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事件編

「海水浴?」

『そっ! 暑いし、一緒にどうかと思って。瑞穂もどう?』

 二〇一〇年七月十七日。東城大学法学部一回生の深町瑞穂は、東京・港区にある自宅の自室で、友人と携帯で長電話をしていた。

 相手の友人は笠原由衣。中学時代の同級生で、現在は桜森海洋大学一回生。両親が水族館職員だった影響か自身も同じ道を希望しており、大学では海洋生物学を専攻しているという。同時に水泳がうまく、中学時代に全国に出場した経験もある。その実績から、私立桜森大学付属桜森学園高等部という名門高校に推薦入学し、そこから桜森大学系列の現在の大学へと進学していた。

「どこに行くの?」

『まだ詳しくは決めてないけど、湘南海岸辺りかな』

「湘南海岸って……けっこう範囲広いけど」

 湘南海岸は神奈川県の相模湾に面した逗子市、鎌倉市、茅ヶ崎市、大磯町という四つの自治体にまたがる広大な海岸である。夏場は海水浴場でにぎわい、首都圏に住む人間がよく訪れる海水浴場でもある。

『一応、鎌倉の辺りを予定しているんだけど、予定では二十日に泊りがけで行くつもり』

「面子は?」

『大学のゼミの友達が四人ほどとゼミの教授。でも、それじゃ寂しいしいつもと同じ面子っていうのもなんだから、瑞穂もどうかって思って』

 瑞穂は手帳を開くと、予定を確認した。

「別に予定もないし、行ってもいいけど」

『わかった。何なら、友達を連れてきてもいいよ。実は急に何人かキャンセルして、部屋が余っちゃったの。キャンセル代もったいないし、むしろ誰でもいいから連れてきてほしいな』

 瑞穂はしばし考え込む。

「何人くらい?」

『そうねぇ。四~五人はまだ大丈夫』

「男の人でもOK?」

『別にいいわよ。こっちにも男子がいるし。あっ、ひょっとして彼氏?』

 由衣が向こうで意味ありげな声を出す。が、瑞穂は苦笑すると、

「違うの。ただ、連れて行ったら面白そうな人に心当たりがあって」

 とだけ言った。


「というわけで、海水浴行きませんか?」

 翌日、品川の裏街にある古ぼけたビルの二階、瑞穂のバイト先である榊原探偵事務所で、瑞穂はここの主である私立探偵・榊原恵一に提案していた。

 榊原は年齢四十四歳。十二年前まで警視庁捜査一課で警部補をしていたが、ある事情で退職し、以降はこうして探偵事務所を開いている。その推理力は相当なもので、今までにも日本犯罪史に残るような大事件をいくつか解決し、世間からは名探偵という認識がなされている。瑞穂は高校時代からこの事務所に自称弟子として入り浸り、榊原にくっついて様々な事件に関与していた。そして、大学進学と同時に正式にアルバイトの事務員として採用されていたのである。

 その榊原であるが、こんな暑い最中にもかかわらず、ヨレヨレのスーツにネクタイという一見してくたびれたサラリーマンのような格好をしている。気温が今にも四十度を超えそうという記録的猛暑にもかかわらず、この男はスーツの上着を脱ぐことなく、平然と普段通りの服装で夏をすごしていた。冬でも何も羽織ることなくこの格好を貫き、暑かろうが寒かろうが一年通してこの格好である。瑞穂は榊原の体温調節機能はどうなっているのかとつくづく不思議に思っている。念のため言っておくと、この事務所にクーラーなどという文明の機器はなく、古い扇風機がガタガタ回っているだけである。

「榊原さん、よくそれで持ちますね」

 入り口近くの秘書席から、この事務所で秘書のバイトをしている真木川女子大学文学部四回生の宮下亜由美が暑そうに声をかけた。彼女は一応秘書ということでスーツを着ているが、それでも上着は脱いでカッターシャツである。対する瑞穂もバイト先ということでそれなりに自重はしているが、かなり薄手の私服を着ている。明らかに榊原だけがこの中で浮いていた。しかも恐ろしいことに、汗をほとんどかいていない。

「なぜ私が海水浴に行かねばならないんだい? 君たちだけで行ったらいいじゃないか」

 渋い顔で榊原は当然の疑問を聞いた。事件に対しては徹底的に捜査をする榊原であるが、通常時はかなりのんきで面倒くさがる傾向が強い。そのため事務所の宣伝をほとんどせず、名探偵の呼び声が高いにもかかわらず、事務所は常に閑古鳥が鳴いていた。

「先生、はっきり言ってこの暑苦しい事務所でそんな暑そうな格好をしている先生を見ているとイライラしてくるんです。せっかくのお誘いなんですから、たまには海で泳いでみましょうよ!」

「行っても疲れるだけだ」

 榊原はそう言って手元の文庫本に目を移した。あからさまに興味がないらしい。

「女の子の水着が見られるんですよ! 普通の男の人なら舞い上がって喜ぶものじゃないんですか?」

「私がその手の話題に疎いのは君もよく知っているだろう?」

 瑞穂はため息をついた。榊原は女性に関しては恐ろしくドライで、恋愛感情というものが欠落しているのではないかと、瑞穂は一時期まじめに考えたこともあった。そのくせ、事件の渦中でそういった女性問題が出てきても問題なく解決するのだから何がなんだかわからない。

「じゃあ全く興味ないと?」

「ないね」

 即答され、瑞穂はため息をついた。嘘をついている様子はない。というか、ここで榊原が積極的に「行く」と言い始めたら、それはそれで瑞穂は榊原が暑さでおかしくなったと考えるのではないかとふと思ってしまった。

「亜由美さん、一緒に行きませんか?」

「湘南海岸なら子供のころからよく行っていたから、今さら行っても……」

 亜由美の出身地は神奈川県鎌倉市である。現在は大学に通うため上野に下宿しているが、実家との折り合いがあまりよくないという話を聞いた事があった。

「でも、瑞穂ちゃんのお誘いじゃ断れないわね」

「ありがとうございます!」

 苦笑しながら答えた亜由美に、瑞穂は頭を下げた。

「で、先生。本当に来ないんですか?」

「行かないよ。楽しんできなさい」

 瑞穂は再度ため息をついた。

 と、不意に電話が鳴った。榊原が出る。

「はい、榊原探偵事務所」

『お久しぶりです。深町遼一です。瑞穂がいつもお世話になっております』

 その言葉に、榊原は思わず正面の瑞穂を見た。深町遼一は瑞穂の実父である。

『実は、折り入ってご相談したい事がありまして』

「何でしょうか?」

『すでに瑞穂から聞きお呼びかもしれませんが、娘が友人たちと海水浴に行くとのことです』

「はぁ、それが何か?」

 嫌な予感がしながら榊原は尋ねた。

『娘と一緒に行っていただけませんでしょうか?』

「は?」

 榊原は聞き返した。

『ここだけの話、娘に悪い虫が寄り付かないか非常に心配なのです!』

「わ、悪い虫って……」

『娘は私たち夫婦の宝です。その娘にわけのわからないチャラチャラしたナンパ野郎が寄ってくるのが断じて許せない。夏の湘南海岸ですからそんなやつがいないとは思えない。そこで、あなたがついてさえいれば、そんなやつは寄って来ないと思うのです』

「はぁ」

 要するに、娘に男が寄り付かないよう見張ってくれということである。確かに、中年男が、まして元刑事が近くにいれば寄ってくる男はいなくなるだろう。しかし、これは探偵事務所にする依頼ではないのではないかと榊原は思った。

「でもよろしいので? そもそも私が一緒にいること自体が色々世間的に問題ではないかと……」

『ああ、それは大丈夫です。榊原さんが女性方面に全く関心ないのは私自身よく知っておりますし、あなたのことは今までのことで信用していますから』

 榊原は苦々しい顔をした。以前、ある一件で瑞穂の自宅を訪れ彼と話した事があるが、その際なぜか意気投合してしまい、大体のことはお互いよく知っていた。それに瑞穂が榊原と関係ないところで何度か事件に巻き込まれたとき、榊原が全力を尽くして瑞穂を助けたことに感謝しており、榊原に対して全面的な信頼を置いている。事実、瑞穂がここでバイトすることに、あまり反対はしなかったようだ。

『そんなわけで、娘と一緒に行っていただけませんか? もちろん、これは正式な依頼ですので、費用はお支払いします』

「は……はぁ」

『それと、このことは娘には内密に。こんな事がばれたら後で色々言われてしまいますからな。さりげなくついていってやってください』

「……」

 目の前で今まさにこの会話を聞いている瑞穂を見ながら榊原は黙るしかなかった。

『それではよろしくお願いします』

 電話が切れ、榊原が顔を見上げると、満面の笑みを浮かべた瑞穂がいた。今度は榊原がため息をつく番であった。


 七月二十日。神奈川県鎌倉市湘南海岸の海水浴場。夏休みに入ったばかりのこの日、まだ午前中だというのに海水浴場は人で溢れていた。

「海だー!」

 その入り口で、瑞穂は大声で叫んでいた。周りの客が何事かとこっちを見ている。

「瑞穂ちゃん、いくらうれしいからといって、周りのことも考えなさい」

 榊原が渋い顔で諌める。その榊原は前日同様、スーツにネクタイ、さらには黒のアタッシュケースという海水浴場にはあまりにも似つかわしくない格好だ。さすがに日差しが眩しいのかサングラスをかけているが、それがますます場の雰囲気にそぐわない。どこかのエージェントかボディガードにしか見えず、そのせいか周りの人間は瑞穂たちに近づこうとさえしない。ある意味、ちゃんとナンパ防止の役目は果たしている。

「先生、その格好はどうにかならなかったんですか?」

「普段着で来て何が悪いんだい? サングラスは日差し対策だ」

「暑くないんですか?」

「別に」

「こんな暑い中でそんな格好していたら、不審者として警察に職務質問されかねませんよ」

「警察もそこまで暇じゃないだろう」

 そうは言ったものの、榊原はかつてある友人が、夏の真っ盛りに黒い長袖の上着を着て自転車をこいでいたら職務質問を受けたという話をしていたのをふと思い出した。彼は電車のクーラーがきつかったのでそのような格好をしていたのだが、呼び止められたときはあっけにとられたらしい。さすがに榊原もこの格好は場違いだったかと薄々感じた。まぁ、あくまで不審者に見られるからまずいのではないかということであって、暑いからおかしいという発想はなかったのだが。

「ねぇ、瑞穂。何でよりによってこんな人連れてきたの?」

 瑞穂の横で由衣がヒソヒソと話した。ちなみに、二人は夏相応の半袖のTシャツに膝くらいまである長めの半ズボンという格好である。瑞穂はさらにどこで手に入れたのか麦藁帽子をかぶっていた。

「いいじゃない。うっとうしいナンパ防止には最適だし」

「そりゃそうだけど……」

「それに、いざとなったら頼りになる人よ」

「はぁ、話を聞いていたとはいえ、これが瑞穂の言う名探偵さんとは思えないなぁ」

 隣に立っているスーツ姿の男に、由衣は疑わしげな視線を送る。

「おい、早く行こうぜ!」

 由衣の隣に立つ青年がせかした。千葉精一。桜森海洋大学一回生で由衣と同じゼミの学生である。やや日焼けして、精悍な青年だ。

「待ってください。先に民宿に荷物を置きに行きましょう。教授も民宿で待っているって言っていましたし」

 千葉の隣にいる青年が声をかけた。重村文博。千葉同様、桜森海洋大学の一回生である。眼鏡をかけたまじめそうなタイプで、この中では一番背が低い。

「そうや、荷物持ったままやったら、水泳も何もでけへんわ」

 式部哲久が重村に同調する。関西出身の明るい男で、身長一八五センチとこの中では一番大柄だ。桜森海洋大学一回生で、ゼミ長もしている。

「ねぇ、由衣さん。民宿ってどこなんですか?」

 稲沢美耶子が尋ねる。小柄でおとなしそうな女の子で、読書が似合いそうな印象を受ける。彼女も桜森海洋大学の一回生だった。薄手のワンピースを着ている。

「この近くよ。行こうか」

 一行は、ぞろぞろと民宿に向けて歩き始めた。

「ところで瑞穂、そっちの面子は二人だけ? 確か三人来るって聞いたけど」

「ああ、亜由美さんが実家に寄ってから来るって。さすがに近くまで来て挨拶なしじゃまずいからって」

「亜由美さんって、そこの探偵さんの秘書の方よね?」

「そうそう」

 と、やがて海沿いに建つ民宿の前に着いた。そこに、一人の初老の男が立っていた。半袖のカッターシャツに長ズボンという格好であるが、少なくとも榊原よりは涼しげな格好だ。

「教授、お待たせしました」

「ああ、早かったね」

 桜森海洋大学教授にして由衣たちのゼミの担当でもある舟木丈太郎がニッコリと微笑みながら手を振った。温厚そうな人物である。

「さっきチェックインしておいたから、各自の部屋で荷物を置いて着替えてきなさい」

「教授は?」

「少し野暮用があるから、それを済ませ次第泳ぎに行く。君たちは楽しみなさい」

 そう言うと、舟木は鍵を彼女たちに渡し、そのままどこかへ去っていった。

「野暮用とは?」

「ああ、多分いつものフィールドワークですよ」

 榊原の問いに由衣が答える。

「せっかく鎌倉まで来たんだから、近くの磯かどこかで海洋生物の調査をするんだと思います。あの教授、研究熱心で有名ですから」

「なるほど」

「さぁ、さっさと着替えましょう」

 全員民宿に入っていった。


 数分後、着替えが終わり、全員が民宿の前に集合した。本来ならここで女性諸君の水着がいかなるものかを熱く語るのがこういった海水浴を主題とする小説の醍醐味であり、この作品を読んでいる男性諸君もそれを望んでいるのだろうが、それをはじめると長くなる上に物語の趣旨から大きく外れるので割愛してしまおう。ただ、女性たちの水着姿に約一名を除いた男性諸君が感嘆の声を上げたということだけは言っておく。

 で、その約一名、すなわち榊原恵一の格好はといえば……

「先生、結局泳がないんですか?」

 瑞穂が呆れて聞く。榊原は、さっきと全く変わらぬ格好だった。スーツにネクタイにサングラスにアタッシュケース。さらに砂浜ゆえ他のメンバーは今まで履いていたビーチサンダルを脱いで裸足だというのに、この男は革靴のままだ。見るからに歩きにくそうである。

「海に来たからといって泳ぐ必要はないだろう」

「泳がないなら民宿にいればいいのに」

「それは遼一氏の依頼に反するからね。一応監視はしておかないと依頼料がもらえない」

 榊原は相変わらず苦い表情で告げた。やはり、事務所の財政は相当危ういらしい。もっとも、サングラスのせいでその表情は長年付き合っている瑞穂くらいしか読み取れなかったが。

「だいたい、そのアタッシュケースには何が入っているんですか?」

 相変わらず大事に持っているアタッシュケースを見ながら瑞穂が聞いた。

「ほとんど文庫本だが」

「文庫本?」

「君たちが泳いでいる間は読書でもしようかと」

 なら素直に泳げばいいのに。瑞穂はそう思ったが、もはや何を言っても無駄だと思って黙っておいた。

「おーい!」

 と、向こうから誰かが呼びかけた。瑞穂が振り返ると、ワンピース姿の亜由美が駆け寄ってきた。

「ごめんなさい。実家でちょっとゴタゴタして。これから泳ぐの?」

「そうです。あ、みんな紹介します。榊原さんの秘書のアルバイトをされている宮下亜由美さんです。真木川女子大学の四回生なんですよ」

「よろしく」

 亜由美は軽く頭を下げ、海洋大学の学生たちも慌てて全員頭を下げた。

「この辺りのことはよく知っているので、何かわからない事があったら聞いてください。じゃあ、私も着替えてきますね」

 そう言うと、亜由美は民宿に入っていった。

「じゃ、行きますか!」

 由衣の掛け声で、全員海に向かって裸足で走り始めた。ただ一人、榊原だけは革靴で砂を踏みしめながらゆっくり砂浜に降りると、適当な場所にビーチパラソルを立て、シートを敷いてサングラスを外し、民宿から借りてきたバーベキュー用の机と椅子をセットすると、そこでそのまま読書を始めてしまった。

「金田一耕助だって作品で水着姿を披露しているのに、うちの名探偵はまったく……」

 瑞穂はそんな榊原の姿を見ながら盛大にため息をついた。


 青い海、白い砂浜、照りつける太陽、浜辺に響く女性たちの声、浜辺を走る人々が散らす水しぶき、ライフセーバーたちの声、そしてパラソルの下で一心不乱に文庫本を読みあさるスーツ姿の名探偵。

 明らかに場違いな物が一つあったが、とにかく浜辺はそんな光景を映し出していた。

「榊原さんは行かないんですか?」

 水着に着替えてきた亜由美がパラソルに近づき尋ねた。水着に関しては詳しくは語らないが、大人びた彼女の姿に周りの男たちが一瞬でも彼女に釘付けになったということは言っておこう。いつもはストレートの長髪を束ねており、それがまた魅力を引き立てている。あるカップルなど、男が亜由美の方を見たことに女が嫉妬して、強引に海のほうに引っ張っていき、そのまま男と一緒に海に飛び込んだりした。が、榊原は文庫本から顔さえ上げようとせず、

「ああ」

 とだけ答えた。机の上には読み終えた本が何冊も散らかっている。事務所の机をそのまま浜辺に移籍してきたような状態だった。ちなみに、本の題名は『湘南海岸殺人事件』とか、『東海大震災~太平洋沿岸の津波への予防策』とか、『サメはなぜ人を襲うのか~サメ研究者の提言』とか、どう考えても場の雰囲気を読んでいないものばかりだったが、本人は一向に気にしている様子がない。

「君は行かないのかね?」

「行きますけど、瑞穂ちゃんたちがどこにいるのかわからないんですよねぇ」

 浜辺は人でごった返し、しかも全員(榊原除く)水着なので誰が誰だか区別がつかない。

「それにしては、私の場所はすぐわかったようだね」

「目立ちますから」

 亜由美は遠慮なく言う。が、榊原は相変わらず顔を上げない。周りの野郎どもは、このシチュエーションで全く反応しないスーツ姿の男にものすごい視線を向けているが、当の本人たちは一切気がつく様子がない。

「それにしても、随分時間がかかったね。民宿前で別れてから二時間くらいか」

「出かける直前に実家から宿に電話がありまして、『話はまだ終わってない』って言ってきたんです。今度は電話越しに二時間押し問答ですよ」

 亜由美はため息をつきながら言った。榊原としては実家とどんな揉め事があったのか気になったが、あえてスルーすることとした。

「で、瑞穂ちゃんはどこですか? 監視しているなら場所くらいわかるはずですよね?」

「ん、ここから北西へ三十メートルほど行った場所だよ」

 榊原は結局一度も顔を上げないまま告げた。

「一度も顔を上げないでよくわかりますね」

「時々は見ているし、仕事もちゃんとしている」

 この水着姿の男女でにぎわう浜辺で本を読みながら瑞穂を見失わないのもある意味すごいし、それ以前に一歩も動かずにどうやって男どもを追い払っているのか亜由美はすごく気になったが、口に出すのも野暮なので黙って言われた方に向かった。

「あ、亜由美さん!」

 瑞穂が手を振っている。見ると、由衣と瑞穂が千葉を砂で埋めている真っ最中だった。千葉は砂の中から顔だけ出して苦笑している。

「何というか、定番をしているわね」

「こういう定番をやるからこその海水浴です!」

 瑞穂が元気よく言う。

「ナンパとかされてない?」

「何人か私に声をかけようとしたみたいですけど、その度にゾッとしたような顔をしてどっかいっちゃうんですよねぇ」

 と、懲りずにこっちに来ようとした若い男が、突然ゾッとしたように辺りを見渡し、そのままそそくさと帰っていった。

「あんな感じです」

 亜由美が黙って榊原の方を見ると、榊原は本から顔を上げてジッと男のほうを睨みつけている。その強烈な視線を感じ、視線の先にいる場違いな謎のスーツ男の姿を見て大抵の男は逃げていくようだ。ヤクザか何かと勘違いしているのだろうか。ただ、ある意味ちゃんとボディガードにはなっている。男が去っていくと、榊原は面倒くさいと言わんばかりにため息をついて再び本に目を落とす。おそらく、本当に何でこんなことをしているんだろうとでも思っているのだろう。亜由美にもその程度はわかった。

「この状況を本当にビジネスとしかとっていないようね」

「どこぞの殺し屋じゃないんだから、気楽にやればいいのに。大体、水着の若い女の子を見て何とも思わないなんて失礼ですよ」

 瑞穂がやや不満そうに言う。

「まぁまぁ、それが榊原さんらしいところじゃない」

「そうですけど」

 と、下で千葉が発言した。

「おーい、俺のこと忘れてないか?」

「あ、もっと埋めてほしい?」

 由衣が冗談交じりで言うと、さらに砂をかけ始めた。

「か、勘弁してくれぇ」

 千葉が笑いながらも悲鳴を上げる。

 と、不意に陸地側のほうが騒がしくなり、一人の男が降りてくる。こちらは腕まくりしたワイシャツを着込んだ中年男性だ。

「何かしら?」

 由衣が尋ねるが、見ていると男は榊原の方に向かっていた。

「事件かしら?」

「まさかぁ」

 亜由美の発言を瑞穂は打ち消したが、どうも乾いた笑いにしかならなかった。


「いや、まさかあなただったとは」

 榊原のパラソルの前で男は難しい表情をしていた。

「ええっと、神奈川県警の大内警部でしたね」

「大内宏です」

 榊原の問いに大内警部は苦笑いしながら言う。榊原とはかつて警視庁時代に合同捜査した事があり、現在でも何件かの事件で世話になっていた。

「全く、浜辺に不審者がいるという通報があったから来てみれば、あなたとは思いませんでしたよ」

 瑞穂の言った通り本当に警察の職務質問を受ける羽目になってしまい、榊原は苦笑いするしかなかった。

「そんなに変な格好ですか?」

「少なくともこの暑さの中、スーツ姿で浜辺で読書にいそしむ男なんかいませんよ」

「はぁ、そんなものですか」

 榊原は納得できないように言う。

「せめて水着を着てくださいよ」

「とは言っても、一応仕事中ですからね」

「仕事?」

「たいした仕事じゃありませんよ。ちょっとしたボディガードです」

 榊原はちらりと瑞穂の方を見ながら言った。

「それよか、県警刑事部捜査一課のあなたが何でこんなところに? 不審者への職務質問なんて刑事課の仕事じゃないでしょうに」

「海水浴の客が多いので、この時期は各地の海水浴場で色々と起きるんですよ。何せ関東中の連中がこの湘南海岸に押し寄せますからね。とても地元の警邏警官たちだけじゃ足りないので、関係ない課の我々も臨時で借り出されているというわけです」

 と、向こうから同じくワイシャツ姿の男が駆け寄ってきた。

「警部、あっちでレイプ未遂事件です」

「またか。くそっ、きりがない」

「レイプ未遂?」

 榊原が眉をひそめる。

「ええ、ナンパした女性を勢いに乗って押し切ろうとする馬鹿野郎が大量に出没するんです。まったく、困った話です」

「はぁ、大変ですね」

「とはいえ、放ってはおけませんからね。まったく、解放的だからといってはめを外す輩が多くて困る!」

 大内は舌打ちしながら言った。と、報告した刑事が榊原の方を見て驚いた表情をした。

「あれ、榊原さんじゃないですか」

「水島刑事もお久しぶりです」

 榊原は頭を下げた。刑事は水島高夫巡査部長といい、大内の部下だった。いくつかの事件を通じて面識がある。

「今日は朝からてんてこ舞いですよ」

「そんなに多いんですか?」

「今言ったレイプ未遂の他に、置き引きとか盗撮とかきりがないんですよ」

「他の海水浴場も似たようなものです。とにかく急ごう。榊原さんもあまり不審者扱いされないようにしてください」

「はぁ」

 そう言うと、二人の刑事はどこぞへと走り去っていった。

「私はそんなに不審者に見えるのかな? やはりこの仕事にスーツはまずかったか?」

 暑いからスーツを脱ごうという感覚は相変わらずないようだった。


 それからさらに一時間が過ぎた。榊原は結局スーツを脱ぐこともなく本を読み続け、たまに瑞穂に寄ってくる男どもに睨みを聞かせ、深いため息をつきながら再び読書に戻るという作業を繰り返していた。

「ふう」

 榊原は持っていた本を閉じた。持ってきた本を全部読み終えてしまったらしい。

「あ、先生、本を読み終えたみたいですよ」

 浜辺で遊んでいた瑞穂がそれに気づいて亜由美に言う。

「次どうするんでしょうか?」

「うーん、まぁ、なんとなく予想がつくわね」

 榊原はしばらく何事か考えていたが、不意に足元のアタッシュケースを開くと何か紙の束を取り出した。

「もしかしてあれって……」

「この間依頼された人探しの報告書。昨日、アタッシュケースに詰めているのを見たの」

 亜由美が諦めた表情で言う。

「ここまで来て仕事ですか。泳ぐっていう選択肢はないんですか?」

「よほど泳ぎたくないのね。泳げないとか」

「いや、確か泳げるはずですよ。刑事時代に海に飛び込んで人を助けたって話を聞いた事がありますし」

 言っているうちに、榊原は机の上に書類を広げると、胸ポケットからペンを散りだしておもむろに真剣な顔で何かを書き始めた。

「うわぁ、本当に仕事してますよ。人々が遊びに酔いしれる真夏の海水浴場で」

「真面目なのか変人なのかわからないわ」

 二人は互いに顔を見合わせると、大きくため息をついた。

「もう、考えるのやめようか」

「それがよさそうです」

 当の榊原は、せっかく休暇を取って仕事を忘れてエンジョイしていた世のお父さん方が嫌味とも取れる榊原の行動に対し白い視線を向ける中、一心不乱に書類整理を続けていた。

「おーい、いい加減に出してくれぇ」

 千葉が砂に埋もれたまま呼びかけている。あれから掘り出してもらえないままここまできてしまったらしい。それを見て、合流した重松や式部がクスクス笑っている。

「似合っとるで、千葉」

「うるせぇ! おめぇらこそ、どこ行ってたんだよ!」

 式部の発言に千葉が冗談交じりで尋ねる。

「俺らか? お楽しみの邪魔するのも悪いと思って、その辺で適当にナンパしとったけど」

「気を利かせたつもりかよ」

「かわいい女の子三人に埋めてもらえるなんて、うらやましいじゃないですか」

「良くない! 大体、美耶子のやつはどこいったんだ?」

千葉の問いに、重村が答える。

「教授にお弁当を届けに行きました。ほら、持ってきてくれって頼まれていたじゃないですか」

「そうだったか?」

「そうですよ。だから、千葉君が埋められる前に由衣さんと美耶子さんがジャンケンして、負けた美耶子さんがお弁当作りに宿に戻ったはずですよ」

「手作り?」

「ついでだから、一緒に僕たちの分も作るそうです。教授に届け次第戻ってくるとか」

「由衣、そこは手伝いなさいよ」

「まぁ、いいじゃん」

 瑞穂の突っ込みを由衣はさらりと流す。千葉は不満そうに重村に聞いた。

「肝心の教授はどこにいるんだよ」

「あの崖の向こうにある磯と聞いています」

 海水浴場の端に大きな崖が突き出していて、その向こう側がどうも磯になっているらしい。

「にしては、戻ってくるのが遅いな」

「それだけ料理に期待できるってことや」

「どうでもいいが、とにかく掘り返してくれ! 身動きが取れなくて」

 と、向こうから当の稲村美耶子が帰ってきた。料理していたためか水着の上にバスタオルを羽織り、磯に行ったためか最初に履いていたビーチサンダルを履いている。が、その表情はどことなく困惑していた。

「ねぇ、教授知りませんか?」

 その場にいた全員が顔を見合わせた。

「磯にいなかったの?」

「ええ。探してみたんですけど、どこにも」

「場所を間違えたとか?」

 由衣の問いに美耶子は首を振った。

「あの崖の向こうの磯ですよね。他に磯らしい場所はありませんでしたし」

「どっか別のところに行ったかな?」

 式部が不思議そうに呟く。

「まったく、弁当頼んでおいてとんずらかよ」

 埋まったままの千葉が苦々しい口調で言う。

「どうします。お弁当が駄目になっちゃいますけど」

 美耶子が心配そうに言う。

「まぁ、もったいないし俺らで食おうか。悪いのは教授やし。あとは、教授の行方がわかればええんやけど」

 その言葉を聞いて、瑞穂は思わず榊原の方を見た。相変わらず一心不乱に書類にペンを走らせ続けている。

「適任な人ならあそこにいますけど」

 瑞穂の言葉に、全員が榊原の方を見た。

「そう言えば、確か本職の探偵さんでしたね」

「あのままにしておくのも何なので、この際教授を探してきてもらいましょうか」

「そうね。その方が榊原さんらしいし、榊原さんも気分転換になるんじゃないかしら」

 重村の言葉に、瑞穂と亜由美が遠慮なく言う。

「じゃ、頼んできます」

 そう言うと、瑞穂は人が引きまくって回りに誰もいなくなった榊原のパラソルの方に走り始めた。


「人探し?」

 榊原はあからさまに嫌そうな表情で瑞穂のほうを見上げた。

「あと少しでこの報告書が仕上がるんだがね」

「そもそも、真夏の海水浴場で仕事しないでください!」

「本を読み終えたんだから仕方ないじゃないか」

「普通に泳いだらいいじゃないですか!」

「湘南の海は小さいころに何度も来ているから今さらねぇ」

 そう言えば先生は横浜出身だったけなぁ、などと瑞穂は一瞬思ったが、すぐに切り返す。

「じゃあ、そのときみたいにワイワイ楽しんだらいいじゃないですか!」

「では、逆に聞くが、歳のいった中年男性が大学生たちとキャッキャと騒いでいる光景こそシュールだとは思わないかね」

 正論を言われて瑞穂は詰まる。

「そ、それはそうですが。でも、せめて水着に着替えてくださいよ!」

「海水浴場で水着に着替えねばならないなどという法律は存在しない」

「あぁ、もう! とにかく、そこまで言うなら本業の人探しくらいしてくださいよ!」

「仕方ないな。わかったよ、その辺を探してくる。ただ、遼一氏の依頼もあるからあまり本腰は入れられないよ」

「本当に、事件じゃないとものぐさですよね、先生って」

「よく言われるよ」

 榊原は書類をアタッシュケースに納めると、サングラスをかけて立ち上がった。

「じゃ、まぁその辺を見てくるから」

「急いでくださいよ」

 そう言って、瑞穂が戻ろうとしたときだった。

「キャー!」

 突然海岸で絶叫が響いた。


 瑞穂がそちらの方を見た瞬間、すでに榊原は声の方向へ走り始めていた。

「先生!」

瑞穂も後に続くが、砂浜で走りにくい。それに対し、榊原は革靴を履きながら砂浜を難なく駆けて行く。と、向こうから先ほど榊原と話していた男たちも駆けつけてきた。

「あれ? よく見たら大内さんじゃん」

 瑞穂も榊原を通じて大内警部とは知り合いである。

 声が上がったのは浜辺の一角の波打ち際である。その場から逃げる人間と、野次馬として群がる人間の二種類いるようだが、野次馬はライフセーバーが抑えていた。

「どいて、神奈川県警の者だ!」

 大内が野次馬を書き分けて浜辺に出る。榊原は先ほどまでのものぐさな態度はどこへやら、野次馬を掻き分けて前に出ようとする。突然スーツ姿にサングラスという、見るからに不審な男が乱入してきて、野次馬たちは思わず道をあけてしまう。

「ああ、榊原さん。やはり来ましたか」

「何があったんですか?」

 大内に榊原が尋ねる。大内は黙って波打ち際に打ち上げられている物体を指差した。

「キャッ!」

 追いついた瑞穂が小さな悲鳴を上げる。波打ち際には全身がずぶぬれになった男の溺死体が転がっていたのである。

「この人は……」

 榊原の表情が厳しくなった。その瞬間、野次馬の一角から大声が上がった。

「きょ、教授!」

 叫んだのは式部だった。死体の主は行方不明になっていた桜森海洋大学教授・舟木丈太郎のものだった。

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