プロローグ
「もう限界だろう? ――これでもまだ拒むと言うのか?」
奇妙な文様のみが、流れる様に広がる空間。
何もなく、何も存在せず、ただひたすらに無だけが広がるその中で――
「――拒む」
――水晶にはりつけにされている男。
かつては岩石の様に鍛え上げられた肉体を持ち、その両拳でかつては正の契約者の頂点、美徳最強に上りつめた男。
元正義の契約者、北郷正輝が強く拒絶の言葉を示した。
かつての面影など見る影もなく、体は痩せ細っている上に弱り切っており、致死寸前の状態。
そんな事がとても信じられないほどに。
目の前にいるかつての自身の対である、傲慢の契約者、大神白夜に対し。
「――そうか、わかった」
正輝の肉体は、既に限界。
これ以上は無理だと悟った白夜は、正輝に向けて頭を下げた。
「……すまなかったな、随分と長い時間苦しめてしまった」
「……」
「しかし、東城太助の事はいいのか?」
東城太助
北郷正輝の幼馴染であり、正義において技術面や医療面で多大な功績を残した、左腕ともいえるべき存在。
――今は人間と言う存在、そしてこの世界自体に絶望した事で魔王となり、世の脅威の象徴となり果てている男。
「……ここから出る事が叶わないなら、問うた処で意味はない」
「私に頭を下げれば、すぐにでも」
「ふざけるな! 太助に、我が貴様に屈した姿を見せる訳には……これ以上の絶望を強いる訳にはいかん!」
正輝が太助にとって、一体どんな存在か
意思の折れた正輝を見て、太助が一体どう思うか。
元々太助は、自身の所為で全てを失い、心身ともに深い傷を負った。
更に言えば、白夜に敗れたことでも……太助は悲劇に襲われ、人と世界に絶望し魔王となり果てた。
――ここから出る事が出来たとしても、既に自分の存在は太助をより絶望させる要因にしかなりえない。
それが、これまで死に際まで屈する事無き意思を貫く一因になっていた。
「――それに、最早我の存在はこの世界にとって害悪でしかない以上、既に生き恥を晒してまで生き続ける理由は、存在はせんのだ」
「お前を責める権利など、一体誰にある? ――大地の賛美者、犯罪契約者……お前の決断で救われた者達も居れば、お前の働きは時代の秩序の要となり得た。気に入らないと言う理由で否定出来る要素など、何一つないと言うのに」
「――罪を罪と自覚できない者など、腐るほど見て来た……そうなった我に、お前が言うほどの価値などない」
「――そうか」
正輝の眼前に、白夜の右手が差し出され--目の前でぐっと握り締められる。
その手から、白夜の大剣――かつてユウの“灼熱の剛腕”を両断した、真っ白な大剣が構築されていく。
「――ならば、冥府への引導を渡すのは……対であるこの私の役目だろう」
「……嬲るなり、一思いに殺すなり、好きにしろ――できる事なら、我の正義のブレイカーは太助かクラウスに、受け継いでもらいたかったが」
「言い遺す事はあるか?」
「ない」
迷いもなく、正輝はそう言い放つ。
「――我が対にして、我が最大の宿敵、北郷正輝……お前の生き様も死に様も、私は生涯忘れぬ事をこの一撃に誓おう」
「……さらばだ」
白い大剣を構えつつ、刺し貫く構えを取り――
白夜は一歩踏み出し、大剣を握る両腕を前に突き出した。
「…………」
刺し貫いた感触と、確かな手ごたえ。
腕を引くと、ズポッと生々しい音が白夜の耳に入り――
北郷正輝が事切れた事を、確信した。
「…………」
剣の刀身、自身の身体に飛び散った鮮血。
白夜はそれを拭う事もせず、ただひたすらに北郷正輝だった亡骸に、黙祷をささげ続ける。
「……安らかに眠れ」
拘束を解き、亡骸を抱え--白夜はその場から姿を消した。
静寂と無しか存在しない空間がただ広がるだけで、何もなかったかのように。