【いぬも食わない】
ガチャリ、と玄関から鍵の開く音がした。この家の鍵を持っているのは自分の他には一人しかいないわけだから、帰ってきたのは愛しの恋人だろう。
近づいてくる足音は心なしか弾んでおり、久々の友人との逢瀬は有意義なものだったのだろうと推測できた。
勢いよくリビングの扉が開いて、僕は振り向きながら出迎える。
「おかえーーー…」
ドンッ。
という音と共に、視界に恋人を映す前に、可愛い恋人は僕の腕に飛び込んできた。
「なに、急に」
どうしたの、と続けようとした言葉は、それよりも大きな声に遮られた。
「慧の馬鹿!」
「………はい?」
ちなみにいい忘れていたが、慧というのは僕の名前である。そして、僕の腕の中で僕の胸をポカポカと叩いているのは、僕の恋人、理人である。
フワフワとした茶色い髪が、僕の腕の中で髪が揺れている。
明るめの茶色い髪の毛は猫っ毛で、自分でやると絡まるから、とブローをしてあげてるのは僕の役目だ。染めていてもケアはきちんとしているから、軋んだところもなく、その髪の指通りは良い。
毎回、ブローしてるうちにウトウトしはじめて可愛いんだよなぁなんてことを思いつつ、いきなりの発言の真意を問いたいのだが……。
「アホ、ドジ、マヌケ、オタンコナス……!」
久々に聞く古めかしい罵倒を浴びせてくる恋人の顔を持ち上げてじっと見つめると、僕の母親譲りの整った顔立ちがどうやら好みらしい理人の頬がほんのり赤く染まる。
「理人、どうしたの?」
「この鈍感男っ、慧のイケメ……あれ?」
うん、イケメンは悪口じゃないね。そして理人に鈍感と言われる筋合いはないと思うんだけど。
罵倒がやんだと思いきや、今度は変なことを言い出した。
「中華が食べたい」
「中華?明日は鍋にしようかって言ってたけど、お昼は中華にしようか。」
「今度の日曜日、ネズミの国に行きたい」
「うーん、シフトかわってもらえるか頼んでみるよ。確か鈴木のシフトこの前代わってあげたし、お詫びに代わらせるね」
「……女のアドレスは、全部消してほしい」
「うん?母親と妹以外なら、別に困らないからいいよ」
ゼミとかの連絡は自宅に電話か、理人と共有のパソコンにしてもらえばいいし。
そういうと、理人は照れではなく怒りで真っ赤になった顔をさらして怒鳴った。
「あーー、もうっ!どうして怒らないのさ!」
こんなにわがまま言ってるのに、と頬を膨らませる理人の姿は、可愛い以外の何物でもない。
「だって、慧は中華嫌いじゃないか!」
「うん、まあ、好きじゃないけど。アレルギーで100%食べられないわけでもないしね。そんなこといってたらいつまでたっても理人は中華食べられないじゃない」
「っ、人混みは嫌いだって言ってたし!」
「まあ、好き好んでは行きたくないけど。でも、理人は一緒に行きたいんでしょ?」
「女のアドレス全部消せなんて言われて、なんでホイホイ頷いちゃうんだよ!」
「んー、それで理人の不安が解消されるなら、それくらいは僕としては許容範囲なんだけど」
さずかに口を一切利くなとか言われたら不便だけど。バイト先にも女の子いるしね。
そして、どうやらこの恋人は、僕を怒らせたいらしいということはなんとなくわかった。
「理人、ほんとに今日はどうしたのさ」
「……俺達、付き合って2年経つよな」
「うん、そうだね」
「その間、一回も喧嘩なんてしたことないじゃないか」
「……ああ、たしかにそうかもね。」
「そうかもね、じゃねぇよ!俺が怒ってもわがままいっても、いっつもお前がすぐ折れて俺のいいようにしてくれちまうんじゃないか!」
間違ったことをすれば、怒るのではなく諭してくれる。子どもに言い聞かせるようにやさしく、だ。
「俺は慧の地雷がなんなのか気になる。喧嘩したいとは言わないけど、一回も怒らないなんて、どう考えてもおかしいだろ?」
「うーん、怒ることはあるよ、もちろん」
「お前の怒るっていうのはあれか。耳垂れた犬みたいな困った顔して【こうしてくれないと困るんだけど】って言うあれなのか!」
「…僕そんな顔してるの?」
「してる!」
ハアハアと息を切らす勢いの恋人を宥めるためにソファーに座らせて、熱い紅茶を入れてやる。
理人はコーヒーがあまり得意ではなく、ふんわりとした童顔な顔立ちと雰囲気によらず紅茶はストレート派で、ミルクや砂糖の類いは一切いれない。
慧が紅茶を手渡すと、ありがとう、とカップを両手で受け取った。
こういう些細な感謝の言葉を、この恋人は欠かさない。当たり前のように思えて、当たり前だからと言わなくなることも多くなる中で、理人は笑顔でどんな些細なことにも感謝をきちんと言葉で伝えてくれる。
そんなことが嬉しくて、やはり怒るとかくだらないことだと呆れるよりも、甘やかしたいし可愛がりたいのが僕の本音だ。
「……変なことばっか言って、ごめんな。ただ、慧は絶対に怒らないのは、怒りたいのに我慢してるのかなとか、俺に怒る価値なんてないのかなとか、ほんとはどうでもいいと思われてるからなのかな、とか。色々なこと考えちゃったら、止まんなくなった」
ぽつり、と頭を下げて呟く姿に、気にするなと僕は立ったままソファーの後ろから小さな頭を抱き締めた。
「僕はね、無茶なことしたらそれは叱るし、間違ったことは間違ってるっていうよ。ただ、それよりも理人を甘やかしたいし、叱る言葉より好きだと言いたい。……それこそ、どうでもいいなんて思ってるわけないじゃないか。」
だから、不安に思うことなんてないんだと伝えると、コクンと理人は頷いた。
「……ん。ごめん、なさい」
「ん、いい子。」
そっと口づけようと理人の顔を持ち上げて屈みこむと、ふと理人の首筋に見覚えのないものが目に入った。
途端、自分の眉がひそめられ、険しい表情になったのが自分でも分かる。
キスを察して目を閉じた理人の頬をぎゅうっと挟み、問いかける。
「理人、これは何?」
「ふぇ?」
突然の問いかけにぽかんとしながらも、理人は慧の視線の先をたどって……。
「っ〜〜〜〜…、なんだ、コレ!?」
はっきりと残るキスマークに、本人は大声をあげた。
「…身に覚えはないわけ?」
「ないってば!慧以外にこんなことするやついない……………あ。」
「……『あ』?」
さあっ、と理人の顔から血の気が引いていく。
どうやら、身に覚えがあったらしい。
「今朝はそれ、なかったよね?どこで誰と、何してきたの」
言い訳してみろと言わんばかりに睨むと、びくりと理人の細い肩が揺れる。
人生の中でも片手で数えられるくらいのフツフツと沸き上がる激しい感情とは裏腹に、声のトーンは地を這っていく。
「浮気なんてしてない!これは、そのっ。先輩が、多分映画見てウトウトしてた俺につけたんじゃないかなぁと………。」
思います、という声は小さすぎて聞こえないほどだった。
「先輩?先輩って………もしかして、五十嵐先輩じゃないだろうね」
五十嵐先輩とは、僕のゼミの先輩であり、学部の違う理人と知り合うきっかけをつくってくれた人で……早い話が、理人の元カレである。
五十嵐ゼミのは自身がバイであることをカミングアウトしていたし、僕自身そういった人を見るのは初めてだったから、初めは先輩の彼氏がただ珍しかっただけだったように思う。
それが、遊び人の五十嵐先輩の浮気を知ったとき、いつものように「またか」と思えず憤りを感じた自分を知ったとき、理人への恋心を自覚してしまった。
悲しませたくない、泣いてほしくない。あんな男と付き合うくらいなら僕が幸せにするのに…そんな風に思ってしまっては、もう認めるしかなかった。
どこからか浮気が噂になり理人の耳に届いたとき、傷心の理人につけこんで自分のものにした。
まあ元々友人から付き合うようになった二人だったと聞くし、浮気が原因で別れたあとも友人関係は続いているとは知っていた。しかし……。
「……理人の学部は昨日までテストだらけで、だからデートとかもしばらくしてないよね?」
「は、はい…」
「それでも今日友達と遊んで来なよって言ったのは、テスト終わった者同士気晴らししたいかなぁって思ったからだってことも、僕いったよね?」
「…はい」
「五十嵐先輩と理人が、今はただ友人なのは知ってる。……けどね、久々のデートを譲ったその日に元カレと会ってきた挙げ句、そんなもの付けてくるって、どういう了見?」
目が座っているのを自覚しつつ、首筋にあるキスマークを撫でながらにっこりと微笑むと、ひっ、という声と共に理人は体を震わせた。
「だって…先輩は俺よりも前から慧のこと知ってるから、どうしたらいいか教えてくれるかなぁと思って……それで、相談にのってもらいに…」
「それで?ノコノコついていった挙げ句、ウトウトしてたところにこんなもの付けられて帰ってきたわけ」
「ううっ……」
何も言い返せない理人はどんどん小さくなっていく。
キスマークが、わざわざ服をずらさないとつけられない位置にあることに気付いたとき、自分の中の何かがキレた。
「痛っ!」
ガブリ、と首筋に噛みついて、吸い上げる。
「痛い、痛いってば慧……っ!」
そのままソファーに押し倒し、いつも理人に向ける笑みとは違った種類の笑みを浮かべながら、明るい蛍光灯の下で理人の服を剥ぎ取っていく。
いつもは理人のいう通り黙って電気を消すのに、そうする気もないことに怒りの度合いを悟ったのか、恐る恐るといった感じで理人が問いかけてくる。
「えーと…慧、怒ってる?」
「何そんな顔してるの、理人。僕に怒って欲しかったんでしょ?」
にっこりとした微笑めば、それに比例するように理人の顔が恐怖にひきつっていく。
「ご期待通り、僕は今、すごく怒ってるみたいだから。その体で僕の怒りを心行くまで堪能するといいよ」
「い……、いやだぁぁぁぁっ」
/
翌日。
妙にツヤツヤした肌で眠る慧と、朝からコンビニで買ってきた慣れないファンデーションを片手に、顔から足にまで散らされたキスマークと格闘する理人の姿があったとかなかったとか。
FIN