第一話
白い壁。
白い床。
白いカーテン。
わざとらしいほどの白が、神経を逆なでする。
漂う消毒液の匂いにすら、暁 タケル は激しい嫌悪感を抱いた。
「俺、絶対に出るからね!」
病院のベッドに身を起こし、傍らに立つ両親に向かいタケルは叫んだ。
幼稚園の卒園式も小学校の卒業式も、心臓の病のせいで参加出来なかった。
中学の卒業式まで、あと三日。
未明に発作を起こし、救急車で病院へと運ばれた。
そこで医師から安静と検査のための一週間の入院を告げられた。
風邪をひきながらも休まずに、卒業式の練習に出た。
卒業証書を受け取る練習を、家の鏡の前で何度もした。
それなのに今更入院で式に出られないなんて、納得出来るはずがない。
「わがまま言わないで、タケル」
「わがままなんかじゃない!」
困惑した面持ちで言葉を紡ぐ母親を、タケルは睨み付けた。
「中学の卒業式は無理でも、高校、大学と、まだ卒業式はあるじゃない」
「それまで生きていられるかどうかなんて、わからないじゃないか!」
「タケル!」
諌めるように父親が名を呼んだ。
言葉を失ってしまった自分の眼差しに良く似た母親の薄茶の瞳が、みるみるうちに潤みだす。
その表情に、胸がツキリと痛んだ。
だが暴言を吐いたことに謝罪するだけの余裕は、今のタケルにはなかった。
今にも泣き出しそうな母親から、ツイと顔を背ける。
父親が跪くのを気配で感じた。
視線を逸らしたままのタケルの手を、大きな手が労わるように包み込む。
「先生の話を聞いただろう。手術をすれば元気になれるんだ。運動だって出来るようになる。修学旅行だって遠足だって、我慢する必要はなくなるんだ」
静かな口調の父親の言葉に、タケルは目を見開いた。
信じられない言葉に、射るような双眸を父親へと投げつける。
「父さんは成功率が 50% しかない手術を、俺に受けろっていうの!?」
「50% しかじゃない。50% もあるんだ」
真摯な眼差しだった。
その波立たない穏やかな眼差しが、逆に神経に障った。
「父さんは自分が受けるわけじゃないから、そんなふうに言えるんだ!」
堪らずタケルは叫んだ。
「もし失敗したら死んじゃうんだよ!? その確立が半分もある手術なんて、受けたくない!」
完治は望めないと聞かされていた。
今の技術では、手術は難しいと。
だから諦めた。
このまま胸に爆弾を抱えたまま入退院を繰り返し、静かに生きてゆくしかない。
そう覚悟を決めていた。
それが、一月前。
検査で病院を訪ねたタケルの前に、アメリカ帰りだという日本人医師が現れた。
そして、こう言った。
手術をすれば治ると。
ただし、成功する確立は 50%
数字で言われても、実感がわかなかった。
だから言い換えた。
成功する確立は、半分。
途端、恐怖がタケルを襲った。
生き残る確立も、死ぬ確立も同じなのだ。
そんな手術、どう考えたって受けられるはずがない。
今のままでは、成人式を迎えるのは難しいと言われた。
それでもいいとタケルは思った。
成人式までは、あと五年ある。
五年生きられればいい。
自らの手で、寿命を縮めるような真似はしたくはなかった。
だが、両親は違った。
成功する確率が 1% でもあるのなら、手術を受けさせたいと言った。
信じられなかった。
失敗したら、死んでしまうというのに。
そんな危険な手術を勧める両親の気持ちが、タケルには分からなかった。
「死んでも……いいと思ってるんでしょう」
「タケル?」
小さな声に、父親の引き締まった眉毛がひそめられる。
「どうせ長く生きられないんだ! 手術が失敗したってかまわないよね!」
言い終えた途端、左頬に衝撃が走った。
「あなた!」
肌を打つ乾いた音に、悲鳴に近い母親の声が重なった。
「子供の幸福を願わない親がどこにいる!?」
言われなくても、分かっている。
父親が高額な医療費の支払いのため、毎日遅くまで残業していることを。
母親が自分の看病のために、好きだった仕事を辞めたことも。
どれだけ自分が、愛されているかも。
みんなみんな、分かっていた。
けれども成功率 50% の手術に挑むだけの勇気も覚悟も、今のタケルにはなかった。
「出てってよ」
弱虫な自分。
両親の手術を受けて欲しいという切望が、重圧となって肩にのしかかる。
「二人とも出てってよ!」
八つ当たりだということは分かっていた。
分かっていながらも、叫ばずにはいられなかった。
「行きましょう、あなた」
動けなくなってしまった父親を、柔らかな声音が包み込む。
促されるままに歩みだす父親の背中が、やけに小さく感じられた。
罪悪に胸が痛む。
自分が丈夫にさえ生まれていれば、両親はもっと楽な人生を歩めたはず。
そう思うと、申し訳ない気持ちで一杯になった。
「入院の仕度を整えて、また来るわね」
眦に涙を溜めながらも母親は穏やかに笑むと、父親と共にドアの向こうへと姿を消した。
ドアが閉まると同時に、タケルの瞳から涙が零れ落ちた。
「ごめんなさい」
あんな酷い言葉を言うつもりはなかった。
傷つけるつもりもなかった。
ただ辛くて怖くて、行き場のない思いを両親にぶつけた。
「本当に……ごめんなさい」
届くはずのない謝罪を繰り返すうち、嗚咽は号泣へと変わっていった。