき姫君と結婚するべきだと言った。
一理どころか、二理も三理もある。
いずれ国王となるエヴァンスに、他国の姫君との縁談がないとも思えない。
国の利益を考えれば、周囲の者達も当然薦めるだろう。
だが本当に楽しそうに笑うアヴェリュスの姿に、もしかしたら王は二人の結婚を認めているのではないかという思いが過ぎった。
タケルの問いかけに、アヴェリュスは笑うのをやめた。
濁りのない金色の眼差しが、ゆっくりとタケルを見た。
凛とした涼やかな目元は、本当にエヴァンスに似ていた。
「言ったであろう。私は約束は守ると、タケル」
「あの……約束って……?」
初めて会った時にも、約束は守ると言われた。
だが、タケルにはアヴェリュスと約束をした覚えなどない。
そもそも初対面のアヴェリュスと、約束など交わせるはずがない。
疑問に思案するタケルの頭を、アヴェリュスは撫でるように軽く二度、三度と叩いた。
「頼んだぞ、タケル」
口元に香るような柔らかな笑みが浮かんだ。
春の日差しを思わせる温かく柔らかな笑みは、息子を愛する父親の笑みだ。
不意にアヴェリュスの姿に、父親の姿が重なった。
いつも自分の身を案じ、全力で愛してくれる強く優しい父。
父親はタケルが手術を受け、元気に走れるようになることを望んでいた。
その父親の思いを考えると、タケルの胸はいつもスンと痛くなる。
「頼んだぞ」
繰り返された言葉に、タケルは肯定することも否定することも出来なかった。
ただ慈愛に満ちた眼差しで見つめるアヴェリュスの姿に、自分に対する深い信頼を感じた。
だから、頑張ってみようと思った。
自分でも単純だなと思う。
ただエヴァンスの結婚を望む、アヴェリュスの願いを叶えてやりたいと思った。
自分は手術を望む父親の願いを叶えてやることは出来ない。
どう考えても、50%しか成功率のない手術なんて受けられない。
だから代わりにアヴェリュスの願いを叶えてやろうと思った。
それが単なる自己満足で現実のすりかえだとしても、それが今のタケルに出来る精一杯だった。