忘れられた約束
序
今日もまた戦場へ出ている。この五年間はずっと戦場にいる。
別に好きで戦場にいる訳ではない。主人が騎士だから、従って来ているだけだ。そう、主人の護衛として。
「アル、来たぞ! 頼む!」
いつもの台詞。主人はそう言っていつも後ろに逃げる。一騎打ちなどした事はない。一騎打ちは全部押し付けられる。こいつはいつもこう言う。
「私の召使に勝ってからお相手しよう!」
随分と偉そうだが当然と言えば当然かも知れない。タイリー・サルベロと言えば、我がグリクース王国でも大貴族の子弟として名前が知られている。当然、他国の騎士も知っている訳だ。
でも、いつも敵が来ると後ろに逃げてしまう。卑怯者だ、臆病者だ、こいつの目は腐った魚よりも腐った感じがする。事実腐っているが。
「ご主人様、馬から降りてください! 振り落とされます!」
召使、いや奴隷の言う事を良く聞く。
ただし、戦場でだけだが。宿営地に戻ると途端に態度が変わる。
腐っている。自分が倒した訳でもないのに、戦功をあげた事にしている。
「我こそはベトルシ王国第二騎士団騎士長ジョニー・ウィルである! 一騎打ちを所望する! 紋章からサルベロ家のお方と見た、勝負!」
「いかにも我こそはグリクース王国第三騎士団長タイリー・サルベロである! 一騎打ちを所望されたが、私の召使に勝ってからにして頂こう!」
また、いつもの台詞。また逃げる。
「召使と言ったな、名前は?」
「……アル」
「苗字は?」
「……分からない」
「召使に苗字は要らないというのか、不思議な国だ」
「……覚えていないので。それよりも、一騎打ちがご所望ですか」
こちらが歩兵だからか、相手は馬を降りてきた。礼儀正しい騎士だ。腕も立つようだ。主人とは随分と違う。
まあ良いか。いつもの通りにやるだけだ。
「ほう、面白い剣を持っているな。……見たところズースリーの剣のようだ。確か、刀と言ったか。片刃の特殊な剣。突き、斬り、叩く。汎用性の高い剣だが使いこなせる者は殆どいないと聞くぞ。君の武器はそれか」
「……ええ、良くご存知で」
「では、そのズースリーの刀を敢えて使う君に敬意を表して、正々堂々の勝負と行こう」
「……ありがとう御座います。では」
そう言って、刀の柄を握った。鯉口を切り、腰を落とした。間合いは彼らにとっては遠い。大体五メートルくらいか。
こちらにはそんなもの関係ない。間合いなんてあってないようなものだ。走っていって斬るだけ。たいした意味はない。
この刀は、相手の騎士が言ったようにズースリー帝国製だ。ずっと持っている。いつから持っているかは記憶にないが。
実はほとんどの記憶がない。あるのは『電光石火、神速果断にただ一太刀』と、『敵が五千いたとしてもことごとくを唯一人で打ち破る気概で剣を振れ』、そして、『空の境地。無心の境地。生死を気にせず、危急の際に無念無想でただ一つの太刀にかける』という誰かの言葉だけ。
一撃必殺、この言葉も頭に残っている。だから、走り込んでいって下段から上段に抜き打った。
「う……」
この騎士も、今までの相手と同じように声にならない声を出して死んだ。
「よ、良くやった、アル! さ、さすがだ! あ、後の事は任せておけ!」
腐れ外道が。いそいそと相手の首を取りに行った。
あ、流れ矢に当たっていやがる。これは予想外だ。想定外。
見に行ったら、首筋に当たっている。即死しているな。やれやれ。
「おい、どうした!」
味方の騎士か。随分と小柄な騎士だ。全身が鎧兜で顔も分からないぞ。
「……主人が流れ矢に当たり、死にまして御座います」
「そうか。では、私について参れ。ところで、名前は?」
「……主人はタイリー・サルベロ。私はアル、で御座います」
「では行こう」
そして宿営地に戻った。
一
宿営地でしばらく休養するようにと、その騎士から言われた。紋章を見たが王族のようだ。助かったかも知れない、何故かそう思った。
二週間ほど経ってから例の騎士が来た。女だった。
いや、王女。第四王女だと言った。この国では第三王女以外、第五王女までの四人が将軍や騎士団長として戦場に出ている。不思議な国だ。
「アル、と言ったな。ベトルシ王国が降伏してな、捕虜を収監する獄舎がいくつも出来ている。そこで番人が足りんのだ。主人をなくして行くところもないだろう、どうだ、番人をしないか?」
「……お任せ致します」
「気のない返事だな。給料が出るぞ、もちろんグリクース王国からだ。ケチったりはしないぞ」
今までに給料をもらった事はない。休みもなかった。魅力的なお誘いだ。
「……では、仰せのままに」
そうして、獄舎の番人になった。
番人の仕事は退屈だ、何もする事がない。そう言っても良いくらいだ。
担当させられたのは貴族達を収監する獄舎だった。言われるまま見張り、食事を配り、鍵を管理して見回りをする。一人でやらされた。
食事の支度には近隣の村から人が雇われていた。食事時が近くなるとやってきて、作る。そして後片付けをして帰っていく。それを朝と夕の二回繰り返していた。
見張りや鍵の管理、見回りは楽と言うよりも、退屈だ。貴族達は大人しかった。誰かが処刑される事もなく、呼び出される事もなかった。ただ時間だけが過ぎて行った。
「番兵君、何か面白い話しはないかね?」
そう聞かれたが、誰も来ないから話も出来ない。
「……誰も来ないので、情報はないです」
いつもそう答えた。でも、連中は気安く話しかけてきた。話し好きの連中ばかりだった。女性は一人もいなかった。気は楽だったが、寂しい話だ。
給料はもらえたが使う暇がなかった。休みはなかったし、使い道もない。それに、給料と言ってもほんの僅かだった。
時間をもてあましていた。だから、いつも稽古をした。木を横に置いて、両足を前後に開いて腰を落とし、木刀で打つ。
左拳が右目よりも上に来るように刀を立てて構える。当然、右拳は頭よりも高くなる。そして出来るだけ速く打つ。出来るだけ腰を落として。重い木刀を使って。ただひたすら速さを求めて打つ。
電光石火、神速果断にただ一太刀で相手を切り伏せていく気概で打ち込む。遠くから走ってきて、立木を続け打つ稽古もある。あとは戦場で見せた抜き打ちだ。下段から上段への抜き打ち。これもスピードを要求する。正確に言えば、一撃必殺の気概を持ってその全てを行なう。
何の記憶もなく、身体がそう動く。自然と木を横に組んで稽古台を作る。そして自然と木刀を削る。削ると言ってもただの木の棒の節を削り、柄のところを滑らかにするだけだ。不思議と身体が覚えている。そして頭の中で声が響く。
「電光石火、神速果断にただ一太刀で振れ! 敵が五千いたとしてもことごとくを唯一人で打ち破る気概で剣を振れ! 空の境地。無心の境地。生死を気にせず、危急の際に無念無想でただ一つの太刀にかけるのだ!」
誰の声だろう?
ある日、大勢の騎士や歩兵がやって来た。どうやら貴族達を処刑するらしい。まあ、戦争に負けた国の宿命と言えばそういう事になる。
次々に目隠しをされて小突かれるようにして馬車に乗り込んでいった。かわいそうと言えばかわいそうだ。
「番人! 番人!」
「……はい」
「私は第一騎士団長エルド・マグダだ。今回の処分について貴様の耳にも入れておこう。宰相と軍事卿、財務卿といった役職に就いていた貴族以外は釈放、当然王族は処刑せずに生かしてある。どういう意味か分かるか?」
「……この国を存続されると仰せですか」
「そうだ、良く分かっているな。ところで、貴様はタイリーの召使だと姫様から伺っているが、本当か? 奴隷扱いではなかったのか?」
良く知っているな。
「……はあ、召使と言えばそうですし、奴隷と言われればそうですし」
「なんだ。はっきりせんな。サルベロ家から貴様を処刑したいから引き渡せと言われたぞ」
まあ、そうだろうな。息子を殺されて黙っているような親じゃないもの。息子も腐っていたが、あの親父はもっと腐っている。
「……仕方ない事です。別に気にしておりませんので」
「私が気にしているのだ。あいつの手柄は全て貴様がお膳立てしたのであろうが! 違うか?」
良く知っている。
「……ご覧になっていたのですか?」
「見ずとも分かる。あの腐った魚野郎に戦功首など取れる訳がなかろうが」
確かに、その通り。逃げ出して後ろに隠れる人だったからな。
「とりあえずグリクース王国の決定を伝える。この獄舎は今日で廃止、貴様は解雇される」
ああ、そうですか。どこへ行くかを考えないといけないな。
「……わかりました」
「ところで、お前の腕が見たい。披露してくれぬか?」
披露するようなものではありませんが。そう言ってみた。納得していないようだ。
「おい、貴様。私は職制上の上司だぞ。見せろ」
「……では、お好きなように」
少し考えているようだ。横にいる騎士に何か言っている。
第一騎士団長という立場は、近衛騎士団長に次いで高い地位にある。それに第一騎士団長は、直属の部下である騎士長を三十人も抱えている。騎士長はそれぞれ十五人の騎士を抱え、騎士はそれぞれ歩兵を三十人以上抱えている。つまり総勢一万人以上の部隊を率いている事になる。
そう、このマグダ騎士団長は、将軍職も兼任しているのだ。戦争の主力部隊と言っても良い。それに、抱えている騎士は全てがマグダ将軍以下、精鋭が揃っている。
この将軍自身が全軍で三本の指に入る使い手と聞いている。同じ大貴族の子弟でも、あの腐れ外道とは凄く違う。
「おい、貴様、アルとか言ったな。騎士達のレクリエーションに剣術大会を私主催で行う事にした。貴様も参加しろ、全力を出せ、わざと負けるなどという卑怯な真似をするな。そんな事をしたら即座に首を刎ねてやる。いいな、命令だ」
「……はあ、では仰せのままに」
どうやら満足したようだ。どうでも良い事だが。
二
トーナメント形式だそうだ。五百十二ドロー、つまり九回勝つと優勝する。ほとんどの騎士が参加する事になる。
こっちは平気だが、普通の騎士で体力が持つのか?
「よし、では始めよう!」
元気な騎士団長だ。まだ若いし、年齢は同じくらいか。とは言っても自分の年齢なんか知らないけれど。
「おい、貴様は何で木剣を持たない?」
「……この棒が木剣の代わりです。木剣など使った事もありませんし」
「その剣を模した物は使わんのか?」
「……使った事もないです。稽古のときはいつもこうした棒で行なっていますので」
将軍は不思議そうな顔で見ていた。
でも、その不思議そうな顔が段々と引きつり始めた。
当然と言えば当然だ、もう六回も勝ってしまっている。たった一つの技で。
下段から上段への抜き打ち。
いくら間合いをとっても、防御姿勢を取っても無駄。木剣ごと叩き切っている。
少し飽きてきた。いくら何でも芸が無さ過ぎる。摺り足で走っていって、踏み込みながら下段から抜き打つだけ。
稽古の延長線と言っても、違う稽古をしないと駄目だ。身体がそう要求している。
構える事にした。剣を立てて、左拳を右目より上に当てた。周りが驚いたような表情をしていた。
確かに、この構えはこの大陸で見る事は出来ないかも知れない。実際に見た事がないし、この大陸で一般的に使用されている大剣や片手剣では、このような構えはかえって動きの邪魔になる。
対戦相手も驚いている。こちらを向いたまま、後ろに下がり始めた。大剣を立てて防御姿勢を取っている。十メートルくらい離れただろうか。
でも、関係のない事だ。走っていって、斬るだけ。身体に当てると面倒な事になるから剣を狙う事にした。
音もなく走っていって右上段から左下段に振り下ろした。気合声もなく。
「……ま、参った」
木剣が刃物で斬ったように割れた。そうなってしまっては戦闘不能で降参するしかない。まあ、当然の話しだ。
何でもない事だ。九回対戦して皆一振りずつ。優勝してしまった。
「アル、私と対戦しよう! 見ているのはもう止めだ!」
まあ、当然の話だな、一番強そうだし。でも、相手にならないな。
言うと失礼になるから言わないけれど。まあ、花を持たせたほうが後々のためだな、そう思った。
鞘に納めた状態に戻した。彼は防御する気はないらしい。
負けても死ぬわけじゃないからいいや、そう思っていた。怪我をする程度の事、どうと言う事ではない。
「……いつでもどうぞ」
「よし、では、参るぞ!」
大剣を構えて遠目の間合いから走り込んできた。鎧を着けているのに素早い、感心した。鎧同士が触れ合う金属音がうるさかった。
ああ、振りかぶってきたな、当たるな。そう思った。
次の瞬間に、自然と身体が動いていた。下段から上段への抜き打ち。将軍の木剣の手元から斬り割っていた。
「ま、参った」
あれ、予定外、想定外、負けるつもりだったのに。
「おい、アル! 貴様、これからどうするつもりだ」
「……これから考えます」
「どうだ、騎士にならんか」
「……は?」
確か、騎士になるには貴族の推薦が必要で、採用試験があったと思う。そう聞いた記憶がある。
「どうだ、推薦してやる。騎士になって私の直衛になれ」
「……はあ」
「気のない返事をする奴だな、どうだ?」
「……しかし、苗字も、昔の記憶もないものですから」
「……そう言えばそうか。どうするかな……よし、とりあえず私の護衛として雇ってやる。それでどうだ、タイリーとは違うぞ。休みも週に一度やる、給料も払うぞ、サルベロ家の事は任せておけ。我が家の方が格上だ、ねじこんでやる」
なかなか良い待遇だ、決めるか。殺されなくて済むみたいだし。
「……では、仰せのままに」
「よし、では今日から私の護衛をしてくれ。とは言っても何もする事はないが」
「……では何をすれば良いので?」
「私についていれば良い、色々なところが見られるぞ。……記憶も戻るかも知れん」
「……ありがとう御座います」
気がきく将軍だ。
三
「アル、済まないが書類仕事を手伝ってくれ」
「……はあ」
「おいおい、相変わらずの返事だな。で、やってくれるか?」
「……将軍の御命令とあれば」
彼は一人で笑っている。何がおかしいのか判らないが。
結局一人でやらされた。酷い人だ。
「さすがだな、私の目に狂いはないな」
「……何がですか?」
「貴様は有能だと言う事だ。しかし、惜しいな」
「……は?」
「貴様に記憶がない事だ。記憶があって家柄が分かればすぐに騎士になれるのに」
「……はあ。もうどうでも良くなりました」
「相変わらずだな」
また笑っているよ、酷い人だ。
本国に帰還する事になった。当然、将軍の馬の手綱を取って護衛する事になった。
何だか変な感じがする。殺気のような殺気でないような。
「……将軍?」
「貴様も気がついたか」
「……ええ。弓を持って近付いているようですね、左に二人ですか」
「そのようだ」
「……どうします?」
「どうもせん」
何を言っているのか良く分からないが、放っておく気らしい。
「……殺気が弱すぎますね」
「気弱な刺客だな。この程度の殺気であれば私で充分だ」
まあ、確かに。馬が驚かないようにしないとな。
「……おい、馬よ、聞こえているだろ。矢が二、三本飛んで来るけど、驚くなよ。お前が驚くと御主人様が振り落とされて怪我をする。そうしたらお前は用済みで殺されちゃうぞ、頼むから驚かないでくれな」
「おいおい、馬に言って分かると思っているのか?」
「……馬は利口ですので」
目を見てみた。分かったと言いたいようだ。何故かそんな気がした。
「大丈夫だよ」といっているように、馬が少し声を出した。
思った通りに左から二本、矢が飛んできた。
将軍は焦りもせずに腰の短剣を抜いて叩き落していた。さすがに全軍で三本の指に入る達人だ。
馬は頼んだとおりに大人しくしてくれていた。
「馬の扱いも慣れているとはな。ああ、他の連中に言うのを忘れていたな」
「……そうですね、もう捕まえに走って行ってしまいました」
「かわいそうに奴等なぶり殺しにされるぞ、うちの連中は荒っぽいからな」
笑って言う事ではないような気もするが、まあ、仕方ない事ではある。ちなみに、襲われたのはこのときだけではなかったがいつも同じような対応だった。
将軍と二人で気がついていて、矢を叩き落したりした。
いつも襲ってきた奴等は、騎士団の連中になぶり殺しにされていた。普通に殺せば良いのに。
「おい、アル」
「……はい?」
「貴様、王宮に入った事はあるか?」
「……いえ」
あの腐れ外道と一緒のときにはそんな事はなかった。だから、素直にそう言った。
「では、今回が初めてという事になるな」
「……は?」
「は、じゃない。これから国王陛下に御報告申し上げる、ついて来い」
まあ良いですけれど。これも経験ですね、とりあえずそう言ってみた。
「もしかしたら記憶が戻るかもな」
「……どうでしょう?」
「貴様のペンダントの紋章をどこかで見た記憶があるのだがな……」
「……似たような紋章はいくつもありますよ」
「まあ、それもそうだが」
謁見の間に入った。広いけれど椅子が一つしかない、それも玉座だけだ。
王族や貴族は周りに立っているぞ。
「アル、跪け」
言われた通りにした。二歩下がって。
あの美しい女性は誰だろう? 金髪のウェーブが少し掛かった綺麗な髪の女性、王族なのか? 着飾っている訳でもないのに、一番目を引く。姫将軍達もその美しさで目を引くが。
でも、あの女性にどうしても目が行ってしまう。何か見つめられているような気がして照れてしまう。
ちょっと待て。殺気がするぞ、真後ろから五人、遠くからだ。
弓を使うのか?
まあ、殺気の方向の中心にいるから、立ち上がれば矢は将軍と国王には当たらないな。背中に当たるのは格好が悪いが、将軍と国王陛下に当たるよりは良いだろう。
死ぬのは良いのだけれど、あの女性の名前くらい聞いておきたかったな。
一目惚れという奴かな? ああ、人間らしい感情が出てきたのだな、何となく嬉しい。
さて、弓弦が鳴った気配がしたから立ち上がるか。
なぜ脇差を抜いて叩き落している? しかも五本全部。
皆が驚いているぞ。悲鳴も聞こえてきた。
殺気は消えているな。
「……将軍?」
「もう終わりみたいだな」
「……はあ、どうもそのようで」
「国王陛下、ちと御冗談が過ぎるのでは?」
将軍が国王に文句を言っているぞ、良いのか?
「済まん、済まん。噂の護衛の腕を見たかったのでな」
「噂、ですか?」
誰が? 僕が? 将軍と一緒に目を丸くして驚いてしまった。
「娘がタイリー・サルベロの召使、そう、君だ。アル、君の一騎撃ちの場面を見ていたのだよ。で、獄舎の番人にして軍に留め置いていたらマグダ将軍、お前が護衛に雇ったという訳だ。本当は、儂が欲しかったのだが」
「それは御命令ですか、陛下」
聞くのも当然だな。こっちは身分が違うから、黙っているしかないけれど。
「いやいや命令ではない、お願いだ。どうする?」
「そうですね。ただ、このアルは記憶を失っています。何が原因なのか本人にも分かっていません。身に着けているペンダントの紋章が手がかりになるかとは思いますが」
「そうか……アル、そのペンダントを見せてくれないか?」
「……はあ」
仕方ない。首から取って、将軍に手渡した。将軍は宰相に渡し、宰相経由で国王の手元に行った。随分と面倒な事をする。
すぐ近くにいるのだから、直接渡せば良いのに。
「こ、この紋章は……」
「陛下、ご存知で」
「……いや、違うかも知れん。いや、違うようだ」
「似た紋章と御間違えになられたのですか?」
「そうだ、将軍……そうに決まっておる。しかもズースリーの刀を持っているとは……絶対違うに決まっている」
意味不明の言い方だな、少し気になるが。
でも、あの女性の方が気になるな。ああ、なんて美しいのだろう。初めてあのような美しい女性を見たぞ。姫将軍は美しいけれど怖くて近寄りがたいからな。あの優しそうな微笑が僕を魅了しているぞ。
ああ、いつの間にかペンダントが戻ってきた、また同じ経路で。やれやれ。
「アル、貴様、いや、お前、アイラ姫をずっと見ていたな」
「……アイラ姫、ですか」
「お前、惚れたな?」
「……どうでしょう。良く分かりませんがとても美しくて目が離せなくなりました」
「それを惚れたと言うんだ」
「……はあ、そうですか」
本当に面白い奴だ、そう言って笑われた。しかも大声で。そんなに笑わなくても良いじゃないか。
「良い事を教えてやろう、あのアイラ姫には許婚も婚約者もいないぞ。昔はいたそうだが」
「……昔はいた、とは?」
「ああ……姫様が幼い頃、我が家以上に格が上の大貴族の子弟と許婚になられた。だが、その家は廃絶された」
「……何かあったのですか?」
「これはまだ先王の頃だ、王が代わってからまだ八年くらいしか経っていないからな。で、廃絶された理由が、反逆罪だ」
「……はあ、そうですか」
「今ではな、大きな声では言えんが……濡れ衣と聞いているぞ、サルベロのような腐った連中が讒言したらしい。もっぱらの評判だ」
「……そうですか」
「まあ、お前の身分では奪って逃げるもよし片思いで終わるもよし、だな。ああ、奪って逃げるときには兵士は殺さないでくれよな、騎士もだ。釘を刺しておかなくても大丈夫だとは思うが」
「……はあ」
この身分制度の厳しい世の中でこうした身分違いの恋を成就させる方法は一つしかない。将軍が言うように奪って逃げる、これだけ。他国に逃げればこっちの勝ちだ。
でも、将軍が言うように僕が彼女に惚れているとしても、向こうの気持ちがどうかによる。それが一番大事じゃないのか?
四
今夜は祝賀会だそうだ。お前もついて来いと言われた。歩兵の服装のままだから、逆に目立っているな、少し恥ずかしいぞ。
将軍は貴婦人方に囲まれているな、さすがに若くて良い男だけの事はある。それに、あの若さで第一騎士団長兼務の将軍だからな。
こっちとは雲泥の差があるな。まあ良い、考えないようにしよう。
「あの……アル、様?」
後ろから女性に声を掛けられたぞ。驚いて心臓が止まるかと思った。
「……はい?」
「あの、第三王女アイラ、です。あの」
「……あの、その、何か、御命令で?」
「いえ、そうじゃないの。あの剣をどこで身につけられたのか、興味があって……」
絶句してしまうほどに嬉しいぞ、直接話せるなんて。でも、知らない事を聞かれてもな。
「……あの、実は、記憶がなくてですね……良く分からないのです」
「記憶喪失なの?」
「……そうらしいですね」
軍医がそう言っていた。後頭部に大きな刀傷がある、その傷の原因が記憶を奪ったのだろうと、そう言っていた。
「……ただ剣の事に関しては身体が覚えているようです。稽古の仕方、心構え、そうした事の全てが意識せずに出来てしまうのです」
「では、とても厳しい稽古をなさったのでしょうね」
「……まあ、そうだと思いますが。あの、姫?」
「何かしら」
「……姫様の後ろで、ダンスの御申し込みを御待ちの方々が」
腐れ外道と同じ目をした連中が、涎を垂らしているように見えた。
おぞましい連中だ。
ああ、アイラ姫と会話できた事は嬉しかったな。
「おや、マグダ将軍の召使は良く気のつく男だな。ふん、まあ、そこで普段飲めない酒でも飲んでいたまえ」
ぶった切っても良いだろうか? こいつ、あいつと同じ目をしていやがる。そう、腐った魚よりも腐った目。
「……将軍」
「どうした、アル?」
「……もう引き下がりたいのですが」
「ああ、それなら国王陛下に言え」
「……は?」
「もう私の護衛官ではなくなった。国王陛下の直衛だ、がんばれよ」
がんばれよ、って言うけれど、何を?
「アル! アル! こっちへ来い!」
早速陛下のお呼びですね。将軍を見たら、行けと顎で促された。
「……お呼びで」
「今から儂の護衛だ、傍を離れるなよ」
「……承知しました」
「しかし無口な奴だな。お前、趣味はないのか?」
「……はあ、特には。剣の稽古くらいですか」
「一つくらい趣味を作れ。何が良い?」
「……何でも良いのですが」
「そうだな、では、煙草はどうだ?」
「……は?」
「煙草だ、パイプ煙草。儂と同じ趣味を持て」
「……はあ、御命令とあれば」
「なんだ、張り合いのない奴だ。まあ良い、そこの椅子に座れ、レクチャーしてやる」
なんだか薀蓄が多い趣味だな、たかが煙草なのに。
でも、甘くて良い匂いがする煙だ。何故だか懐かしい感覚がする。
「……何か懐かしい感覚を覚えます」
「そうか、それは良い事だ。では、そのパイプはお前にやろう」
「……ありがとう御座います」
「明日にでも出入りの業者を紹介してやる。最低でも五本は買えよ」
「……はあ」
「なんだ、買わんのか?」
「……あの、まだ給金を頂いていないので」
「何だ、そんな事か。後払いにするように言っておいてやる」
「……ありがとう御座います」
何だか強引だな。でも、吸うのに苦労するが懐かしさと美味しさを感じるな。
「あら、お父様、アル様にもパイプをお勧めしたのね」
アイラ姫! ああ、見れば見るほど美しい……心臓が破裂しそうです。心が惹かれていく。
「どうだ、アルがパイプを咥えているのもなかなか様になっているだろう?」
嬉しそうに言って下さるのは面映いです。
「ええ、とてもよくお似合いよ」
「……ありがとう御座います」
このまま天に昇ってしまいそうだ……まだ早いが。って、行っちゃった。
「おい、アル」
「……は?」
「お前、アイラに惚れたのか」
「……あの、身分が違いますので」
「そうか、惚れたか」
嬉しそうに言っているが、身分が違いますって。
「……お前の記憶を何とか取り戻してやりたいな」
「……ありがとう御座います」
その言葉は本当に嬉しい。
五
王宮に訓練場が隣接しているのは非常にありがたい、夜中でも稽古が出来る。昼間は騎士達が訓練していて歩兵はなかなか訓練できないからな。
横木になるような長い棒を何本も見つけた。どうやら短く切って薪に使うつもりらしい。
まあ、これで良いか。それから、立木になるような木を十本ほど見つけた。運が良い。
訓練場の端に誰も立ち入っていないような場所があった。足跡が一つもない。
ここなら置いたままでも迷惑にならないだろう。それに、兵舎からも離れている。気合声を出しても大丈夫だろう。
早速、稽古をしよう。何故か、いつも気合声は決まっている。記憶にないのに。
「イェーッ!」
腹の底から搾り出す。息の続く限り、気力の続く限りに横木に向かって木刀を振った。
横木を打つ訳じゃない、横木の向こうに人が立っているつもりで振る。木を折ることが目的じゃないんだ。
立木を連続して打つときも同じ、敵が立っている事を仮想しているだけだ。
素振りをしばらくやっていると、カラスが鳴いた。
ああ、夜明け前にはカラスが鳴くんだ。少し眠ろう、二時間くらいすると鶏が鳴く。
勤務時間はもっと後からだから四時間は眠れるな。
で、稽古は毎日した。
「おい、訓練場の先で変な声がしてこないか?」
「ああ、鶏が絞め殺されているような声だな」
「いや、猿の化け物が鳴いているらしいぞ」
兵士の間で噂になっているらしいが猿の化け物は酷いな、ただの気合声なのに。
「アル、お前だろう」
「……何がですか、陛下」
「毎晩、訓練場から聞こえてくる変な声の主だ。あれは気合声だろ」
「……はあ、良くお分かりで」
「まあな。で、少し控えてくれんか。後宮にも聞こえてきて女官達が怖がっていてな、アイラも怖いと言っていたぞ」
アイラ姫が? そりゃ大変だ。でも、自然と出るものだからなぁ。
「アル、お前は稽古をする必要などないのではないのか?」
「……そうでしょうか、良く分かりません。自然と稽古場に足が向かうのです」
「お前は根っからの剣士という事か」
「……良く分かりません」
どうなのかは自分でも分からない、言った通りだ。
「まあ良い、気にするな。稽古がしたければすれば良い、皆にはアルの気合声だから心配するなと言っておく。ところで、パイプはどうだ?」
「……はあ、美味しく頂いています。吸うたびに何かを思い出しそうな気がします」
そう、何か。誰かがパイプを燻らせている場面が、目に浮かぶような。
でも、それが誰なのかどこなのか、全く見えてこない。薄ぼんやりとしている。
「そうか、思い出せそうなのか?」
「……まだ分かりません」
私室は陛下の寝室の近くにある小さな物置部屋だった。
ベッドと机を置いてくれただけだったが、それだけでも非常に嬉しい。腐れ魚にこき使われていたときは、馬と一緒に眠っていたから。
カラスが鳴いたから部屋に帰って眠ろう、そう思って後宮に戻った。
途中で人影が見えたので驚いた。
アイラ姫だったから余計驚いた、心臓が止まるくらいに。
「こんな時間までお稽古をしていたの?」
「……姫様こそ、何故このような時間に、こんな場所に?」
「え、あの、はい、これ」
綺麗なタオルが差し出された。心臓が爆発しそうだ、これを僕に?
「……あの、その、お借りしてよろしいので?」
「い、いいのよ、気にしないで使って?」
「……ありがとう御座います」
そのタオルは、とても良い匂いがした。甘く、芳しい匂い。姫様から漂ってくる匂いと同じだ。心臓が耳の横にあるような気がした。
ありゃ、行っちゃった、タオルを残して。嬉しいな。
「おい、アル」
「……何か御用で、陛下」
「明日、騎士を全員強制参加させて大会を開くぞ。お前も参加しろ」
「……あの、私は騎士ではありませんので」
「つべこべ言うな、命令だ」
「……はあ、では仰せのままに」
「最初からそう言え」
結構強引な人だ。やれやれ。
まあ、大会といってもいつもの通りにやるだけだ。
おいおい、凄い人数だな、何人いるんだ?
トーナメント制にしたらいくつドローが出来るか分からないくらいにいるぞ。
ああ、ブロックを分けているぞ。さすがに軍事大国、騎士の数が異常に多い。五百十二ドローで六十四ブロック?
凄まじい数の騎士を抱えていると言う事か。
将軍も参加するのか? ああ、将軍は基本的に除外か。でもマグダ将軍や姫将軍がリストに載っているぞ。
困ったな、勝たないほうが良さそうだ。一回戦で負けるとしよう。
さっさと負けて陛下の後ろでパイプを燻らせながら観戦するとしよう。陛下もパイプを用意しているし。
自分のパイプと煙草を部屋から取ってこよう。長引くだろうから、この前買った三本を持ってくるか。
最近は吸い過ぎかな? まあ、気にしない事にしよう。
「おい、アル、そのポケットの中は何だ?」
「……パイプと煙草ですが」
「お前、早々に負けるつもりだな」
「……どうでしょう?」
「許さんぞ、正々堂々と勝負しろ。負けてゆっくりパイプを燻らせながら観戦するつもりだろうがそれは許さん。さあポケットの中身を出せ、預かる」
またそんな強引な、良いじゃないか、騎士にも体面があるんだから。
「お前は儂の直衛だ、騎士の体面など気にするな。おい、ちょっと耳を貸せ」
内緒話らしい、近寄って聞いてみる事にした。
「……何か?」
「アイラも観ているぞ、良いところを見せろ。お前が全軍一の使い手である事は分かっている。アイラが喜ぶ顔を見たくないのか?」
そう言われると、確かに喜んでもらいたい。タオルの御礼もあるし。
この前なんか夜中なのに一人で訓練場まで出てきたからな、それも寝巻き姿で。
あの時は目のやり場に困った。思い出すだけで反応して来てしまう。
嬉しいような悲しいような。
「では、優勝しろ。良いな、分かったな、でなければ、今後お前がどうなろうとアイラはお前にやらん。近付けもさせんから、そのつもりでいろ」
「……あの、やらんとはどういう意味ですか?」
「自分で考えろ」
意味不明。
まあ、結果は言うまでもない、いつもの通りに抜き打って終わり。たまに構えて、走り込んで木剣を斬り割って終わり。
あっという間にブロック優勝した。
「どうだ、疲れたか?」
「……疲れるほど剣を振ってはいませんが」
「さあ、これからは真剣を使わせるぞ。分かっているだろうが、殺すなよ」
「……本気ですか?」
「ああ、本気だ、そうでなければ騎士の真価は分からんからな」
「……あの、止めた方が」
「殺すな、そう言ったぞ」
「……はあ」
真剣を使えとはむちゃな事を言う。
でも、このままで良いや。刀を抜いたら絶対に殺してしまう。
この木刀でも、普通にやったら死ぬんだぞ。
下段から抜き打ったら男性機能は絶対に壊れるし、構えてからの斬り下ろしだってまともに当たれば即死するぞ。
「アル、何で真剣を使わない!」
「……マグダ将軍、殺さないためです」
「死んでも知らんぞ」
「……死んでも構いませんよ」
「良い覚悟だ」
やれやれ、決勝戦まで来てしまった。今までの対戦相手は、何故か腰が引けていたから木刀でも勝てたけれど。
この人は強いからな、本当に斬り殺されるかもな。
そう言うよりももう疲れちゃった。ここらで幕を下すのも良いかも知れない。
記憶も全然戻らないし、王宮の生活にも飽きちゃった。
何もなくて平和なのは良いのだけれど。
記憶が全くないというのは、凄くつらい事だ。
何かがいつもぼんやりと見えるようで、でも見えない。
何かきっかけがないかと思う。
死んでも良いとは思うけれどアイラ姫と少ししか話が出来なかったな、それだけが心残りか。
奪って逃げ出したいけれど向こうの気持ちが分からないし、逃げてもお姫様だから貧乏生活には慣れていないだろうし。
……ちょっと待てよ、貧乏? 今、少し思い出した。貧乏な生活、毎日のつらい稽古、朝から夜明けまでずっと稽古をさせられた。年寄りの顔、あれは、誰だ?
「行くぞっ!」
……ちょっと待てよ、身内のようだな。
……祖父か! 厳しかった、あの祖父の顔だ!
パイプの煙、甘い煙草の匂い! あれは僕の祖父の記憶だ!
気がついたら、将軍が大剣を振り上げている。
間合いが遠い。踏み込んでくる事を予想しているみたいだ。いや、踏み込んでくる。斬られるな。
まあ、良いか。
おい、何故身体が動く? なぜ振り下ろされてくる大剣を目掛けて下段から抜き打つ?
何故だ? 何故稽古の通りに身体が動く?
「空の境地、無心の境地を目指せ! 生死を気にせず、危急の際に無念無想でただ一つの太刀にかけるのだ!」
祖父の声がしたような気がして、将軍の大剣が折れる音がした。
静かだ、とても静かになっている。
次の瞬間に、参ったと言う声が聞こえた。
何か聞こえてきた。どよめきか、歓声か、良く分からない。
「それまで」
国王の静かな一言だけが耳に入った。玉座へ向いて一礼した。
「良い勝負であったな、マグダよ、お前はどう思う?」
「はい、この男は全軍一の使い手と存じます」
「そうだろうな、で、将軍?」
「はい、何か?」
「こやつは、アルは何か考えているようだったが、何か分かるか?」
「いえ、全く」
陛下はこちらを向いて、こう言った。
「アル、お前は何かを思い出したな?」
「……はい、祖父の事を、少しだけですが。パイプを燻らせていた事、貧乏だった事、毎日、朝から夜明けまで稽古をさせられた事、そうした事を思い出しました」
「やはりそうであったか……他には何か思い出さんか?」
「……今のところは何も」
何か考えているようだ。彼は何も言わなくなった。
「あの、陛下」
将軍が口を開いた。何を言うつもりだろう?
「まさか、このアルは……」
「言うな、言わんでくれ。儂の気持ちが定まっていないのだ」
何を言っているのか良く分からないな。
「では、せめて騎士に取り立てて頂けませんか。これほどの腕を持つ者を歩兵にしておくのは勿体ないと存じます」
騎士である必要はないでしょう。槍も得意だけれどその不恰好な鎧は嫌いだ。
「……あの、将軍それに陛下、騎士になるつもりはありませんので」
「陛下の前でそんな事を言うな、せっかくの良いチャンスなんだぞ」
「……ですが将軍、僕にその鎧は似合わないと思います。それに今までご覧になった技は全て歩兵に適したもので騎士としての役割を果たすものではありません」
絶句しているな、そりゃそうか。
六
何だか祝勝会みたいなパーティーに駆り出されたぞ。
こういう雰囲気は苦手だ、陛下の近くに隠れていよう。
「アル殿、全軍一と言われたマグダ将軍をあれほど簡単にやっつけてしまうとは凄い腕だ」
はあ、そうですか、そんな事はどうでも良いです。
「あの、アル様?」
アイラ姫の声だ! 心臓が高鳴る。
「やはりお強いのですね、毎日懸命に稽古をなさっているから?」
「……はあ、そうだと思いますが」
「おじい様の事を思い出されたのですって? どんな方だったのかしら」
「……厳しい人でした。朝から夜明けまで、毎日が稽古の連続でした。でも、パイプを燻らせながら何かを話しているときの顔は、とても優しかったように思います」
顔が熱い、心臓が口から飛び出しそうだ。
「あ、あの……す、少し二人でお話しませんか? あの、お嫌でなければ」
嫌な訳がない、断じて、絶対に、何があっても。
「あ、あの、ア、アル様は、き、決まった方がおありなの?」
「……は?」
「あの、その、許婚とか、こ、婚約者とか……」
そんな人間がいる訳がない。
気がついたときにはもうあの腐った魚野郎にこき使われていたんだ。
「記憶している限りではそうした女性はいません。何しろ記憶しているのは、サルベロ様に仕えるようになってからの事だけですので」
「で、でも、おじい様の事は覚えていらっしゃるのでしょう? そ、そのときに、そうしたお話はなかったの?」
「……覚えていません。残念ながら」
「では、わ、私の事も、お、お忘れになったの?」
は? 今なんて仰いました? 忘れたか?
「……あの、今、何と仰せで?」
「わ、私の事をお忘れになったのかと聞いたのです! やっぱり忘れておしまいになったのね! 私はずっと覚えていたのに! 酷いわ!」
あ、泣きながら行っちゃった。
何かしたか? 嫌われた?
「おいアル、姫様に何を言った?」
「……将軍、特に何か言ったつもりではなかったのですが」
「何と言われた?」
「……忘れたのか、と」
「そうか。やはりお前は……」
何か知っている。この将軍は、絶対に何かを知っている。
「……あの、何を知っているのですか? 教えて下さい」
「陛下が言わない以上は、私から言う事は出来ん」
「では、陛下は何もかもご存知だと?」
無言だ、何も言わずに庭を見ている、辛そうな表情で。
「アル、もうしばらく待つんだ。そうすれば必ず陛下が教えて下さる。出来ればその前に記憶が戻ると良いのだがな」
どうしたら良いのか分からない、記憶も戻らない。
ただ無心に剣を振るだけ、それしか出来ない。
いや、アイラ姫の事をずっと考えていた。無心ではない、雑念しかない。
駄目だ、身体が動かなくなった。稽古場の近くにある草むらにそのまま寝転んだ。
人の気配がする。甘い匂い。芳しいこの匂い。
「……姫様?」
「あ、あの、さっきは、ご、ごめんなさい」
「いえ、気にしていませんから、謝って頂かなくても」
「何故記憶をなくされたの?」
突然そう聞かれても。
「分かりません。軍医は後頭部の大きな刀傷が原因だろうと言っていました。でも、なぜその傷がついたのか分からないのです、思い出せないのです」
彼女は何か考えているようだ。空が白くなり始めている。
「あの、アル様、お父様からもう聞いた?」
「……は? 何をですか?」
「あなたの昔の事」
「まだです。マグダ将軍も、陛下も何かを知っていて隠しています、それは分かっています。でも、自分自身が思い出せないのではどうしようもありません。無理に聞き出せる立場でもありませんし」
「……そう、それなら、一つだけ教えてあげる。私達は昔、幼い頃に出会っているのよ」
そんな、まさか。
「お願い、私の事を思い出して、そしてお父様に思い出したと言って」
「……努力します。今は姫様にもこれしか言えません。でも、この刀にかけて姫様の事を思い出します、絶対に」
あ、何故泣く? あ、何故泣きながら走っていくの? 最後に見せた笑顔の意味は?
ずっと考えている、アイラ姫の事を。思い出そうとしている、彼女の事を。
でも、思い出せない。
剣を振るしかない、それしか出来ない。
今のイメージは? 少女の、幼い少女の面影、それが見えたような気がした。
もしかして、それがアイラ姫なのか?
ああ、段々とはっきりしたイメージになってきた。だが顔は良く分からない。
いっぱしの騎士気取りで彼女の手にキスをしたイメージ、いや、記憶だ。
「……あの、姫様、よろしいですか?」
思い切って聞いてみよう、昔、そんな事をしたのか、しましたか?
「あ、あの……思い出したの?」
「正直に申し上げて良く分かりません、お顔がはっきりしないのです。でも……お手にキスをしたような記憶、いや、イメージが」
「思い出したのね!」
あの、その、抱きつかれると、その、反応してしまいます。
つ、つらい、落ち着け。
「思いだしたとは言えないでしょう、その一場面だけですので」
「私にはそれで充分よ」
ああ、嬉しそうな笑顔だ。泣きながら微笑んでいる。
心が落ち着いていく。
でも、何故、何故彼女にキスをしたんだ、貴族だったと言う事か?
分からない、全く、他には思い出せない。
「思い出したのか?」
「……将軍」
「まだ全部と言う訳ではないようだな」
「……ええ。思い出したのは彼女の、幼い姫様の手にキスをした事だけです」
「そうか……もう少しだな」
どういう意味だろう、良く分からない。
「もう少しだ、もう少しの辛抱だ、アル」
七
しかし、王宮の生活は贅沢極まりない。今までの辛い生活が嘘のようだ。
国王の護衛としての給料は騎士と比べると少ないらしい。でも、充分すぎるほど多い。なにしろ食事も付いている、部屋もある。
金をほとんど使わなくて済む。最近高価なパイプに手を出し始めたのでその分くらいだ。
なにやら申し訳ないような気がする。何となくそう思うのは何故だろう?
何だろう、今のイメージは? 嫌なイメージだった。あの祖父の言葉も、何か嫌な単語が出てきたような気がする。
「……ここはサルベロ家の領地だ。この森の奥に隠れていれば見つからないだろう……」
思い出した。逃げていた、何かから。
それも糞ったれのサルベロ家の領地にある森の中。
そうだ、森に潜んで暮らしていた。だから、ずっと貧乏だったんだ。
食事はスープだけ、具なんてほとんどなかった。王宮の贅沢な、わざと具を捨てているようなスープじゃない。もともと具なんか入っていなかった。
何故だ? 何から逃げていた?
「あの、アル様? よろしいかしら?」
姫! 心臓が破裂する寸前だ、顔が熱くなっている。
「……何か?」
「あの、その、あれから何か思い出したかと思って……」
「申し訳ない。姫様の事はあれから何も……」
「そう、仕方ないわね」
そんなに悲しそうな顔をしないでくれ、胸が締め付けられる。
「……あの、今、一つ思い出したんです」
「何を?」
「貧乏だった理由」
話して聞かせた。何かから逃げていた事、サルベロ家の領地にある森に潜んでいた事、貧乏な生活をしながら稽古に励んでいた事。
何故抱きつく? そんな、あの、嬉しい。
反応してきちゃった。悲しい。
「少しずつ思い出しているのね、良かった!」
涙ぐまれると、胸が苦しい。
でもこの人といると暖かな何かが心の奥から沸いてくる。
「アル! アル!」
「……お呼びで」
「済まないが書類仕事を手伝ってくれ」
デジャ・ヴ。まさか……一人でやれとか言わないよな。
「……御命令とあれば」
立場的には逃げられない。
ちっ、この親父、涼しい顔で言いやがった。
「後は頼むぞ、人と会う約束になっているのでな。用件が済み次第戻ってくるから出来る限り進めておいてくれ」
絶句。
「ああ、マグダからは有能だと聞いているぞ、期待している。ではまた後でな」
さらに絶句。
どうしろって言うんだ? こんなにたくさんの書類。山になっているじゃないか。
それに、人と会う約束に護衛がいなくてどうするんだ?
諦めよう。これ以上言うと悲しくなる。
さて、仕事をするか。仕方ない。
書類を分類していこう。民事の訴状、刑事の訴状、建白書、あとは単純な決済。分けるとすぐだな。
民事の訴状を見るか。
なんだ、ほとんどは過去に判例があるって書いてあるじゃないか。頭から仮の番号を振って、判例集の該当ページにメモを挟んでおこう。
刑事も同じだ。量刑をいちいち国王に問い合わせているな、判例も書いてあるじゃないか。民事と同じようにしよう。
建白書か、これが難題だ。でも良く見たら支離滅裂なものとそうじゃないものに分けられるな。
よし、分けたからまともなやつだけ見てもらおう。単純な決済は決済印だけの問題だから除外。
なんだ、終わっちゃった。
「アル、待たせたな」
「……はあ」
「相変わらず気のない返事だ。で、終わったか?」
「……はあ、ではご決済を頂く書類から目を通してください」
「なんだ、代わりに押せ」
いい加減だが仕方ない。
「……では判例を見ながら訴状の決済を。民事と刑事に分けてあります」
「うむ、分かった」
しばらく決済印を押しながら見ていたが、判例集を見ながら次々に書類を捌いている。さすがは国王、終わったか?
「建白書をお読み下さい、それで書類は終わりです」
「この書類の山は何だ?」
「書式も内容も支離滅裂で論じる事の出来ない建白書です。検討の余地もありませんので」
「ほう、内容まで読んだのか?」
「……一応は」
「で、何か良い建白はあったか?」
「はあ、一つだけですが」
「何だ?」
「要検討の山に入っていますが、裁判所設立の建白です」
「裁判所?」
「ええ、民事訴訟及び刑事訴訟についても現状では陛下の御決断に頼っています。この書類の山を見て頂かなくても御分かりかと。で、先程拝見していましたら過去の判例から裁決を下していらっしゃいました。つまり、陛下がなさらずとも良いかと思われます。また、その建白書によれば、三段階の訴訟手続きを行う事が可能です。不服があれば上級審に抗告する事が可能になっています。現状では陛下の御裁決に不服があっても、抗告する事は不可能。ですので、陛下のご負担を減らし、かつ訴訟を提起した者が納得の出来る裁決が可能になるかと存じます。これは一考の価値があるかと」
「そうか、なら決済しよう」
「あの、ちゃんと読んでからにして下さい」
「いちいちうるさいやつだな、お前は」
「……陛下のお仕事ですよ」
ちゃんとしてくれ、人任せにしないで。
ああ、でも建白書にはちゃんと目を通しているぞ。
やっぱり裁判所設立案が目に留まっている、考えているようだ。
「おお、アイラ! 良いところに! どこへ行っていた? お前がいないからアルに仕事をさせる事になってしまったのだぞ」
「申し訳御座いません、お父様。でも、アル様に書類仕事をさせるなんて酷いです」
は? どういう事? でも、相変わらず美しい。見とれてしまう。
「おい、アル、どうした?」
「……いえ、別に。と、ところで、何故アイラ姫がいないから僕だったのですか?」
「ああ、書類仕事はアイラと二人でやっていたのだ。しかしアイラよりも仕事が速いな、マグダの言った通りだ」
「まあ、私よりも仕事が速いなんて……アル様……」
ああ、そんな潤んだ目で見られると嬉しいような困ってしまうような。目に焼き付けておこう、後ですぐ思い出せるように。
「お父様、三人でお仕事したらもっとはかどるのではないですか?」
そんな、書類仕事までさせないで。アイラ姫がいるならやりますが。
「おい、アル、呆けていないで答えろ。どうする?」
「は、あの、その、そうですね」
「お父様、では明日からでよろしいですよね?」
「ああ、そうしよう。アル、頼んだぞ」
ちょっと待ってくれ、頭痛がしてきた。何でもやらせるつもりか、この人は。
八
まあ、書類仕事と言ってもたいした事ではなくなった。
すぐに裁判所が設立されて重臣達に裁判官の人選をさせた。すると書類はあの日の半分近くに減った。それを三人がかりで整理し決済するのだからたいした事ではない。
でも、なぜまだ手伝わなければいけないんだ。それに意見まで求められるぞ。
「アル様、ドータレス王国との通商条約に関しては、どうお考えになります?」
「アル、リトウール王国から不可侵条約を結びたいといって来ているが」
そんなの護衛の人間に聞かないでくれよ、しかも同時に言いやがった。
気の合う家族なのは良いけれど勘弁してくれ、こっちは祖父とはこんなに喋らなかったと思うぞ。
ちょっと待て。今、何か引っ掛った。
家族? 祖父? 血だ!
斬り殺されるイメージで気分が悪くなる。何故、何故斬り殺された? 何故一人だけ生き残った?
ああ、祖父がかばってくれたのか、でも、何故?
「アル様、どうなさったのお顔が真っ青よ!」
「……嫌な事を思い出しました」
「何を思い出した? アル、話してみろ」
「祖父と僕が兵士達に斬られるイメージです。祖父がかばってくれて致命傷を避ける事が出来ました。後頭部に傷があるのはそのためのようです。イメージでは、祖父の下で気を失ったようです」
「アル様……」
「そうか、そこまで思い出したか……」
その後は誰も何かを言おうとはしなくなった。
とりあえず、意見を求められた事に応えよう。
「姫、ドータレスとの通商条約については、我が国の主要産物を輸入する場合には税を掛けたほうがよろしいかと。逆に我が国から先方の主要産物を輸出する場合は同様に税を支払うと。その他の品目の輸出入については全て対等の取引を行い、輸入量や輸出量については民間の意向に任せるのがよろしいかと存じます」
「陛下、リトウールとの不可侵条約については厳密にその条約が守られているかを監視する必要が出てきます。国境に強力な守備隊を配備し、さらに首都に動向を探るための担当貴族と担当騎士を配置し情報を収集すべきかと存じます」
気分が悪いので下がります。そう言って部屋を出た。
気分が悪い。吐きそうだ。
「アル様!」
アイラ姫、何故?
「ご気分が悪いのでしょう? お部屋でお休みになったほうがよろしくてよ」
「……ええ、そうします」
「わ、私が横にいて差し上げますから、ゆ、ゆっくりとお休み下さいな」
え、あの、その……良いんですか?
「ご、ご迷惑かしら」
そんな、とんでもない! 嬉しすぎるぞ、でも、気になって休めないかも。
それでも気分の悪さは続いていた。ベッドに横になったけれど治まらない。
彼女が心配そうに見ている。
そこまでは記憶がある。、意識があった。でも、いつの間にか眠ってしまっていた。
夢を見ていた。そう、確かに夢だった。二回も血が飛び散るシーンが出てきた。
嫌な夢だ。最初は祖父と僕が斬られるシーン、二人で抵抗したが敵は大勢だった。家の中にまで弓を持ち込んだ。祖父は胸を射られ、息が耐える寸前まで僕をかばっていた。
さっき思い出したイメージ、確かかどうか分からない記憶。
二回目は両親と兄が斬られるイメージ、祖父と僕が刀を持って戦っている。でも、彼等は殺された、目の前で、血が飛び散った。何と言う夢だ、酷い、酷すぎる。
何故こんな夢を見る? 何故だ? 何故こんなに辛い? どうしてこんなに悲しい?
泣きながら目を覚ました。日が暮れていた。
暗い部屋の中で、彼女が、いや、アイラ姫がこちらを見ていた。
「アル様、うなされていたわ……かわいそうに」
そう言って抱きしめてくれた。
何故か泣いてしまった。どうしてかは分からない。
九
「……姫様、もう大丈夫です。お恥ずかしい」
「いいのよ、気にしないで。何か思い出したのね」
「嫌な夢を見ました。祖父が殺される夢、そして、家族が斬り殺される夢。家族が斬り殺されたとき祖父と二人で戦っていました。でも、でも目の前で皆が斬り殺されました。とても辛い、とても悲しい夢でした」
「そう……もっと抱いていてあげる」
「……いや、お気持ちだけで充分です、もう充分すぎるほど抱きしめて頂きました。本来ならこのような事や、優しい御言葉を掛けていただく身分ではないのです」
「アル様……」
「もう大丈夫です、御部屋にお戻り下さい。他の者にあらぬ疑いをかけられます。さあ」
ベッドから降りて、彼女の手を取った。そして、部屋から出た。
でも、すぐにドアがノックされた。
「アル様、あの、お願いがあるの」
「……何でしょう」
「あの、その、お部屋で話してもよろしいかしら?」
「……どうぞ」
黙っている。二人とも。お願いとは何だろうか、ぼんやりとそう思った。
「あの、その……アル様、あの、わ、私を、お、女に、し、して下さい」
「……は?」
「あの、その、だ、抱いて欲しいの」
パニックだ、そんな事を言われても。嬉しいけど。
「い、良いんですか、後悔なさいますよ」
「良いの、決めていたの、だから何も言わずに抱いて」
次の瞬間、獣になってしまっていた。
恥ずかしい限りだ。二人が獣になっていたと言っても良いかも知れない。僕は彼女を求め、彼女は僕を求めていた。
彼女を愛した。なるべく優しく、壊れ物に触るように。実際、彼女はガラス細工の人形のように壊れやすく見えた。
二人とも初めてだった。
二人で、一つになる方法を一緒になって探した。知識はあっても実際にするのは難しい。
ようやく一つになれた、二人とも何故か泣いていた。彼女は痛みで、僕は何故泣いた?
全てが終わって、二人で抱き合っていた。
僕は決心していた、彼女にこう聞く事を。
「姫、愛しています。僕の妻になってもらえますか?」
すぐに答えが返ってきた。
「もちろんよ、幼い頃にそう決めたのですもの」
もう一つの大事なことを聞いてみた。
「姫、国を捨てる事が出来ますか、貧乏な生活に耐えることが出来ますか、炊事や洗濯が出来ますか?」
答えは返ってこなかった。
かなりの時間が経ってから、彼女は小さな声で「出来ない」とだけ言った。
失敗した、奪って逃げる事に、彼女を奪い取る事に。身分違いのこの恋は中途半端な結末で終わった。
「どうしたの?」
服を着始めた背中に、彼女の声が掛かった。
「逃げます」
腰に刀を差しながらそう答えた。
「何故、何故逃げるの、逃げる必要なんかないじゃない!」
「姫とこういう関係になった以上はここにいることは出来ない。身分が違いすぎるのです」
「どうして私を捨ててしまうの?」
「姫が御国を捨てられないのでそうせざるを得ません。姫と関係があるだけで僕は犯罪者になってしまっているのです」
「どういう事?」
「先程申し上げました、身分が違うと。これは許されない恋だったとしか言いようがありません。あなたの事は絶対に忘れません、マグダ将軍と一緒に王宮に来たときにあなたを見て、一目で恋に落ちたのです。でも、それは許されない」
彼女は何も言わずにただ聞いていた。
「大好きでした、あなたが。あなたの御顔を見るだけで胸が高鳴り、あなたのことを考えただけで胸が締め付けられるようでした。でも、終わりにしなくてはなりません……姫様の御多幸を御祈り申し上げます」
それだけ言って部屋を静かに出た。
背中で泣いている気配がした、声を殺して泣いている気配が。
こうして重要機密保持者の逃亡として反逆の扱いを受ける事になった。
王宮を静かに出て、急いで国外へ出る事にした。でも出来なかった。
国境の村や町は多くの兵士が配置され、人が通れそうな場所には必ず騎士と歩兵がいた。
アベルヌ王国との国境の村へ行ってみたが同じだった。ベトルシ王国との国境にある山に行ったら兵士がいた。国を横断してリトウール王国との国境へ行った。同じだった。南下してドータレス王国との国境にも行ったが、同じだった。
万事休す、国外に逃げられない。
人に近づく事も避けなくてはならなかった。だから、情報が全くつかめなかった。
後から聞いた話では、逃げ出した事で国王は激怒したらしい。当然の事だが。
森に逃げた……いつの間にか、祖父と暮らしたサルベロの領地に来ていた。あの糞ったれのサルベロの領地。
あの家が残っていた、二人で立てた掘っ立て小屋が。ひとまずそこに隠れる事にした。
でも、その選択は失敗だった。
十
「アル、出て来い!」
ちっ、見つかったようだ。火も使わず外にも出ないようにしていたのに。
何故分かったんだろう?
「アル、私だ、エルド・マグダだ、出てきてくれ!」
ああ、将軍か、不本意だが出て行くしかないか。
刀の状態を確認した。そして、木刀を手にとって外に出た。
「将軍自らとは僕も出世したようですね」
「アル、何故逃げた、何故アイラ姫のお気持ちを汲まなかった?」
「何とも言えません。あのとき姫は国を捨てると言わなかった。だから、奪って逃げる訳にはいかなくなったのです」
「力づくでも連れて行こうとは思わなかったのか?」
思わなかった、二人が同じ気持ちでないといずれ壊れる関係になると思った。
素直にそう言った。
「そうか……お前という奴は……」
「で、どうなさいますか?」
「王宮に連れて帰らねばならぬ」
「抵抗すると言ったら?」
「殺さなくてはならなくなる」
「第一騎士団全員がおいでのようですね」
「逃げられると困るのでな」
「皆さん道連れになりますか?」
「それも困る。国王陛下がどうしてもお前と話したいと仰せなのだ」
「……そうですか。僕も陛下にはお話ししようと思っていたのです、失われた記憶の事で」
「アル、まさか、思い出したのか?」
「ええ、ほとんど」
そう、思い出していた、苗字と身分以外は。
両親と兄が兵士達に斬り殺された。祖父と二人で抵抗したが、目の前で殺された。そのとき八歳だった。父は反逆者と呼ばれそれに抵抗した、だから殺された。
祖父は生き残った二人で逃げ出す事を選んだ。それで反逆者の一族として八年近く追われ続けた。
剣の稽古を続けながら二人で逃げた。金を稼ぐ事など出来ず、細々と畑を耕し貧しい暮らしを続けた。
それでも最後には見つかった。兵士達は狭い掘っ立て小屋の中で矢を射掛け、祖父はそれを胸に受けて死んだ。僕は後頭部から背中にかけて斬られ気を失った、そして、記憶も。止めは刺されなかった。
何故かは分からない。でも、そういう事が起きた。
反逆者として追われるからにはそれなりの理由があったはずだ。
国王が承認しない限り反逆罪での訴追と処罰は出来なかった。それは短い王宮でのあの書類仕事の中で知った。
苗字や身分がどうであれ、その理由が知りたかった。
「同行はします。しかし、一族の形見であるこの刀だけは手離せません」
「私が責任を持って預かると言ってもか?」
考えた。この人物なら大丈夫、頭のどこかでそう囁かれた。
「では、将軍だけに預けます。他人の手に触れさせた時点で抵抗します」
「剣がなくてもか?」
「無手の技も祖父から仕込まれています。抵抗すればそちらに死者が出ます、お願いですからそのような真似をさせないで下さい、将軍」
「分かった、私の腰に差そう」
「では、直接お渡しします」
そう言って、柄の方を将軍に向けて大小の刀を差し出した。
彼は大事そうに受け取ってくれた。そして、言った通りに自分の腰に差した。
「アル、済まないが逃げ出さないようにさせてくれ。命令なのだ」
「……承知しました」
捕り縄を掛けられ目隠しをされた。そして馬に縛り付けられて首都に向かう事になった。
「アル、苗字は思い出したのか?」
「……いいえ」
「身分も思い出せないのか」
「……ええ」
「それ以外は思い出したのか?」
「ほとんど」
「姫様の事は?」
「一度お会いした事を。そのとき、幼い自分が騎士のように振舞って、姫の手にキスした事を、そして、約束したことを」
「そうか……」
十一
縄で縛られたまま王宮の謁見の間に連れて行かれた。逃げ出そうと思えばいつでも逃げられた。でも、そうしなかった。
聞いてみたかったのだ、国王に。
何故僕の父が反逆者となったのか、何故それを知っていて自分と姫の近くに置いていたのか。
記憶を失っていると思って安心したからなのか、そうでないのか。
「アル、陛下の御前である。縄を解くが神妙にしているように」
そう言われ縄を解かれた。見回すと彼女が泣きながらこちらを見ていた。
心が痛む、辛い、悲しい。
「アル、何故逃げた?」
「逃げたかったからと御返事申し上げます」
「何かあったのか?」
「御想像にお任せします」
「マグダから聞いたがほとんど思い出したそうだな」
「ええ」
「苗字や身分はどうだ?」
「それはまだです」
「何を思い出した?」
「家族を……両親と兄を斬り殺された事、彼等は御国に反逆したとして殺された事、祖父と二人で抵抗したこと、八年近くもその罪で追われ祖父が僕をかばって胸に矢を受けながら死んでいった事、そうした事です」
「そうか……では、儂から話をしなくてはならんな。儂が王に即位する前、つまり先王の頃だ。君の一族、つまり君の父は反逆罪で訴状が出され先王はそれを受理した。先王は一族の抹殺を命じた、皆殺しだ。だから八年近くもの間追われ続けたのだ。そして先王は君達二人が死んだ事を聞いて安堵し、そして死んでいった」
そうか、やはり。在位年数から計算すれば当然の事だ。
「その事について儂は君に詫びねばならん。反逆の事実はなかった、心ない貴族達の讒言を先王が取り上げてしまったのだ。済まん、許してくれ」
「御手を御上げ下さい、詫びる必要などありません。それに今更そのように仰せになられても、今までの十五年が消える訳ではないのです」
「そうだな、君の言う通り儂や先王の罪が消える訳でもない。仇を討つかね?」
「……最初はそう思っていました。でも、一つだけお聞きしたい」
「何かね?」
「何故それを知っていて僕を近くに置いたのですか、何故アイラ姫との恋路を認められたのです?」
彼は何も言わなかった。しばらく黙って考えていた。
ようやく口を開いた。
「罪滅ぼし、と言って聞いてくれるだろうか。儂は即位した時点で君の父上の反逆が事実無根である事を知っていたのだ。だから、許婚として決めていた君とアイラとの恋路を認めたのだ」
「……許婚?」
「そうだ、思い出せないのか? まあ、無理も無かろう。決めてから一年も経たずにお父上は反逆者として殺されたからな。しかし、アイラと王宮で出会っている事は覚えているだろう?」
「ええ」
「アイラはずっと君を覚えていた、事あるごとに思い返していた。自分の夫たる人物は君しかいないとずっと心に決めていた。だから、持ち込まれる縁談を全て断っていた」
突然、声が響いた。
「お父様、私のアル様を返して、お願い! 国を捨てても良い、貧しい暮らしをする事になっても良い! だからアル様、私を奪って逃げて、お願い!」
ようやく奪って逃げる条件が整った。
「人殺しが夫でも構わないのですね?」
「あなたがいればそれだけで良い」
「では、陛下、アイラ姫は頂いていく。親子で反逆者になるというのも何かの因縁でしょうか」
「君は何か勘違いをしているようだ」
「……は?」
「君達親子は反逆者ではない、罪はないのだ。お父上も、君も」
「では、何故僕は追われたのですか?」
「親ばかと笑ってくれ、アイラのためだ」
何だ、逃げたのが間違いだったのか、逃げなくても良かったのか。
王族や貴族達が文句を言っている。
「あんな下賎な輩にアイラ姫を?」
「国王陛下とは言え身分の差は無視できないだろう!」
国王はしばらくそうした叫び声に似た非難の声を聞いていた。
そしてこう言った。
「アルよ、騎士となれ、忠誠を誓え。そうすればアイラをすぐに嫁に出せる」
「大変申し訳ないがお断り致します」
「何故だ!」
大声で言わなくても聞こえる。国王でも節度を持って欲しいものだ。
「僕が忠誠を誓うのはアイラ姫にだけです、アイラ姫ただ御一人に忠誠をお誓いする。永遠の愛の誓いとともに」
泣き声がした、そして後ろから抱きつかれた。
「アル、アル、私のアル! 本当、本当に?」
「本当だ。君への愛の誓いと共に忠誠を誓うよ、騎士になるのなら君だけの騎士だ。確か、子供の頃にもそう言ったはずだ」
「思い出したのね、アル、愛しているわ! 私だけの騎士、アル!」
国王は何も言わずに微笑んでいるだけだった。
「全ての王族と貴族に申し渡す! グリクース王国第十二代国王ジグリー二世の名において、眼前の二人、アル・カーリンド公爵と我が娘アイラの婚儀を認める!」
ちょっと待て、今なんて言った?
「あの、陛下……今、何と仰せになられた?」
「何がだ?」
「僕の名前を言いましたか?」
「ああ、確かに言った。ああ、済まんな、言い忘れておったが君はカーリンドという姓を持つ。カーリンド家は建国以来我が王家に仕える貴族であり爵位も公爵、だから君はアル・カーリンド公爵になる」
「しかし、反逆罪となれば廃絶になるはずですが」
「さっき言ったぞ、儂は即位したときにその反逆罪が濡れ衣である事を知っていたと。だから即位してすぐに名誉回復の手続きをした。信じられんか?」
「……はあ」
「相変わらず気のない返事だな。宰相、カーリンド家の名誉回復が既に終了している事を王族や貴族にも説明しておけ!」
大声で言わなくても聞こえるって。
宰相が大声で何か言っているが、聞こえてない。
彼女と見詰め合っていた、アイラと、自然と抱き合っていた。そして、長く甘いキスを交わした。
彼女はこう言った。
「私だけの騎士、アル、私はもう一度あなたに永遠の愛を誓うわ、あなたの妻として」
「ありがとう、ようやく約束が果たせた」
そう、あのとき約束をしていたんだ。初めて王宮に来たときに約束した。
「君の騎士として君の未来の夫として約束するよ、例え離れる事があっても必ず君の元に戻ってくる」
「私はあなたの妻として永遠に、何があってもあなただけを想い続けるわ」
幼い二人の約束だった。