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婚約破棄されたので古書店で働いていたら、本に宿る想いが視える力で「奇跡の店員」と呼ばれるようになりました〜もう貴方のための人生は生きません〜

作者: uta
掲載日:2026/03/18

【お知らせ】

この作品は生成aiを用いて執筆を行なっています

あらかじめご了承の上、お楽しみください

「君といても、将来が見えないんだ」


スマートフォン越しに聞こえてきたのは、五年間聞き慣れたはずの声。

なのに、こんなにも他人行儀に響くものだったかしら。


「——婚約は、破棄させてもらう」


雨が降っていた。

六月の夕暮れ、灰色の空から絶え間なく落ちてくる雫が、古びた商店街のアスファルトを叩いている。


私——水無月澪は、軒先で立ち尽くしていた。

折り畳み傘は、今朝誠也さんに「俺が使うから」と取り上げられたまま。


(そういえば、いつもそうだった)


彼の都合が優先。彼の予定が最優先。

私の傘も、私の時間も、私の人生も——全部、彼のものだった。


「彼女と結婚することにした。会社の後輩の……白川だよ。知ってるだろ?」


知っている。

ふわふわの巻き髪に、大きなたれ目。

「澪さんって優しいから、誠也さんも甘えちゃうんですよね」

そう言って小首を傾げた、あの女。


(ああ、そういうことだったのね)


不思議と、涙は出なかった。

ただ、胸の奥で何かが——ぱきん、と小さな音を立てて折れた気がした。


「急な話で悪いとは思ってる。でも、美羽は俺がいないと駄目なタイプだから」


駄目なタイプ。

私は駄目じゃなかったから、放っておいてよかったということ?

五年間、あなたの食事を作り、部屋を整え、仕事の愚痴を聞き、あなたの母親の嫌味に耐え——。


「君は強いから、大丈夫だろ」


——強い。


その言葉が、最後の一撃だった。


強いから大丈夫。

強いから放っておいていい。

強いから、電話一本で五年間を終わらせていい。


(ああ、私、ずっと便利な女だったのね)


「……分かりました」


私の声は、自分でも驚くほど平坦だった。


「え、それだけ? もっとこう……」


「何か言ってほしかったんですか?」


「いや、まあ……五年も付き合ったんだし」


(五年も付き合ったから、電話一本で済ませたのでは?)


喉元まで出かかった言葉を、私は飲み込んだ。

——いつものように。

——「いい人」の澪として。


「どうぞお幸せに」


通話を切る。

雨音だけが、やけに大きく聞こえた。


視界が滲む。

泣いているのか、雨に濡れているのか、もう分からない。


とにかく、どこかで雨宿りを——。


駆け込んだのは、取り壊し予定の張り紙が貼られた古びた店だった。


『雨音堂』


木製の看板が、雨に濡れて黒々と光っている。



店内は薄暗く、古い紙とインクの匂いが充満していた。


本、本、本。

天井まで届く本棚に、隙間なく詰め込まれた無数の背表紙。


「……っ」


一冊の本が、目に飛び込んできた。


『月光の庭で』


色褪せた紺色の表紙。

金色の箔押しで描かれた、月と少女の絵。


——お母さん。


手が、勝手に伸びていた。


これは、私が十歳の時に母が読んでくれた最後の童話集。

母が亡くなった後、どれだけ探しても見つからなかった絶版本。


指先が表紙に触れた瞬間——。


『澪、本の中にはね、誰かの想いが宿っているの』


温かな声が、脳裏に響いた。

病室のベッドで、痩せ細った手で私の髪を撫でながら、母が微笑んでいる。


『あなたの力は、とても素敵な力よ』


——ああ、そうだった。


私には、本に触れるとその本にまつわる人の想いが視えるという、不思議な力がある。

幼い頃、この力を気味悪がられてから、ずっと隠してきた力。


母だけが、この力を肯定してくれた。


「その本、売り物じゃない」


低い声が、私の意識を現実に引き戻した。


振り返ると、本棚の影から一人の男が現れた。

無造作に伸ばした黒髪、夜空のような深い紺色の瞳。

銀縁の眼鏡の奥で、冷ややかな視線が私を射抜く。


長身で痩躯、古書の匂いが染みついたカーディガンを羽織っている。

表情に乏しく、どこか近寄りがたい雰囲気。


「あ……すみません、私……」


言い訳をしようとして、言葉が詰まった。


涙が、止まらなくなっていた。


五年分の我慢が、堰を切ったように溢れ出す。

誠也さんの言葉、白川さんの笑顔、母との思い出——全部がぐちゃぐちゃに混ざって、私の中で暴れている。


「……っ、すみませ……」


「——謝るな」


男の声が、ほんの少しだけ柔らかくなった。


「雨宿りなら、好きなだけしていけ」



どれくらい泣いていただろう。


気がつくと、古びたカウンターの椅子に座っていた。

目の前には、湯気を立てる温かい紅茶。


「……ありがとう、ございます」


「礼はいい」


店主らしき男——雨宮、と名札にあった——は、カウンターの向こうで本のページを繰っている。

無愛想極まりない。

けれど、追い出そうとはしない。


「あの本は」


ぽつりと、雨宮さんが言った。


「祖父が死ぬ前に、誰かに届けたがっていた。届け先は分からないまま、ずっとここにある」


「……」


「だから売り物じゃない。それだけだ」


不器用な言い訳。

私が欲しがっていると、気づいたのかもしれない。


「私」


気がつくと、口が動いていた。


「ここで働かせてください」


雨宮さんの手が、止まった。


「……は?」


「アルバイトでいいんです。いえ、無給でも構いません。私——」


言葉を探す。

五年間、ずっと誰かのために生きてきた。

誠也さんのために、誠也さんの家族のために、誠也さんの望む「いい婚約者」であるために。


でも、もう。


「私は、私の居場所を作りたいんです」


雨宮さんが、初めてまともに私の顔を見た。

紺色の瞳が、不思議そうに細められる。


「……この店、来月には取り壊しだぞ」


「知ってます。張り紙、見ましたから」


「人嫌いで有名な偏屈店主だと、近所では評判だ」


「今、実感してます」


雨宮さんの眉が、ぴくりと動いた。


(あ、怒らせた?)


けれど——。


「……面白いことを言う」


唇の端が、ほんの僅かに持ち上がった。

笑った、のだろうか。


「勝手にしろ。ただし給料は出ない」


「ありがとうございます」


私は深く頭を下げた。


窓の外では、まだ雨が降り続いている。

でも、胸の奥で折れたはずの何かが——少しだけ、温かくなった気がした。


(もう、誰かのために生きるのはやめよう)


私は私の人生を生きる。


そう決めた夜だった。



雨音堂でのアルバイト初日。


「本棚の配置は変えるな。埃を払うな。勝手に本を移動するな」


雨宮さんから告げられた禁止事項は、三つ。


(それ、私に何をしろと……?)


内心でツッコミを入れながらも、私は淑やかに頷いた。


「分かりました」


「あと、客が来ても俺を呼ぶな。勝手に対応しろ」


「……お客様、いらっしゃるんですか?」


取り壊し予定の古書店。

店内に客の気配は、皆無だった。


「たまに来る」


雨宮さんはそれだけ言うと、奥の部屋へ消えていった。


(なんて自由な職場なの……)


誠也さんとの暮らしでは、常に彼の顔色を窺っていた。

何をするにも「誠也さんはどう思うか」が判断基準だった。


でも、ここには——誰の顔色も窺う必要がない。


私は店内を見回しながら、そっと本棚に触れてみる。


——温かい。


この本棚自体に、沢山の想いが染み込んでいる。

本を愛した人々の記憶、この場所で過ごした時間、誰かに届けたかった言葉——。


(ここは、想いの集積所みたいな場所だ)


不思議と心が落ち着く。


昼過ぎ、カランとドアベルが鳴った。


「あら、見ない顔ね」


入ってきたのは、銀髪混じりの髪をきりりとまとめた女性だった。

エプロン姿で、手には重箱のようなものを持っている。


「佐伯と言います。隣で喫茶店をやっているの」


「あ、水無月です。今日からここでアルバイトを……」


「アルバイト!?」


佐伯さんは目を丸くした。


「あの偏屈の蒼一郎が、人を雇った? しかもこんな可愛らしいお嬢さんを?」


「いえ、無給なので雇われたわけでは……」


「無給!? あの子、何を考えて——蒼一郎! ちょっと出てきなさい!」


奥の部屋に向かって叫ぶ佐伯さん。

しかし返事はない。


「……まったく。朔太郎さんが生きていたら、泣くわよ」


「朔太郎さん?」


「先代の店主よ。蒼一郎のお祖父様」


佐伯さんは重箱をカウンターに置きながら、ため息をついた。


「あの子ね、昔はもっと笑う子だったのよ。おじいちゃんっ子でね、『僕、大きくなったらじいちゃんと一緒に本屋さんやるんだ』って」


「……」


「でも色々あって、東京に出て行って。朔太郎さんが亡くなった時も、最期に間に合わなかった」


雨宮さんの無愛想の奥に、そんな過去があったのか。


「あの子が店を閉めようとしてるのは、自分を罰してるんだと思うわ。『継がない』と言って出て行った自分への」


佐伯さんの言葉が、胸に刺さった。


自分を罰する。

誰かの期待に応えられなかった自分を、ずっと責め続けている。


——私も、そうだったかもしれない。


誠也さんの望む「いい女」になれなかった自分を、どこかで責めていた。

だから、もっと頑張らなきゃと思っていた。

もっと尽くさなきゃ、もっと従順に、もっと——。


(でも、それは間違いだった)


私は私を責める必要なんて、なかったのだ。



夕方、一人の老紳士が来店した。


「すみません、探している本があるのですが」


穏やかな声。

しかし、その目には深い悲しみが宿っていた。


「亡くなった妻が好きだった本なんです。タイトルも作者も分からないのですが……表紙が水色で、詩集だったと思います」


「詩集ですか……」


私は本棚を見回した。

詩集のコーナーだけでも、百冊以上はある。


「妻の形見の品を整理していたら、その本のことを思い出しまして。せめて、もう一度読みたいと……」


その時、老紳士の手が——無意識に、一冊の背表紙に触れた。


私は、その本にそっと手を伸ばす。


——視えた。


若い女性が、窓辺でこの本を読んでいる。

穏やかな午後の光。

幸せそうな微笑み。

彼女はこの本を読むたび、あの人——今目の前にいるこの老紳士のことを想っていた。


『あなたに出会えて、よかった』


本の中に込められた、妻から夫への想い。

それが、私の心に流れ込んでくる。


「……こちらでは、ないですか」


私が差し出したのは、薄い水色の表紙の詩集。

『星を数える夜に』


老紳士の目が、大きく見開かれた。


「これです……! 間違いない、これです……!」


震える手で本を受け取り、老紳士は涙を流した。


「ありがとうございます……ありがとう……」


「奥様は」


私は静かに言った。


「この本を読むたびに、あなたのことを想っていらしたんだと思います」


老紳士が顔を上げた。


「……どうして、そんなことが」


「なんとなく、そんな気がしたんです」


誤魔化すように笑う。

けれど老紳士は、深く深く頭を下げた。


「本当に、ありがとうございました」



老紳士が帰った後。


「……視えるのか」


振り返ると、雨宮さんが奥の部屋の入り口に立っていた。

いつから見ていたのだろう。


「……何のことですか」


「とぼけるな。本に触れると、何かが視える。そうだろう」


心臓が跳ねた。

幼い頃、この力を知った同級生に「気持ち悪い」と言われたことを思い出す。


「違います。ただの勘で——」


「便利な力だな」


雨宮さんの声は、驚くほど淡々としていた。


「……え?」


「気味悪がるとでも思ったか。生憎、この店には不思議なことなど山ほどある」


「……」


「祖父は『本には魂が宿る』と言っていた。お前の力は、それを証明しているだけだ」


何でもないことのように、雨宮さんは眼鏡を押し上げた。


「便利だな」


二度目の、その言葉。

否定でも、恐怖でもない。

ただの——事実の確認。


「……変わった人ですね」


「よく言われる」


初めて、雨宮さんが小さく笑った。

笑うと、少し幼く見える。


(ああ、佐伯さんが言っていた『笑う子』って、こういう顔だったのかも)


「明日も来い」


「……給料は?」


「出ない」


「ですよね」


私も、少しだけ笑った。


雨は、まだ降り続いていた。

でも、もう冷たくはなかった。



雨音堂で働き始めて、二週間が経った。


「澪ちゃん、またお客さん来てるわよ」


佐伯さんが、喫茶店『ことのは』から顔を出す。


「ありがとうございます」


店の前には、三人の女性が並んでいた。


「あの、探している本があるんですけど……」

「SNSで見たんです。『雨の日だけ本当に欲しい本が見つかる古書店』って」

「今日、雨降ってますよね? だから来ました!」


——また、噂が広まっている。


あの老紳士が、どこかで話したらしい。

『亡き妻が愛した本を、不思議な店員さんが見つけてくれた』と。


それからというもの、雨の日になると客が訪れるようになった。


「探している本」「忘れられない一冊」「誰かに届けたかった物語」——私の力で、それを見つけてほしいと。


私は一人一人の手に触れた本から、想いを読み取っていった。


亡くなった母親が読んでくれた絵本を探す青年。

初恋の人からもらった小説を探す中年女性。

疎遠になった息子との思い出の本を探す老婆。


みんな、本を通じて誰かと繋がりたがっている。

本は、想いの器なのだ。


「今日のお客さんで、十二人目ね」


夕方、佐伯さんがコーヒーを差し入れてくれた。


「蒼一郎が店主になってから、こんなに人が来たの初めてよ。朔太郎さんが生きてた頃みたい」


「私はただ、本を渡しているだけです」


「それが凄いのよ。あなた、本当に『その人に必要な一冊』を見つける」


佐伯さんは、優しい目で私を見た。


「朔太郎さんもね、そういう人だったわ。『本と人を繋ぐのが、古書店の仕事だ』って」



「水無月」


夜、閉店作業をしていると、雨宮さんが声をかけてきた。


「はい」


「……なぜ、その力を隠して生きてきた」


唐突な質問だった。


「……幼い頃、同級生に話したことがあるんです」


本棚を見つめながら、私は答えた。


「『気持ち悪い』と言われました。『嘘つき』とも。それから——誰にも言わないようにしました」


「……」


「母だけが、『素敵な力だ』と言ってくれました。でも母はすぐに亡くなって」


「だから、五年も。そいつの傍で、力を隠して」


雨宮さんは、誠也さんのことを指しているのだろう。

私が婚約破棄されたことは、佐伯さん経由で知っているはずだ。


「誠也さんには——言ったことがあります」


「……」


「『そういうオカルトっぽい話、やめてくれ』と言われました。『普通にしていてくれ』と」


普通。

誠也さんが求めた、普通の婚約者。

普通に尽くして、普通に従って、普通に彼を立てる女。


「だから、能力のことは封印しました。誠也さんの望む『普通』でいるために」


私は自嘲気味に笑った。


「結局、五年間『普通』でいても、捨てられましたけど」


沈黙が落ちた。

雨音だけが、静かに店内に響く。


「……俺は」


雨宮さんが、ぽつりと言った。


「祖父に『店を継ぐ気はない』と言って、東京に出た」


「……」


「古臭い商売に未来はない。そう思っていた。祖父の生き方を、馬鹿にしていた」


雨宮さんの声は、いつもより低かった。


「後悔した時には、祖父は死んでいた。『継いでほしい』と思っていたのかどうかも、聞けなかった」


「……」


「だから、店を閉める。祖父の想いも分からないまま、この場所を守る資格など——」


「それは、違うと思います」


私は、思わず口を挟んだ。


「資格がないと決めているのは、雨宮さん自身です。お祖父様が本当は何を望んでいたか——聞いてもいないのに」


雨宮さんの目が、僅かに見開かれた。


「……生意気だな」


「すみません」


「いや。——悪くない」



翌日。


「澪!!」


店に飛び込んできたのは、親友の本郷遥だった。


ショートカットにパンツスーツ、出版社で編集者として働く彼女は、私の大学時代からの親友だ。


「遥……どうしたの、そんなに慌てて」


「どうしたのじゃないわよ! あの男、とんでもないこと言い出してるわよ!」


「あの男?」


「誠也よ! 『澪と復縁したい』って!」


——は?


「何言ってるの。彼、白川さんと結婚するって——」


「それが破談になったのよ! 白川って女、誠也が澪に未練あるって分かった途端、本性現したらしくて」


遥は早口でまくし立てる。


「『私のこと愛してないの!?』ってヒステリー起こして、誠也の会社にまで乗り込んで大騒ぎ。誠也、社内での評判ガタ落ち」


「……」


「で、『やっぱり澪が一番だった』だって。はあ!? ふざけんな!!」


私より遥の方が怒っている。


「澪がどれだけあの男に尽くしてきたか、私は知ってるのよ。五年間、自分を殺して、あの男の望む女でいようとして——」


「遥」


私は、親友の手を取った。


「ありがとう。でも、大丈夫」


「大丈夫って……」


「私、もう誰かのために生きる人生はやめたの」


遥が、目を丸くした。


「誠也さんが何を言おうと、私には関係ない。私は——ここにいるから」


古書の香りが、私を包んでいた。

雨音堂。

二週間前、雨宿りに飛び込んだこの場所が——今は、私の居場所になっている。


「澪……」


「いい顔になったな」


声がして振り返ると、雨宮さんが奥から出てきたところだった。


「二週間前の泣き顔とは大違いだ」


「な……っ、あの時のことは忘れてください!」


「断る」


淡々と言い放つ雨宮さん。

遥が、興味深そうに彼を見ている。


「へえ……あなたが噂の偏屈店主?」


「人を見世物みたいに言うな」


「澪の親友です。よろしく」


「……よろしくされる義理はない」


「うわ、本当に偏屈」


「遥!」


私が止めるのも聞かず、遥は楽しそうに笑った。


「澪、ここ、いいじゃない。あの男といた時より、ずっといい顔してる」


「……そう、かな」


「そうよ。だから——あの男が何か言ってきても、絶対に揺らがないで」


遥の目が、真剣になった。


「あなたは、もう自分の人生を生きてるんだから」


——自分の人生。


その言葉が、胸に温かく響いた。



その日は、雨だった。


「澪」


店の前に立っていたのは——桐生誠也。


整った顔立ち、爽やかな笑顔、高身長でスーツの似合う外見。

三週間前までは、この人が私の婚約者だった。


でも今、その笑顔は——ひどく薄っぺらく見えた。


「久しぶり。元気そうだね」


「……何か、ご用ですか」


私は、店の入り口に立ったまま答えた。

中には入れない。

ここは——私の居場所だから。


「単刀直入に言うよ」


誠也さんは、相変わらず自信に満ちた表情で言った。


「復縁しないか、澪」


「お断りします」


「即答かよ」


誠也さんは苦笑した。

その笑顔が、計算されたものだと——今なら分かる。


「まあ、怒ってるのは分かるよ。俺も悪かった。でも考えてみてくれ。俺たち、五年も一緒にいたんだ」


「五年も一緒にいたから、電話一本で婚約破棄できたんですよね」


「……」


「『君といても将来が見えない』『彼女と結婚する』——確かそう仰いましたよね」


誠也さんの顔が、僅かに引きつった。


「あれは——俺も冷静じゃなかったんだ。美羽に振り回されて」


「白川さんのせいですか」


「違う、そうじゃない。俺が言いたいのは——」


「誠也さん」


私は、静かに遮った。


「復縁の理由を聞いてもいいですか」


「え?」


「私のどこが良くて、復縁したいんですか」


誠也さんは一瞬言葉に詰まり、それからこう言った。


「君は——俺を支えてくれた。料理も上手いし、部屋も綺麗にしてくれるし、俺の仕事の愚痴も聞いてくれた」


「……」


「美羽は、そういうの全然駄目だったんだ。家事もしない、俺の話も聞かない、自分のことばっかりで」


「それで、私を思い出したと」


「そう。やっぱり澪が一番だって」


——ああ、やっぱり。


私は、小さく息を吐いた。


「誠也さん」


「なに?」


「それは『私』が好きなんじゃなくて、『私がしてきたこと』が便利だっただけですよね」


誠也さんの顔が、強張った。


「料理を作る人、部屋を掃除する人、愚痴を聞く人。私という人間じゃなく、私の『機能』が欲しかっただけ」


「そんなこと——」


「私が古書店で働いていること、ご存じですか」


「え? ああ……聞いた。でも、そんな古臭い店——」


「私、ここで本を探す仕事をしているんです。人が本当に必要としている一冊を、見つける仕事」


「……」


「誠也さんは、私のこの仕事に興味がありますか」


沈黙。


「私が何を考え、何を感じ、どんな力を持っているか。知りたいと思いますか」


「力って……何の話だ?」


「三年前、お話ししましたよね。本に触れると、何かが視えるって」


誠也さんの顔に、嫌悪の色が浮かんだ。

一瞬だけ。でも、確かに見えた。


「ああ、あの——オカルトみたいな話か。まだそんなこと」


「ええ。まだそんなことを言っています」


私は、微笑んだ。


「私はずっと、あなたに『普通』を求められてきました。私の力を否定され、私の本質を見ないふりをされて」


「澪——」


「でも、ここでは違うんです」


雨音堂を振り返る。

薄暗い店内、古書の香り、そして——。


奥の暗がりに、雨宮さんの姿が見えた。

黙って、こちらを見ている。

助けに来るわけでもなく、ただ——見守るように。


「ここでは、私は私のままでいられる。私の力を『便利だ』と言ってくれる人がいる」


「誰だ、そいつ」


「あなたには関係ありません」


私は、誠也さんに向き直った。


「さようなら、誠也さん」


「待て。澪、俺たち五年も——」


「私はもう、あなたのための人生を生きていませんので」


静かに、しかし毅然と。


誠也さんの顔が、みるみる歪んでいった。


「……なんだよ、それ。急に偉そうに」


「偉そう、ですか」


「ああ。前の君はもっと——」


「従順だった? 大人しかった? あなたの言うことを何でも聞いた?」


「……」


「それを『偉そう』と感じるなら——やはり、あなたは私を見ていなかった」


誠也さんは、何か言いかけて——やめた。


「……後悔するぞ」


捨て台詞を吐いて、彼は去っていった。



「終わったか」


店内に戻ると、雨宮さんがカウンターでお茶を淹れていた。

二人分。


「……聞いていたんですか」


「聞こえた」


「……すみません、私情を」


「謝るな」


湯気の立つカップを、雨宮さんが差し出した。


「——よく言った」


「え?」


「『あなたのための人生を生きていない』」


雨宮さんは、いつもの無表情で——けれど、目だけは優しく言った。


「いい台詞だった」


「……」


泣きそうになった。

嬉しくて。


「私、間違ってなかったですか」


「知らん。お前の人生だ」


「……」


「だが——間違ってはいないと思う」


私は、お茶を受け取った。

温かかった。


「ありがとうございます」


「礼はいい。さっさと飲め。冷める」


相変わらずの無愛想。

でも——それが心地よかった。


窓の外では、雨がやみ始めていた。

薄い雲の切れ間から、夕陽が差し込んでくる。


(終わった)


五年間の呪縛が、ようやく解けた気がした。



雨音堂で働き始めて、一ヶ月が経った。


取り壊し予定は——延期になっていた。

理由は、客足が増えたから。


「『雨の日だけ奇跡が起きる古書店』——すっかり有名になっちゃったわね」


佐伯さんが、嬉しそうに言った。


「蒼一郎、取り壊しの話、断ったんでしょう?」


「……成り行きだ」


雨宮さんは、いつもの無愛想で答えた。

でも、最近少しだけ——口数が増えた気がする。



ある雨の日の夕方。


私は、店の奥の整理をしていた。

雨宮さんに「触るな」と言われていた場所——先代店主の私物が眠る部屋。


「あの、雨宮さん」


「なんだ」


「ここに——お祖父様の本があるんですよね」


雨宮さんの手が、止まった。


「……ああ」


「私、探してもいいですか」


「何を」


「お祖父様が——誰かに届けたかった本を」


沈黙が落ちた。


「佐伯さんから聞いたんです。お祖父様が亡くなる前、『届けたい本がある』と言っていたって」


「……」


「届け先が分からなかったって。でも——」


私は、雨宮さんの目を真っ直ぐ見た。


「本当は、届け先は分かっていたんじゃないですか」


雨宮さんの顔が、僅かに強張った。


「……何が言いたい」


「お祖父様が届けたかったのは——雨宮さんに、じゃないですか」


静寂。


雨音だけが、店内に響いていた。


「……根拠は」


「ありません。ただの勘です」


「……」


「でも、確かめることはできます。私の力で」


雨宮さんは、長い間黙っていた。


その横顔には、様々な感情が渦巻いているように見えた。

怖れ、後悔、そして——微かな期待。


「……好きにしろ」


背を向けて、そう言った。



私は、奥の部屋に足を踏み入れた。


埃の匂い、古い紙の匂い。

そして——誰かの想いの、残り香。


本棚に触れる。


——視える。


老人が、この部屋で本を手に取っている。

穏やかな笑顔、深い皺、そして——寂しそうな目。


『蒼一郎……お前に、渡したかったな……』


その手にあるのは——一冊の、古びた絵本。


私は、視えた場所に手を伸ばした。


本棚の奥の奥、壁との隙間に——それは、あった。


表紙は色褪せ、背表紙はほつれている。


『雨の日の約束』


絵本だった。

男の子と老人が、雨の中で手を繋いでいる表紙絵。


開くと——。


最後のページに、手紙が挟まれていた。



「雨宮さん」


私は、絵本を持って店に戻った。


雨宮さんは、カウンターの前で立ち尽くしていた。

その絵本を見て——彼の顔が、僅かに歪んだ。


「……それは」


「お祖父様が、雨宮さんに届けたかった本です」


私は、そっと絵本を差し出した。


「中に——手紙がありました」


雨宮さんの手が、震えていた。


「……開いていいのか」


「あなたの本ですから」


雨宮さんは、ゆっくりと絵本を開いた。

最後のページ。

挟まれた便箋を、取り出す。


震える手で、手紙を広げた。


『蒼一郎へ


この絵本を覚えているか。

お前が五歳の時、雨の日に泣いていたお前を慰めるために、毎晩読んだ本だ。


「じいちゃん、僕、大きくなったらこのお店継ぐね」


あの時のお前の言葉を、私はずっと覚えている。


お前が「継がない」と言った時、私は何も言えなかった。

お前の人生だ。お前が決めればいい。そう思った。


でも、本当は——


蒼一郎。

私はお前に、この店を継いでほしかった。

お前と一緒に、本を売りたかった。

お前の選ぶ本を、お前の見つけた客を、見てみたかった。


言えなくてすまなかった。

私は不器用な爺だった。


でも、これだけは伝えたい。


お前を愛している。

ずっと、愛していた。


雨音堂を頼む。


           祖父・朔太郎より』



雨宮さんの頬を、涙が伝っていた。


無表情で、感情を見せなかったこの人が——。

声も出さず、ただ静かに泣いていた。


「……っ」


嗚咽が漏れる。


「じいちゃん……」


子供のような、小さな声だった。


「俺も……俺も、継ぎたかった……」


絵本を胸に抱いて、雨宮さんは泣いた。


「意地を張って……後悔して……謝ることも、できないまま……」


私は、何も言わなかった。

ただ、そばにいた。


雨は、まだ降り続いていた。

でも——この雨は、何かを洗い流す雨のような気がした。



どれくらい経っただろう。


雨宮さんが、顔を上げた。

目は赤かったけれど——その瞳には、決意の光があった。


「水無月」


「はい」


「店は——閉めない」


「……はい」


「俺が、継ぐ」


雨宮さんは、絵本の表紙を見つめた。


「じいちゃんが愛したこの店を——俺が守る」


「……」


「十年遅れた返事だが——」


雨宮さんは、小さく笑った。

今まで見たことのない、穏やかな笑顔だった。


「やるよ、じいちゃん。俺、ここを継ぐ」


窓の外で、雨がやみ始めた。

雲の切れ間から、星が見えた。



それから、三ヶ月が経った。


雨音堂は——変わった。

取り壊しは正式に中止になり、店内は少しずつ整えられていった。


相変わらず埃っぽいし、本の配置は謎だし、雨宮さんは無愛想だ。

でも、店には温かな空気が流れるようになった。


「ねえ澪ちゃん、最近蒼一郎の顔つきが柔らかくなったわね」


佐伯さんが、にやにやしながら言った。


「そうですか?」


「そうよ。特にあなたと話してる時」


「……っ」


私は、慌ててカウンターの整理を始めた。


「逃げないの。ねえ、あなたたち付き合ってるの?」


「つ、付き合ってません!」


「あら残念。じゃあ、いつ付き合うの?」


「佐伯さん!」


笑い声を残して、佐伯さんは喫茶店に戻っていった。



雨宮さんとの関係は——変わったような、変わらないような。


相変わらず無愛想で、必要最低限のことしか話さない。

でも、最近は——。


「水無月、昼飯」


「え?」


「ことのはでカレー食うぞ」


「……給料、出てないんですが」


「奢る」


「……」


「何だその顔は」


「いえ、雨宮さんが奢るなんて珍しいなと」


「うるさい。来るのか来ないのか」


「行きます」


こんな会話が、増えた。


食事の後、二人で本の話をすることも増えた。

雨宮さんは無愛想だけど、本の話になると少しだけ饒舌になる。


「この本は——」と語り始める彼の横顔を見ていると、胸の奥がじんわりと温かくなる。


(ああ、私——)


気づいてしまった気持ちを、私はまだ言葉にできずにいた。



そして——六月のある日。


一年前、私が婚約破棄された日と同じ、雨の降りしきる夕暮れ。


「水無月」


閉店作業をしていると、雨宮さんが私を呼んだ。


「はい」


「話がある」


雨宮さんは、いつも以上に——緊張しているように見えた。

眼鏡を何度も押し上げ、視線が泳いでいる。


(珍しい……)


「お茶、淹れますか」


「いい。聞いてくれ」


私は、作業の手を止めた。


「……この一年で、店が変わった」


雨宮さんは、店内を見回した。


「客が来るようになった。俺も——変わった」


「……」


「全部、お前のおかげだ」


「私は——」


「黙って聞け」


珍しく強い口調で遮られて、私は口を閉じた。


「お前が来る前、俺はこの店を閉める気だった。祖父への罪悪感から逃げるために」


「……」


「でもお前が——祖父の手紙を見つけてくれた。俺に、前を向く理由をくれた」


雨宮さんは、真っ直ぐ私を見た。

紺色の瞳が、雨の日の夕陽を映して輝いている。


「お前は俺にとって、恩人だ」


「雨宮さん——」


「だが——それだけじゃない」


雨宮さんの声が、僅かに震えた。


「俺は——お前を」


言葉が、途切れた。

雨音だけが、静かに響いている。


「……」


雨宮さんは、深く息を吸った。

そして——。


「俺と一緒に、この店を守ってくれないか」


「……え」


「一生、お前にここにいてほしい。俺の——傍に」


——それは。


「雨宮さん、それは——」


「ああ。プロポーズだ」


雨宮さんの頬が、僅かに赤くなっていた。


「不器用で悪いな。指輪も、何も用意してない。ただ——」


「——はい」


「俺は、お前と——……何?」


「はい、と言いました」


私の目から、涙がこぼれていた。


「私でよければ——」


言い終わる前に、雨宮さんに抱きしめられた。


「……ありがとう」


ぎこちない腕が、私を包んでいる。

古書の匂い、紅茶の香り、そして——雨宮さんの温もり。


「こちらこそ」


私は、彼の胸に顔を埋めた。


「私に——私の居場所をくれて、ありがとうございます」



窓の外では、雨がやみ始めていた。

夕陽が差し込み、店内を金色に染めている。


「そういえば」


雨宮さんが、私を抱きしめたまま言った。


「給料、出してなかったな」


「……今さらですね」


「一年分、まとめて払う」


「いくらですか」


「俺の全部」


「……それはプロポーズの時に言うやつでは」


「うるさい」


私は、笑った。

涙と一緒に、笑いがこみ上げてきた。


「雨宮さん」


「なんだ」


「下の名前、呼んでもいいですか」


「……好きにしろ」


「蒼一郎さん」


彼の腕が、少しだけ強くなった。


「……お前も、俺のことを呼び捨てでいい」


「え、でも——」


「澪」


名前を呼ばれて——心臓が、跳ねた。


「……っ、ずるいです」


「何がだ」


「先に言うの、ずるい」


「さっさと呼べ」


「……蒼一郎」


雨音堂に、雨上がりの光が満ちていた。



【一年後】


「いらっしゃいませ、雨音堂へようこそ」


今日も雨の日。

私は、店の入り口で客を迎えていた。


「あの……探している本があるんですけど」


「はい、なんでもお聞きください」


薬指には、シンプルな銀の指輪が光っている。


「澪」


カウンターから、蒼一郎が声をかけてきた。


「お茶、淹れたぞ」


「ありがとう。——お客様、どうぞ中へ」


雨音堂——『雨の日だけ奇跡が起きる古書店』。


私と蒼一郎は、ここで本と人を繋ぐ仕事をしている。

雨の日が来るたびに、誰かの想いを届ける仕事。


これが——私の居場所。

私が選んだ、私だけの人生。


一年前、あの雨の日。

電話一本で婚約破棄されて、世界が終わったと思った。


でも、違った。


あれは終わりじゃなく——始まりだったのだ。


誰かのために生きる人生を終わらせて、私は私の人生を始めた。


窓の外では、今日も雨が降っている。

でも、もう冷たくはない。


この雨は——誰かと誰かを繋ぐ、優しい雨だから。


「澪、お客さんが『ありがとう』って言って帰ったぞ。また泣いてたな」


「蒼一郎、報告しなくていいです……」


「いい仕事だった」


「……ありがとう」


蒼一郎が、そっと私の髪に触れた。


「礼はいい。——愛してる」


「……っ」


「何度でも言う。愛してる」


「……私も」


雨音堂の窓から、虹が見えた。


——『雨音堂』の物語は、まだまだ続く。


【完】

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