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ノンフィクションのプラトニックラブ

時は大学時代へと移ります。

初めて親元を離れ、ホームシックになるかと思いきや、毎日毎日バイトに追われて試験休みになっても実家には帰らず仕舞い。そんな時でもやっぱり恋をしていた自分がいました。

第三巻        

  恋・大学時代

 大学に入ったのは、昭和五十三年四月でした。

この大学に進学したのは、同じ高校から仲のいい三人組でした。

実はこの三人、奇妙な繋がりがありまして、私の父は友人「鶴田」君の担任教師だったことがあり、また、「鶴田」君の母親は、「広瀬」君の担任教師であったそうです。

入学式の時、『山口』から『大分』まで行くのに両親が調べて手配してくれた、寝台特急ブルートレイン『富士』でした。

この特急列車に乗れば、乗り換えなしで行けたこと。

そして、特急券は必要でしたが、寝台料金が丁度無料になる区間でもあったためでした。

さて、大学に通うには学生寮か、下宿か、あるいはアパートか?

初めての地でもあるのでとりあえず私の両親が大学の学生課に連絡を取り、探して推薦していただいたのが、『松月荘』下宿でした。

朝・夕食付きで、最初は二人部屋。

同室になった「三根」君。

建築工学課で、出身は同じ山口県の方。

お父さんは建築関係の会社経営者と言うこともあり、このルームメイト2年ほどで大学を辞めて実家を継いでおられまして、今では社長さんです。

お話は、この『松月荘』に戻りますが、どちらかと言うと、古いほうでよく言えば『レトロ』風でした。

二階建てだったのですが、階段は鉄製。

当然床も鉄製。

『塗装は錆止め』のみ。

部屋のドアは木製。

窓はアルミサッシではなく、鉄製。

窓の外も鉄格子。

浜辺に立っていたので、窓を開けると、一面に広がるのは防風林の松林。

設備は、

『共同トイレ』

『共同風呂』

当然、『手洗い兼流し』も共同。

ついでに、トイレも昔ながらの

『和式・ぼっとんトイレ』

多分、今現代の若年層の方では寝起きすら辛いかもと思います。

この、田舎暮らしの私でさえ、最初は戸惑いました。

しかし、人間、暮らしていれば慣れてしまうもので、

「住めば都」

「郷に入っては郷に従え」

二年ほどで建て替えがあったとはいえ、よく四年間暮らしたものだなと思います。

最初、大学に通うためにと自転車を買いました。これがまた少し凝って、『ブリジストン・ロードマン』当時流行っていた、十段変速・ドッロプハンドル。

まあ、ほとんどの人が自転車通学でした。

しかし、大学があったのは小高い丘の上。帰りはスイスイ帰れるのですが、行がキツ

イ。

授業に間に合わせるは、必死の思いで立ちこぎで丘の上まで登って行きました。

帰りのお話なのですが、この通学路、たまに警察によるスピード違反取り締まり『ネズミ捕り』をよくやっていました。

大学生が多いからと言う訳では無かったのですが、よく検挙されていました。

その中でも私の知り合いの先輩は、自転車で下校中殆どノーブレーキで下り坂を激走していたら、見事に捕まったのですが、当時は自転車に対する交通規則も緩かったのでしょう、

「あんたあ、あんまりとばしんさんなよ」

と、厳重注意されたそうです。

そんな大学の立地条件でしたが、実は当大学のすぐ下に鉄筋コンクリートの建物がありまして、以前は看護女子短期大学の建屋であったそうですが、廃校になっていました。

その理由を聞いてみると、当大学には女生徒と言えば建築学科に一学年で二・三名いるだけで、後は男子生徒が四百人。

一方、看護女子短期大学はその名の通り、女生徒ばかり。

結果はご想像通りで、ここに看護女子短期大学があるには、環境が良くないとの理由。誰しもが『納得』

「オオカミの群れに羊が迷い込んだようなもの」怖いお話です。

大学にもクラブ活動『今ではサークル活動』があり、活発に行われておりました。ただ、想像通りで、大学そのものが当時『縦社会』でした。

高校時代もそうでしたが、もっとエスカレートしていた部分もありました。

それがこのクラブ活動。

特に、『運動部』は、先輩から入部の『声掛け』・『お誘い』があったら、有無をも言わさず、即入部確定。

入ったら最後、即『練習代』・『サンドバック状態』今では絶対考えられない『重度パワハラ社会』まるで『軍隊』ですね。

入学当時はまさかそこまでとは思わず、私は趣味としていた『空手部』に入りたかったのでした。

そのことを知った私の姉は、姉の友人の弟が一年早く当大学に入学し、『合気道部』に入部されていました。当時の話を姉の友人から聞いていて、弟さんが下宿を訪ねて来られ、一言、

「やめておきなさい」

「自分も入部してひどい目に合っているし、退部させてもらえないよ」

私も、武術をしていく中で、少しはこのようなことはあるのだろうなと思っていましたが先輩の言うことは素直に聞くことにして、入部はやめて、自主練にして、継続することにしました。

入学してから五月のこと、高校時代からの友人「鶴田」君と一緒に運転免許を取得するため、近くの、と、言っても自転車で三十分程かかりましたが、自動車学校へ通うことにしました。

最初は同じくらいのスピードで二人仲良く通っていたのでしたが、つい、私のサボり癖が出てしまい、結局運転免許を取得したのは一年の秋口でした。通学が自転車だったのでこれでバイクを買えばバイク通学できると思い、両親へ話したら、

「バイクは買ってもいいけど、事故ると大けがか、悪くすれば死ぬこともある」

この言葉を聞き渋い顔をしていると、両親は続けて、

「車も買ったらどうか」

と、言うことになり、中古でしたが、愛車も合わせて買ってくれました。

私の記憶では、バイクが『ホンダ』車両が『三菱ギャラン・GTO・MⅡ』合わせて四五十万だったと思います。

よって、通期は『バイク』レジャーは『マイカー』となりました。

これで、行動範囲が大きく広がったわけでした。

最初は友人と観光地を巡ったりしていたのでしたが、以前下宿におられた先輩が学内で『自動車部』を作って活動しているとの情報をいただき、「鶴田」君・「広瀬」君と一緒に入部しました。

この『自動車部』は体育会系と言う訳では無かったのが、功を奏したのでしょう。みんなで和気あいあいと活動していました。

まず、この『自動車部』でしていたのが、

『ラリー』でした。『ラリー』をするにあたり、普通の乗車のままでは仕様が違うので、足回りから強化していきます。タイヤはラリーを行うので、『ラジアルタイヤ』ホイールは鉄板では重すぎるので、『アルミホイール』ただ単に『アルミホイール』と言っても公道を走るようなメッシュ系ではなく、もっとゴツイ、ラリーに適したものに交換が必要でした。

続いては、『サスペンション』と『ショックアブソーバー』もノーマルの物では柔らかすぎて、車のコントロールができないため、強化が必要になります。

いわゆる、『強化サス』と言われるものになります。カヤバが多く使われていました。

また安全面では、通常のシートベルトではなく、四点式のシートベルトにする必要があります。

『シート』においても、自分の身体を固定するために『バケットシート』に交換します。

 さらなる軽量化を求めれば、リアシートの撤去および、ボディーを軽量化するには『ボンネット』を『FRP』に交換される方もおられます。

照明においても、夜間走行もありますので、通常の電球を『ヨウ素球』に交換したり、フロントに『フォグランプ』『ロードランプ』を設置します。

続いては心臓部ともいわれるエンジン回りです。

エンジンの回転数を安定させるため『イグニッションコイル』を『シリコンコード』に交換・『プラグ』においては、点火効率を上げるため、先端の金属が平坦なものから、U字加工されたものに交換・『排気マニホールド』は排気効率を上げるため、たこ足に交換、『キャブレターフィルター』については吸気効率を上げるため、『弁当箱』に交換します。

また、近年の『コンピューター制御』と違って、『マニュアル』制御であったため、セッティングも個人個人が手動でおりました。

特に『キャブレター』の調整は非常に繊細なもので、いつもドライバー片手に調整していました。

また、通常『キャブレター』一個でガソリンの噴出量・エアの取り込みを調整するのですが、私の乗っていた車は、『キャブレター』が二個搭載されている『ツインキャブ』と言われるもので、調整には難しい部分もありました。

しかし、この『ツインキャブ』の調整がマッチングすると、エンジン効率が高く引き出せるため、とても重宝しておりました。

また、ハンドルも握りやすく、滑りにくくて掌にシックリくるハンドルを選んでいました。モモのハンドルが多かったです。

走行に関しては、直線よりも『コーナー』の方が運転技術により差が生まれてくるため、『コーナー』の取り方として、『アウトインアウト』が基本。

ペダルにおける足さばきは『ヒールアンドトゥ』も基本中の基本。

直線でも『ダブルクラッチ』は当然でした。

何せ、シンクロしていなかったので。

『シフト』は当然『マニュアル』

エンジンの搭載方法についても楽しいのは『FF』よりは断然『FR』

『コーナー』に入るギリギリまで高速を保ちフットブレーキを使わずに、エンジンブレーキで『減速』

『コーナー』では速度を維持するため、アクセル操作で後輪を回し、『ドリフト』させ、後はハンドル操作で『カウンター』を当てながら『コーナー』を抜けて、直線に向かう直前から、一気に『アクセルオン』していきます。

しかし、『連続コーナー』や『S字コーナー』では、もっと上の技術が必要になってきます。

技術的にはこんな感じなのですが、やはり、車も使っていれば傷んできます。

部品交換や、オイル交換など、ショップに頼むと高くつくので、自分たちで行っていました。

また、通常走行では『事故』・『トラブル』は少ないのですが、やはり『ラリー』をしていると『事故』『故障』等の『トラブル』はつきものです。

当然、『ラリー』中は自分たちで修理するしかないのですが、通常の場合でも自分たちで直していました。『部品交換』等については、前述のとおりもちろんの事、『ボディー』等の修理においても自分で行っていました。

材料や工具は『カーショップ』や『ホームセンター』に頼るしかないのですが、作業自体は自分で行っていました。

『ボディー』の場合、『板金』『パテ埋め』『グラインダー』『研磨剤』による『形成』『仕上げ』『塗装』の全てを行っていました。

通常の『板金』から『形成』までは、どこでもできるのですが、『塗装』はそうは行かない部分があり、『風』『埃』が入ると失敗に終わるので、塗装だけは実家に帰った時に、『農機具倉庫兼ガレージ』で行っていました。

車に関すること全てが絡んでくるようで、自分で色々やっていると、自動車の『名義変更』『車庫証明』『自賠責変更』『プレートナンバー変更』等々。

業者さんに頼めばなんでもやってくれるのですが、料金が高くつくので、少しでも安くしようとしていました。

業者さんでは、部品代や税金は定額なのですが、『工賃』『事務手数料』が掛かってしまいます。でも、最近思うのは、業者さんは、この手数料で売り上げを立てているので、何でも自分でするのは控えています。

と、こんなことをしていたのですが、何せ費やすお金にも『限度』がありまして、当然仕送りだけではどうにもなりませんでした。

そこでお金を工面するには、『ギャンブル』か『アルバイト』くらいで、前者の方ならば、『パチンコ』『競馬』『競艇』『麻雀』ですが、『競馬』『競艇』はやったこともなかったので、敬遠。

『パチンコ』はたまに行っていましたが、台を覚えるのと、釘の位置・パターンを見なければなりませんし、出るとき、出ないときの差が大きく、トータルすればトントンか、負け越し。

『麻雀』においては、中学の頃から鍛えていましたが、上には上があるもので、仲間内とするときはそうでもないのですが、やはりお金が掛かると、人も変わり、いつものお付き合いができなくなったりしたこともありました。

とは言え、キャリアもあったので、みんなからは『上手い切り方』だね。

と、よく言われていました。

『盲牌』もできてましたね。

やり方は、『積も牌』と『捨て牌』を見て、自分の手を変え、いい流れが来ている時は一段上の役作りをしていくし、ダメだと思ったら、役を落としてでも、早上がりをしないと勝てません。

『スポーツ麻雀』や『家族麻雀』ではお金が絡むことはないのですが、お金が絡む『掛け麻雀』となるとやはり柵が生まれたりするのが、世の常なのでしょう。

どちらかと言えば私、勝負事の時もそうですが、『ポーカーフェイス』をモットーにしておりましたし、勝敗で行けばどちらかと言えば、勝ち越しかな?

まあ、何にせよこんなことではお金は稼げません。

やはり、後者の『アルバイト』でした。

一言で『アルバイト』と言っても色々な『アルバイト』があるもので、私も、皆さんのおかげで多種多様な『アルバイト』をさせてもらいました。

覚えているだけなのですが、

『建具屋さん』

『内装工事屋さん』

『パチンコ店』

『喫茶店』

『バーラウンジ』

『清掃工事屋さん』

『お中元・お歳暮の配送』

『コンサート・イベント』

『デパート』

こんなもんかな。

『建具屋さん』では、材料の『切り出し』から『加工』『組み立て』『仕上げ』までをしていました。

もちろん『道具』を使うのですが、現在みたいに『電動工具』等による『自動化』生産ではなく、その殆どが『手工具』による『ハンドメイド』的なものでした。『鉋』『鑿』等による『加工』から『仕上げ』その後は、

『砥の粉』を塗って仕上げ、塗装までの流れとなり、最後の確認は、職人さんが見てくれていました。

『内装工事屋さん』では、『絨毯・カーペット』の『保守・保全』による貼り替え工事や、『Pタイル』の『施工工事』も行っていました。

流石に観光ホテルや、有名な高級ホテルでは絨毯・カーペット一つにとても高価なものを使用してしました。

『施工方法』は殆どが現場にて貼り替え個所をまず確認。

『絨毯・カーペット』に於いては、いつ何時でも施工できるように、同じ色柄の前回使用した端切れ等も含め、『ホテルや旅館』の倉庫に保管してありました。

この端切れ等の材料を取り出し、既存の物と同様の物であることを確認し、貼り替え部分を定規と、カッターにて切り出します。

続いて、端切れの柄を既存の物に合うように合わせて、カッティング。

後は、専用の接着剤を剥き出しのコンクリート面に適量を塗布します。

切り取った端切れを上から抑えて接着したら終わりです。

工事の後で、責任者の方へ、

「端切れの『絨毯・カーペット』が出るようで、捨てるような物があるのなら、いただけませんでしょうか」

とお尋ねしました。

「これだったらいいよ」

「持って帰りな」

と言ってくれました。

使用場所は前から考えていた、「車の床部分に敷いて、『土足厳禁』にしてみよう」と言うことでいただいて帰り、車の形状に合わせてカッティング。

見事に『土足厳禁』に成功。

達成感『満足』

が、しかし、車、『ラリー』に使ってるのに乗りにくいじゃん。

よって、数日で撤去しました。

『パチンコ店』でのアルバイトは二種類あります。『表回り』と『裏方』になります。

『表回り』とは、その名の通り営業時間中に店内を回り、お客さんの対応「コメント」「クレーム」「出玉の管理」等になります。

店内をグルグル回って、お客さんが「リーチ」や「大当たり」を出すと、パチンコ玉がどんどん出てきて、受け皿がすぐに一杯になってしまい、パチンコ玉が出なくなり、ゲームができなくなります。よって、この状況になる前に、『大箱』俗に言う、『ドル箱』を用意して、回転を助けます。

また、たまにお客さんが『不正』を働くこともあります。一人で複数のパチンコ台を使っていたり、『ハンドルノブ』を固定していたり、磁石を使っていたりと様々です。

でも、不正は不正。思い切って注意すれば、お客さんも自分でやっていることが不正だと思ってやっているので、素直に聞いてくれます。

『裏方』とは、文字通り、パチンコ店が閉店してからの仕事になります。

メインは掃除。床掃除はもちろんの事、テーブルやパチンコ台の拭き掃除もあります。

一番注意を払わなければならないのが、『パチンコ台』です。

今では少なくなりましたが、パチンコ台の調整は、『釘師』と呼ばれる方がパチンコ台の釘の調整を行います。

パチンコ台の釘は一台で数十本。多いものでは百本を超えるようなものもありました。

この釘の調整如何で、出玉の調整を行っていきます。

この『釘師』による、釘の調整中は誰も店内に立ち入ることはできませんでした。

パチンコ台の表のガラス扉は通常施錠されおり、この調整の間は開錠され、作業終了後に施錠されるのですが、たまに施錠忘れの台があったりして、掃除中に誤って、素手で釘に触れてしまうと、せっかく『釘師』の方が調整した釘が、誤作動し、『パチンコ玉』が弾かなかったり、弾く方向が変化してりで、『出玉』を良くして、客を引き寄せる予定の台が無駄になってしまいます。

これだけは、よく店長が注意していました。

パチンコ店のオーナーは外国の方が多くて、韓国・中国・台湾の方が多かったようでした。

日本語は喋っておられましたが、時々聞き取れないこともありました。

オーナーはどちらかと言うと厳しい方が多かったのですが、『アットホーム』的な方もおられ、仕事終わりには、

「大学生だし、色々大変だろう」

と店舗の事務所で、夜食をご馳走になったこともありました。

『喫茶店』でのバイトは二軒ありました。

一件目は『フー横丁』二軒目は『あかり』もう店舗もないので、実名です。

まず、一件目の『フー横丁』なのですが、貸店舗ではあったのですが、ここのオーナーが一階に店舗を、三階にアパートを借りて事務所兼自宅にされておられました。

この『フー横丁』私の今後の人生を大きく変えてくれました。

と、言うのも、私四月に入学して、一カ月もしないうちに、先輩の紹介で、この喫茶店『フー横丁』でアルバイトを始めていました。最初のうちは学校が終わるとこの『フー横丁』に直行。夜遅くまでアルバイトに明け暮れていました。今になってみれば、自動車学校もあったので、よく時間があったと思っています。

ここのマスターがとてもいい人で、同大学の方ではないのですが、私たち大学生の面倒をよく見てくれました。

この当時、ここでバイトしていたのは、私ともう一人「ヒロミちゃん」と言う女性でした。こちらの方は、私よりは年上で、よく、『たくちゃん』『たくちゃん』と言って可愛がってくれていました。

と言っても、みんな私のことを『たくちゃん』と呼んでいましたけど。

唯一、私のことを『たくさん』と呼んでいたのは、私より年下の高校生たちでした。

ここら辺でも、やはり上下関係はあったのでしょうね。

でも、この『たくさん』と言う呼び方、ちょっと違和感があって、私の大叔母や祖母がいつも呼んでいる呼び方でした。

ん~、尊敬語なのでしょうが、私としては浸し身を込めて、『たくちゃん』と呼んでいただいた方が良かったです。

この「ヒロミちゃん」なのですが、当時流行っていた、女性『ロックバンドボーカル』の『アン・ルイス』さんの影響を受けていたようで、容姿そのものがよく似ていました。

でも、少し体が弱いところもあって、いつのことでしたか、お店で体調を崩してしまいた。

みんなが心配する中、彼女はとても強がりなところがあったので、

「大丈夫」

の一点張りでしたが、みんなの勧めと私からの一言、

「上に上がって休もうよ」

と言って、彼女の手を取りながらマスターの借りている部屋へ連れて行きました。

彼女を布団の中に入れて、手を握りっぱなしで休んでもらいました。

二三十分経ったところ、少し落ち着いたようなので、

「大丈夫?」

と声を掛け、

「もう少し休んだ方がいいよ」

と言いながら、手を放そうとすると、彼女は気丈に振る舞い、

「もう大丈夫」

「先に降りてて」

と言われたので、私は彼女の手を離し、一足先に店舗へ降りて行きました。

その時にはいつもの常連客ばかりでした。

マスターは私に、

「もう大丈夫?」

「ヒロミちゃん?」

と言われたので、

「はい、少し落ち着いたみたいです」

と返答しました。

そんな会話を交わしていると、常連客の一人の大学の先輩が、

「何してたん?」

と聞かれたので、ことの一部始終をお話しして、

「手を握って寄り添っていたら落ち着いてきたので降りてきた」

と返したところ、先輩の一言、

「なんで何もしないの」

と、言われ、とっさに返した言葉は、

「だって、病気で具合が悪くて寝てる人に何もできないですよ」

と、返したら、先輩は、

「そんなの関係ないよ」

と言われた私、ん~もしかしたら私の行動は間違っていたのか?

あの頃とても

『純情』

『真面目』

『スレてない』?

と、私は思っていました。

また、マスターはジャズが大好きで、ジャズに関連したアーティストのLPレコードをたくさん集めていて、お店の中の片隅が占領されていました。

私も、この頃からジャズを聴くようになりました。

私が『フー横丁』でやっていたことは、表回りの『ウェーター』と、カンター内での『飲料・・・コーヒー・紅茶・ジュース各種』の提供および厨房での『焼きめし』『カレー』

『ドライカレー』『パスタ』等々、いわゆる『喫茶店メニュー』全般を提供しておりました。アルバイト代は貰っていたのと、ほとんど住み込み状態で働いていたので、ご飯には困りませんでした。

その当時私は喫煙者でしたが、タバコがなくなると、マスターに

「ちょっと出かけてくるよ」

と、言い残し、パチンコ店直行。

夏だし、パチンコ店は涼しいし、でも、騒音がたまにキズ。

でも、欲がなかったのが幸いしていたのか、いつも、行けば勝っていて、交換は煙草に交換していました。

最初のうちはお店が終わるときちんと下宿に帰っていたのですが、その内、いちいち帰るのが面倒くさくなって、マスターの部屋で寝起きしていました。

そんなことをしていたからかどうか、大学一年の夏休みに入っても実家も帰らず、アルバイトに明け暮れていました。

当時はやはり『携帯電話』などあるわけがなく、連絡手段は手紙か、固定電話あるのみ。実家の両親からも何度か下宿の方へ電話があったみたいでしたが、伝わらず、ほとんど音信不通状態でした。

ある日、今日は下宿に帰ろうかなと思い立ち、帰ってみると、下宿の食堂にあった公衆電話が鳴りました。

もしかしたらと思って聞き耳を立てていると、下宿の大家さんの声がして、

「好村君」

「親御さんから電話です」

と言われ、受話器を渡されると、父の声がして、

「もう夏休みだろ」

「帰ってこないのか」

「運転免許はとったのか」

「音信不通で心配していたぞ」

と、言われっぱなし。

仕方なく、

「わかった」

「来週帰る」

と、だけ伝えて電話を切り、帰省しました。

まあ、何せ実家から出て、一人暮らしをしたのは初めてで、何もかもが新鮮で、

『目に飛び込むもの』

『耳に入るもの』

毎日が、ただただ、

『ワクワク』

『ドキドキ』

の毎日でした。

その後、一旦帰省したのですが、自動車免許取得のこともあり、直ぐに大分へ戻り、運転免許試験場に行き、一発合格。

この運転免許取得により、またまた以前よりは行動範囲が広がっていきました。

この後、バイトしていたのはもう一つの喫茶店『あかり』でした。

こちらのオーナーは、下宿先の大家さんの娘夫婦。

旦那さんは、以前、ホテルのラウンジで支配人をされていましたが、不況に陥り、ラウンジを辞めて、夫婦で喫茶店を始めておられました。

丁度、そのオープンに合わせて、

「誰か、アルバイトしてくれる人いないかなあ」

と探しておられましたので、『フー横丁』でもバイトしていたので、お声がけをいただき、雇って頂けることになりました。

立地場所が下宿から、

『自転車で三十分』

『バイクで十分』

ほどと、少し離れたところにありました。

よって、私は、バイクで通っていました。

こちらのマスターのお住まいは、私が下宿していた新館の一階に住んでおられました。なので、ほとんど毎日顔を合わせておりました。

こちらのマスターもとっても面倒見がいいマスターで、深夜、学生を集めて麻雀もよくやっていました。

そう言えば、私、大学二年の冬の事、マスターと一緒に数名で『徹マン』をしていまして気が付けばもう明け方、さあ部屋に帰って寝よと思い、就寝していました。

目が覚めたのも、クラスメイトの二人が私の部屋に訪れて、ノックされてやっと目が覚めました。

時計を見ると、もうお昼前。

クラスメイト二人が何やら『スーツ』に身を包んでいました。

「何事」

と尋ねたところ、

「お前、もう昼やで」

「今日、何の日か忘れたん」

と言われ、ふと気づきまして、

「しまった」

「今日は、成人式だった」

時すでに遅し、とっくに式典も終わっていました。

成人として恥ずかしいばかり。

流石にちょっと反省しました。

次は『バーラウンジ』での『アルバイト』

お店は、『フー横丁』とは、道路を挟んで反対側、店名は『テラエイト』夜のお店でした。

仕事の内容は、カウンターの外では『ウェーター』お客様へのドリンク・おつまみ等々の提供。カウンター内では、

『水割り』

『カクテル』

『おつまみ』

等々の調理。

調理と言っても、ほとんどがおつまみ程度。

凝ったものや、時間がかかるものは店外への出前で熟していました。

まあ、軽食程度でしたら、喫茶でも作っていたので、店内で調理していました。

後は、やはりお客様との『トーク』

初めの方であろうが、常連さんであろうが、話しかけてお話しますし、間が持てなくなりそうでしたら、タバコに火を付けたり、グラスを手に取ったり、後は、お客様の興味を探りながら自分の引き出しを開けてお話を進めて行きます。

まあ、接客業ですから当然なのですが。

私、どちらかと言うと、人見知りで、引っ込み思案で、消極的だったのですが、喫茶店やバーラウンジで働きだしてから、変わりました。

見知らぬ人でも、声を掛け、お話しすることもできるようになりました。

当時、田舎へ帰り従妹たちとお話ししていると、

「え」

「ほんとにたくちゃん」

「こんなにお喋りできるなんて、想像もしていなかったわ」

などとよく言われました。

『私の、人生の転機だったのかもしれません』

 この頃、よく友達と大分駅の方で飲み会をしてました。

 そんな夜の事、みんなで歩いていたら、駅前の派出所のお巡りさんが声を掛けてきて、

 「お前たち、こんな夜遅く何をしている」

 私たちは、ただお酒を飲みに行ってただけだったので、悪ぶれもせず、

 「飲み会の帰りです」

 と、答えました。すると、一人の警官が、私に声を掛けてきました。

 「お前、スケコマシだろ」

 私は正直に、

 「え、違いますよ」

 「ただの学生ですよ」

 と答えたのですが、

 「嘘つけ」

 「どう見ても、女の子に声かけてスカウトしていただろ」

 等と言われたのですが、その場は皆で何とかやり過ごしました。

次は、『清掃工事屋さん』で『アルバイト』

内容はと言うと、お掃除専門です。

主に店舗が対象でした。

当然、店舗営業中はお掃除できないので、店舗の営業時間外の作業になります。

ほとんどの店舗は、朝~晩営業なので、深夜時間帯での作業が殆どでした。

掃除は、床掃除が主体でしたが、時折、ビルの窓掃除なんかもありました。 窓掃除の場合は、内側・外側両方がありました。

内側は脚立等にて作業できるのですが、外側は、ゴンドラ作業が殆どでした。

窓の場合、水で流して、洗剤を塗布。もう一度水で流して、ゴムワイパーで水を切り、水滴を防止した上で、乾拭き仕上げ。

内側は割と安全に順序良くできるのですが、

外側となると、お天気の影響とかもあり、なかなか大変でした。

床の場合は、まず掃除機で塵・埃を吸い取ります。その後、剥離剤を塗布し、床掃除用電動ポリシャーを掛けます。

それでも汚れが落ちない場合は、手動でスクレパー等で取り除き、再度掃除機を掛けます。

タイル張りの場合は、その後、ワックス液を掛けて平均になるよう塗布します。

完全に乾いたら、最後の仕上げに掃除機を掛けながら、ワックスのムラ等の確認をして、出来上がりです。

絨毯や、カーペットにおいてはワックスがけがない分楽かもしれないですね。

次は、『お中元・お歳暮の配送』をしていました。

お中元・お歳暮と言えば、当時はデパートか進物屋さん。

私は、親戚のおじさんが市内のデパートに勤務していたので、その方の紹介もあり、デパートで配送係りをしていました。

車の免許は大学一年の夏休みに取ったので、雇ってもらえました。

その時の上司がまた、町も狭いもので、姉の同級生でした。

チョット、チャランポランなところもありました。

口が開くたびに、

「給料安いし、転職したいわ」

と言ってました。

アルバイト仲間は、デパートのお中元・お歳暮コーナーの受付に同い年くらいの女の子が三・四人、配送係りの男性が二・三人いました。

みんな年が近いので、休憩中などは、和気あいあいとお喋りしていました。

当時、配達車両は、『ボンゴ』・『3トントラック』が各1台でしたが、いずれにも当然、カーナビなどはなく、分厚くて大きな地図帳があるのみ、配送前に荷物の住所を見て、同地区あたりの物を選び、積み込み、一日の配送計画を立てます。そして、地図帳を広げ、事前にチェックし、相棒と二人で配送しました。運転する方も大変なのですが、助手席に乗ってナビゲートするのも大変。

車を止めてのチェックは日常茶飯事でした。

そんなある日、朝礼で、

「昨日『ボンゴ』が車検を終えて帰ってきました」

「老朽化しているもののまだ乗れるので、注意しながら乗ってください」

「また、事故等があれば、直ぐに報告してください」

とのことでした。

私はいつも通り『ボンゴ』に乗って相棒と配送に出かけました。

車検上がりとは言え、老朽化しているので、ハンドルの遊びが多くて前々から乗りにくいなと感じておりました。

配達に出かけてすぐの事、小川に架かる小さなコンクリート製の橋がありまして、その橋に差し掛かった時、前方の車両が急停車。

直ぐにハンドルを左に切り追突は避けたものの、橋の欄干に衝突。

直ぐに連絡しようにも、携帯電話などあるわけもなく、配達を途中で止める訳にもいかなかったので、とりあえずその日の配達を終えて、デパートに戻りました。

今朝の朝礼でも言われていたことだったので、直ぐに上司に伝え、『贈答品コーナー』の責任者へ事故のことを言った方が良いのでは、と聞いてみたのですが、その上司が言うには、

「言わなくてもいいよ」

の一言だったので、

「まあそうなのかな」

と、思いその日は帰宅しました。

次の朝、出勤したら、責任者が、

「昨日、『ボンゴ』が凹んでる」

「誰か心当たりの人はいますか」

と言われ、私は正直に

「すみません、私です」

と、即答しました。

すると、責任者は、

「昨日、事故等については、直ぐに報告するように言ったばかりでしょ」

と言われました。

私としては、

「上司にはきちんと報告したのになぜ言ってくれなかったのだろう」

そして、

「なぜ、この場でも何のフォローもないのだろう」

と、思いました。

このことを、帰ってから姉に話したら、

姉は、

「あいつはそういうヤツなんよ」

と言ってました。

次は、『コンサート・イベント』のアルバイトです。

やっていたことは、

『チケット販売』

『チケットのモギリ』

『会場でのセキュリティー対策』

『人員整理』

『会場設置』

等々。

チケットを販売するにしても、現代のようにネット販売でもなく、店舗で販売するか、大学等で友人・知人に話しかけ販売するしかありませんでした。

『チケットのモギリ』ですが、会場に入る前の受付で、お客様のチケットを確認し、入場券の片端をミシン目に沿って切り取り、半券をお客様に手渡していく作業です。

この作業の時に、お客様はゲートを通過していくわけですから、この時点から『セキュリティー対策』もあります。

お客様にお声がけをして、

「入場前にカバンの出し入れ口を開けておいてください」

「カバンはゲート横のテーブルの上に置いてください」

「すみません」

「カバンの中、チェックさせていただきます」

その後に、お客様自らカバンを開けてもらってチェックしていきます。

主なものとしては、

『危険物』

『カッターやカミソリ』

『銃刀』

『レコーダー』

『カメラ』

等々。

また、このゲートでのチェックをすり抜けられて、会場内にカメラやレコーダーを持ち込まれ、使用されているといけないので、会場内ではお客様の周り、特に椅子の下などに目を光らせます。

『レコーディング』状態になるとほとんどの機器は赤いランプが点きますので、これをチェックします。

今までチェックした中で驚いたのが、『プロ用の撮影機材』

一眼レフカメラ望遠レンズ付きや、三脚まで持参。

みんな口を揃えて

「え」

「今の、スタッフ関係者なの?」

目が点になっていました。

でも、その方は、堂々とゲートを通過し、会場内に持ち込み、撮影をしていました。

「やはり、関係者だったのでしょうか」

このバイトも四六時中緊張感を持って見ているわけではなく、会場スタッフによると、

「少しくらいなら、通路等で見聞きしててもいいよ」

と、言われておりましたので、アルバイト中に時折コンサートを見ていました。

やはり、部屋で聞いたりするのと違い迫力満点。

特に自分が推しているアーティストだと、観客と一緒になって、大興奮していました。

でも、観客が興奮しすぎて、ステージの方へ押し寄せてくるよう場合は、ステージ最前列にスタッフ・アルバイトの人が横一列になり静止しなければなりません。

誰か一人でもすり抜けてしまうと、後は『雪崩状態』となり、コンサート自体が成立しなくなるで、重要視されていました。

後は裏方さんの仕事。

前日からの会場設置と、終わった後の後片付け。

冬場はそんなに大変さはないのですが、真夏は暑かったですね。

ただ、最近の厚さは異常ですね。

暑さが激変しているように思います。

続きましては、『デパート』でのアルバイトでした。

一言に『デパート』と言っても、色々なテナントが入っていて、各階に分かれて売り場が決められています。

私のバイト先は、一階の食料品売り場でした。

仕事の内容は、

『陳列棚の食料品のチェック』

チェック項目は、

『品切れ』

『期限切れ』

『破損』

『温度管理』

食品がなくなれば、『バックヤード』から食料品を出してきて、補充。

期限切れや破損があれば陳列棚から下げてバックヤードの段ボール箱へ一時保管します。

基本的に期限切れや破損は使い物にならないので、まとめて破棄します。

が、しかし、時折、上司がやってきて、

「この食材、どうせ使い物にならないし、持って帰ってもいいよ」

と言われ、持ち帰っておりました。

また、今ではこんなことはされていないと思うのですが、たぶん時効だと思うのでお話します。上司の指示で、期限切れのシールを剥がして貼り替えたこともありました。

 また、店頭販売もしておりまして、最初のうちはバイト仲間同士でお客様に声を掛けて、

「いらっしゃいませ」

「いかがですか」

「今日の野菜は新鮮でお買い得ですよ」

などと声掛け、恥ずかしいという気持ちが互いにあったのか、控えめな声で客引きをしていたのですが、そこへ上司がやってきて、

「君たち」

「そんなんじゃお客さんは何も買ってくれないよ」

と言って、

「貸してみな」

と言うと、上司は野菜を手にし、声を張り上げ、

「どうぞ買ってください」

「安くて・新鮮・美味しいですよ」

と言うと、お客様の買い物かごの中へ無理やり押し込みました。

 そして、一言、

「これくらいしないと、誰も買ってくれないよ」

と、言い残し、その場を去っていきました。

私たちバイト仲間は、なるほどと思いながらも、やはり自制心があったのか、声は思い切り出してはいたものの、流石にお客様の買い物籠へ商品を入れることはできませんでした。

そんなこんなで、色々なアルバイトをさせて頂きましたので、今では殆どのことがなんでもできるよう気がしています。

また、『アルバイト』のおかげで、今までは『消極的』で、『引っ込み思案』私も、今では、『積極性』も出てきて、何でも挑戦してみて、成功すると嬉しくて、

「ヨシ」

「もっとやってみよう」

「もしかしたら、こうすれば乗り越えられるのでは」

と思うようになりました。

何でもそうだと思うのですが、『習うより慣れろ』『百聞は一見に如かず』ですね。

 この頃、私は趣味の中の一つで『フォークギター』を続けておりました。

大学入学時最初の『フー横丁』でのバイト先で知り合った、大学の先輩「山口」さんと、常連客で私と同学年の「喜多」さんと、一緒にバンドを組んでいました。

バンド名は、

『ポッポちゃん』

『ジャンル』はやはり『フォークソング』でした。

『音楽活動』と言っても、殆どが、バイト先の『フー横丁』での演奏。

たまに、お客様からリクエストを頂いて、

『演奏』

後は『コンサート』活動もしていましたが、私たちだけでは曲数も少なく時間も持たないので、他のグループと一緒に小さな『文化ホール』での演奏。

『近くの高校の文化祭での活動』

『同じく他大学の文化祭での活動』

私の担当は、『サイドギター』・『サイドボーカル』でした。

『リードギター』は「山口」さんが、『リードボーカル』は「喜多」さんが担当でした。

 私、小学校時代から、割と音楽は得意な方で、特に歌唱の方は少し自信がありました。

 小学校時代の歌、歌謡曲というよりは、学校の音楽の時間に習う歌が多かったのですが、『校歌』

『童謡』

『文部省推奨曲』くらいでしたでしょうか?

音楽の時間はもちろん、先輩の卒業に合わせて行われていた、『卒業生を送る会』などでは、よく歌っていました。

 小学校時代の音楽の先生がリクエスト曲を選んでは、

「好村君」

「これを歌ってよ」

と言われ、私も歌うのは好きな方でしたので元気よく

「はい」

と、即答していました。

声種としては『ボーイソプラノ』でした。

歌っている時、いつも先生は目を閉じて聞いていましたね。

こんな私がなぜ、『サイドボーカル』を担当していたかというと、「喜多」さん、ギターがあまり得意ではなかったので、このような形になりました。

一番盛り上がった『コンサート』は、『大分』と言っても、『別府』にあった、短期大学の文化祭に呼ばれた時のコンサートでした。

一日目は野外コンサートで、観客も少なく、ほぼ身内状態でしたが、二日目は、校内の体育館でのコンサート。

大勢の観客と一体になったコンサートでした。

三人グループなのですが、もう一人のゲスト演奏者も交えて行いました。

『パワーアップ』で大成功。

グループ演奏はもちろん、「山口」さんと、私のそれぞれの『ソロ演奏』もありました。

 また、観客のリクエストに応えての即興も『アリアリ』『ノリノリ』

 私が担当したのは、『松山千春』『井上陽水』『アリス』・・・知らない曲でも、楽譜を出してもらいなんでも演奏。

『スポットライト』を浴びて最高の気分でしたね。

 もともと、何方かと言うと、歌唱の方も、『人見知り』で、あまり、声を張り上げて、大声で歌うこともなかった私でしたが、この辺りを期に、お客さんに喜んでもらう事や、お客様にお褒めに与ることで、『優越感』や『満足感』を得るようになったと思います。

 今では、あまり歌うこともなくなったので声も出なくなりましたけど・・・。

 その後、大学の授業の中で、私、『教職課程』を取っていましたので、当然『教育実習』というものがありました。

実習先は自分で見つけて、学校から連絡を取ってくれる『システム』でした。

殆どの学生は、自分の出身校を選びます。

と、言うことで、私も、出身校である、工業高校へ実習に行く事に決めました。

高校での実習が始まったのは大学二年の夏でした。

担当教諭も、私が在籍していた時にお世話になった先生だったので、とても良くしていただきました。

私が担当したのは、高校時代在籍しておりました『機械課』で、専門は『機械設計』で、受け持ちは二学年でした。

最初の頃はなかなか慣れなくて、緊張と不安の連続でしたが、一週間もすると、だいぶ慣れてきて、生徒とも気軽にお話できるようになっておりました。

生徒からも良く話しかけられて、

「先生」

「教職課程が終わったら、先生になるの」

私は、自信満々に

「そうだよ」

とは、言ったものの、教員免許は取得できるのですが、採用試験に受からなければ、先生にはなれないことは、重々わかっていました。

そんなある日、お昼休みの事、私が、保健室の保健指導の先生と保健室で雑談をしておりましたら、何やら校内が騒がしいことに気づきました。

「あの生徒たちは何やってるんですか」

と、お尋ねしたところ、

「多分、抗議デモ」

その時、内容は良く分からなかったのですが、思い出したことがありました。

それは私が、高二の夏の事、万引きして補導員に見つかり休学していた同級生がいました。

高二の夏と言えば、楽しい『修学旅行』ですが、当然、万引き事件を起こした同級生は休学を余儀なくされていました。

よって、『修学旅行』のメンバーからは外されていました。

それを聞かされていた私たちクラスメイトは、何と、クラス一丸となって、その生徒を一緒に修学旅行へ連れて行きたいという一心から『学校長』へ講義のため、集団で校長室へ乗り込んでいきました。

休学中の生徒の事で、校長に

「なぜ、こんなに楽しみにしている生徒連れて行ってあげないのですか」

と、言う問いに校長は

「彼は、補導された時の質問の中で、自分の名前を聞かれた時に言わなかったんだよ」

「それは隠ぺいに当たるんだよ」

との、言葉に、私は、

「それは、当然だと思いますよ」

「誰だって自分が過ちを犯したことは直ぐに理解できます」

「十分理解してうえでも、そう言った質問をされれば、当人は、知られることが恥ずかしいし、怖いと思う気持ちが出てきて、名前を言えなかったんじゃないですか」・・・

そのような押し問答が続いたのですが、結局は認めてはもれませんでした。

でも、当時はそこまで思わなかったことがありました。

「え」

この私が、クラスメイトを抑えて、しかも『校長』に対して一人のクラスメイトのためにこんなことを言い出すなんて、と言う思いがありました。

引っ込み思案で、消極的で、人見知りの私が、こんなことを、しかも、この場面で言えるなんて、言った私本人が一番びっくりしました。

まあ、そんなこともあったので、生徒たちの抗議デモを見たときに、『憤りを覚える』というよりは、何故か『嬉しい』と言うような気持ちを持ちました。

そして、何年たっても同じようなことを繰り返しているな、『やれやれ』と思う内心、いやいや伝統は引き継がれている。と言う、『ワクワク』とした気持ちにさせられました。

 だいぶ路線が外れたような気がしますが、この辺りで、大学時代の『恋バナ』になります。

 何方かと言うと、『恋多き』というか、誰でもすぐに好きになってしまうような、でも打ち分けられずに直ぐに終わってしまうような、そんな私でした。

 一番初めに『恋心』を打ち分けたのは、バイト先『フー横丁』で、よく見掛けるようになった、高校生で、「松野優実」さん。

 一目で

 「可愛い」

 と思ったのですが、私、『恋』も消極的なところと言うか、恥ずかしくて人見知り的なところもあったので、バイト先の常連で同じ高校に通っていた、男子高校生「優斗」くんに話しかけ、

 「実は気になる子がいるんだ」

 「優斗君と同じ高校に通っている子なんだ」

 「お話は自分でするから連絡とってよ」

 すると、優斗君は、

 「分かった」

 「タクさんの頼みなので」

 と快く引き受けてくれました。

 それから数日が過ぎたころ、「優斗」くんから連絡が来て、

 「タクさん」

 「来週土曜日空いてる」

私は即答で、

「いいよ」

「何時・何処で」

と、心を弾ませて答えを待ちました。

すると、

「じゃあ、土曜日の午後、学校終わりの午後二時でどう」

私は何が何でもお話がしたかったので、

「分かった」

「絶対空けとくよ」

と答え、心の中では、『ウキウキ感』と、何をどう話そうという『緊張感』でいっぱいでした。

数日後の待ち合わせの日。

『ウキウキ』『ワクワク』『ソワソワ』『ドキドキ』と弾む心を落ち着かせて、彼女がやってくる時間を待っていました。

やがて、午後二時前に、数人の女子高生のお友達とセーラー服姿でやってきました。

「ん~」

「やっぱり可愛い」

と思いながら、私と彼女は、お話をするために、お店の外のベンチに二人っきりで座りました。

僕が右、彼女が僕の左脇に座りました。

お話は、引っ込み思案の私が、胸の内を打ち分けようと、心臓の高鳴りを感じながら、一生懸命考えて切り出しました。

「今日は来てくれてありがとう」

「僕、話下手で、初対面の人と話すのも苦手で」

「皆とお話ししていたら、勇気を出して打ち分けた方が良いよって言われ今、ここに居ます」

上手く伝わるかどうか、とっても心配しながらお話しを続けました。

「回りくどくお話もできなし、好きじゃないので、ストレートにお話ししますね」

「僕、あなたと付き合いたくないとか、好きじゃないと言ったら嘘になります」

彼女は、思わず声を漏らして、

「え?」

と一言。

あ、しまった。

言い方、間違えてる。

変に回りくどく言ってる。

言ってしまったことは、仕方ないと、お話を続けなければと思い、お話を続けました。

「あ、ごめん」

「言い方おかしかったよね」

「でも、僕の今の本当の気持ち」

口の中が乾いて、うまく声が出せない状態でしたが、勇気を振り絞って

「もし、よかったらお友達になってもらえませんか」

とやっとの思いで伝えました。

彼女は、優しくて可愛い声で、

「いいですよ」

って言ってくれました。

連絡先を聞こうと

「電話番号教えてもらってもいい?」

と聞いてみると、直ぐに彼女は、

「はい」

と、教えていただきました。

その後、何度か、彼女へ電話してお話ししました。

直接会うといっても、高校生だし、学業や部活等々ありなかなか時間が合わなかったこともありました。

よって、電話でお話しするのが多かったです。

その時感じたのですが、電話口での彼女の受け答え、すごく敬語で話してた。

返事はいつも、

「はい」

「いいえ」

「です」

「ます」

調。

普段あったときはそんな喋り方でもなかったので、私の推測ですが、親御さんに対しての事なのかな。

って思いました。

『躾』

なんでしょうね。

多分。

何せ、電話は、ご存じの通り、自宅の黒電話か、公衆電話オンリー。

掛けるほうは公衆電話を探せば掛けられるのですが、受けるほうは自宅の固定電話。

ん~、やはり周りには聞かれるとまずい会話も沢山ありますよね。

私の下宿にもピンクの公衆電話が置いてありました。

受ける方は仕方がないので、受けるのですが、やはり周りには下宿人や、大家さん老夫婦が、聞き耳を立ていたので、うかつなことは喋れなかったですね。

後、電話をかけるには、下宿から出て東へ百五十メートルくらい行った、四つ角にタバコ屋さんがあり、そこには、黄色の公衆電話がありました。

でも、意外にこの黄色の公衆電話、いつ行っても誰も使っていなくて、とっても重宝していました。

電話をするのは週二回くらいだったかな?

電話で、約束しては、待ち合わせを決めていましたね。

何処へ、と言っても、ほとんどがバイト先の『フー横丁』でしたけど。

いつも、出会えることが出来なかったからか、でも、嫌いになったわけでもなかったのですが、いつの間にか自然消滅。

でした。

 最初にお付き合いしたのは、大学一年の夏休み。「野口聖子」さん

バイト先『フー横丁』の常連さんの一人でした。

 私の初めての人でした。

常連さんは、ほとんどがお友達みたいな関係でしたので、誰と誰がどうなったのか直ぐにわかったし、お付き合いしているのが誰だか分からなくなるような(でも、気持ちだけの問題ですが)状態が日常茶飯事だったような気がしました。

それだけ、みんな仲良かったような気もします。

そのうち、秋口なると、気変わりしたのでしょうか、「野口聖子」さんではなく、野口さんの親友の「山村楓」さんとお付き合いしておりました。

こちらの、「山村楓」さん何を隠そう、大学の二個上の先輩の元カノでした。

この先輩も『フー横丁』の常連さん。

ほぼ、このグループの中で出会ったり、別れたり・・・

結局、誰もが知っているお付き合いの情報でした。

この彼女、スポーツ全般が得意なわけではなかったのですが、何故か、『フィギュアスケート』だけは、何と『プロ級』。

『ターン』

『コーナー』

『スピン』

『ジャンプ』

『クロス』

『バック』

何でもしてましたね。

何回かアイススケート場で『デート』しましたが、レベルが違い過ぎたようでした。

私は、何回か滑ったことがある程度でしたので、彼女が『バック』でリードしてくれてヨタヨタと滑ってましたね。

後は、映画を見に行ったり。ドライブに行ったりしてました。

そんな折、クリスマスの事でした。

『フー横丁』で毎年している、クリスマスパーティーでのことでした。

パーティーの中で、プレゼントを皆が持ち寄り抽選会をして、プレゼント交換する、今でもしているようなことでした。

その、パーティーでのこと、私の引き当てたプレゼントは、彼女の親友「野口聖子」さんが準備した、モノでした。

私は、そのプレゼントを手にして、やったーありがとう。と叫んでした。その場で、「野口聖子」さんは、

「よかったね」

「それ私が選んだんだ」

と言ってました。

その場はそのまま何もなくパーティーは終了。

各々帰る途中、私は彼女を車で送っていくため、二人でお店を出たところで、彼女が話しかけてきて、

「たくちゃん」

「プレゼント良かったね」

「でも聖子ちゃんから貰ったんだからあまり喜んでほしくないな」

と言いました。

ま、それはそうか、親友といえども、いま付き合ってるのは、自分なんだからという気持ちなんだろうなと思い、

「ん、わかった」

と一言だけ言った車で送って帰りました。

その後も、お付き合いは続いておりましたある日の事、例によって、下宿近くの黄色の公衆電話から、彼女へ電話していると、彼女は、何時になく元気のなさそうな声で、

「ごめん」

「私、ないの」

の一言。

私は、身に覚えがあったので、一瞬目の前の景色が白日夢のようになり、

「え」

「ん~」

「どうしよう」

「学生だし」

「でも、責任は取らなくちゃいけないけど、経済力もないしな」

その時は、預金通帳の残高が浮かんできました。

すると彼女は、

「やっぱり、「たくちゃん」も他の男の子と同じように答えるんだ」

と言われ、返す言葉もなく、

「考えてみる」

と、一言だけ言って、受話器を置きました。

数日後、彼女のことが気になり、電話をかけてみました。

いつも通りのつもりでと思い、

「もしもし」

「僕だけど」

すると彼女は、

「たくちゃん」優しいね」

「こんなことがあると、普通の男の子は避けてしまって連絡取れなくなっちゃうのに」

「ちゃんと電話してきてくれてうれしい」

「ありがとう」

と、その言葉の後に、

「あ」

「あれ」

「あった」

「遅れてただけだった」

その時の私の気持ちは、安堵したというか、ほっとしたというか、とりあえず胸をなでおろしました。

その時感じたのが、当然二十歳になれば成人。

権利もあれば義務もある。

行動できる範囲も広がるが、その行動には必ず責任が伴う。

そのことが大きくのしかかってきました。

その後も普通にお付き合いはしておりました。

それから、数か月がたち、大学三年の春休みの事、私は実家に帰っておりました。

その時のこと、父から

「もう、お前も来年卒業だし、今の彼女と別れておきなさい」

「あまりズルズルと引きずると、後々困るようになるからな」

と一言、彼女とのことで苦言を呈されました。

私も、父には逆らえないところもあったので、彼女に最後の手紙を書いて投函しました。

その時の別れ話の時、書いたことが、

「ごめんなさい」

「実は僕、中学の時お付きあいしていた彼女が居てその彼女が、僕のせいでリストカットしたみたい」

「彼女に申し訳なくて、僕だけ幸せに過ごしていることが出来ない」

「きっと、許してもらえないと思うけど、今までありがとう」

「これで、最後にしよう」

このリストカットの事、ほんとの事で、風の便りに、中学時代の友人から聞いたことです。

その後、「山村楓」さんから手紙が来て、

「分かった」

「別れましょう」

「でも、そんなことがあるのならば、最初に言っておいてほしかった」

「たくちゃん」の邪魔するつもりもないし、ただ『たくちゃん』が大学時代だけの限定で遊びたかっただけです」

彼女としては、リストカットした子のことも踏まえ、最初から分かっていれば、そのことも飲み込んで、心のケアをしながら、お付き合いをしたかったのかな、と今では、彼女の優しさが分かるような気がします。

それもさておき、私はやっぱり恋多き年頃だったのでしょうか、

目に止まる女性「可愛い」と思うことがよくよくありまして、例えば『TAKE5』のバイトの女の子、同学年ぽくって可愛いと思っていて、

「初めての女性はこの人が良いな」

とか。

ちょっとお姉さんで、常連さんのテニス仲間同士で訪れる方で、当時はやってた、『カモメが飛んだ日』の『渡辺真知子』によく似た女性で、いつも声をかけて頂いており、

「何歳になったの」

と、聞かれ、

「二十歳です」

と、お答えすると、

「いいわね~」

「じゃあ、お姉さんが、大人の遊びを教えないといけないね」

等と、誘ってくれました。

実際には何もなかったですが・・・

また、地元デパートでのアルバイトの時でしたが、私のバイト先は一回にある贈答品売り場だったのですが、三階に食道があり、いつもお昼ご飯はそこの食道でした。

いつも、お話ししていたのは、食道のおばちゃん。

ある日、そのおばちゃんが、バイトの女の子を呼び寄せて、

「ここのお嬢を紹介するね」

と言われました。

おばちゃんは、

「この子が、バイトの「晴香」ちゃんだよ」

優しくて、気の利く女の子で、いつも、目が合えば、

「お疲れ様です」

「配達ご苦労様です」

「今日は何にします」

等と、何気ない会話に癒されていました。

私も。奥手ではあったのですが、しばしばお話をしていると、彼女私の高校の後輩で、担任の先生も私と同じ「仲野」先生でした。

その点で、気も合い、映画を見に行ったり、ドライブしたりしてました。

ある冬の事、

「仲野先生が毎年教え子を集めて新年会をしているので参加してみませんか」

とお誘いを受けました。

私は、断る理由もないし、懐かしさもあり、

「分かった」

「喜んで参加します」

と、お答えしました。

その時の事、私一人で先生の自宅に行くには道も分からないし、幼馴染の「川本」君と一緒に訪れることにしました。

先生のところにお伺いした時に、先生から、

「ん、」

「君は覚えているが、一緒に来た友達は誰かな」

と、聞かれ、

「はい、幼馴染の「川本」君です」

と、お答えしたところ、

「うん」

「そうか良いね」

「竹馬の友だね」

と言われました。

直ぐにこのような言葉が出てくるのも当たり前で、実はこの先生、『現国』の先生でした。

おまけに家業がお寺のお坊さん。

説法もお手の物でした。

また、大学でのゼミは、『松田』ゼミに所属しており、大学四年では、大変お世話になりました。

この『松田』ゼミに参加していたのは、高校時代からの親友の「広瀬」君、「鶴田」君、大阪出身の「永瀬」君、地元大分の「安藤」君、「益田」君、合わせて六名でした。

『松田』ゼミの専攻は、『非破壊検査』でしたね。

大学も四年になると必須科目は、ゼミへの出席と、『卒論』だけでした。

とりあえず私、大学時代、出席率と、教科の単位だけは一生懸命取得していたので、大学二年の終わりには卒業単位を全部取っていました。

自分で言うのも何だかくすぐったいような気もしますが、

「はい」

「真面目」

に授業だけは受けていました。

『卒論』に於いても、夏休みには仕上げて、休み明けは、提出して承認を得るだけでした。

専攻が『非破壊検査』でしたので、就職もやはり、『非破壊検査』を業種とする会社を受験していました。

ゼミの先生によると、

「二社までは推薦書を書いてあげるよ」

とのことでしたので、大学の就職課で、求人要綱を見ていました。

実家が山口でしたので、あまり遠くなく、直ぐに帰省できるような環境を探していました。

と、なると、検索してみると、広島がターゲットになりました。

求人募集では、呉の『東京エックス線株式会社』・広島市内の『広島エックス線株式会社』の二社でした。

「よし」

と思い、二社の会社訪問をすることにして、二社に連絡して、会社訪問の予定を組みました。

一旦実家に帰ってから、会社訪問に出かけましたので、車で約二時間程度ではあったのですが、何せ、車で行くのは、初めての広島でしたので、幼馴染の「川本」君に頼んで、一緒に二社の駐車場まで行ってもらいました。

そして、会社訪問二社を訪問させていただいた結果、一社目の『大阪放射線株式会社』では、担当の方が出てこられ、

「はい、わかりました」

「推薦状を持ってきていただければ直ぐにでも内定を出しますよ」

と言われました。

二社目の『関東放射線株式会社』では、

「推薦状を頂きましたので、会社説明会にお越しいただき、入社試験を受けていただきます」

とのことでした。

私の中では、この時点で、如何に言っても、推薦状があれば即内定と言うのは如何なものかと思ったので、二社目に訪れた『広島エックス線株式会社』の会社説明会と入社試験を受けることにしておりました。

当日、説明会、試験会場に行った時、同大学のクラスメイトもおりまして、私より、頭もよく、成績もいつも上だったので、私は半分ダメかなと、思っていました。

試験の中で、印象に残っているのが、問題の一つで、当時流行っていた『ルービックキューブ』の問題でした。

私、この頃『ルービックキューブ』にははまっていました。

この『ルービックキューブ』ですが、要は数学の図形の問題です。

六面を合わせるためには、ある決まりがあり、その決まりを覚えていれば誰でも解けます。

と言う事で、この問題に関しては、直ぐに解けました。

後は、面接試験。

面接官は、今は亡き、当時の総務部長で、その後、私の上司となった方と、もう一方は、四代目社長を経て今では最高顧問ですが、当時は、総務課長でした。

入社してから、総務課長には大変影響を受けることになりますが、この時は全く分かりませんでした。

そして、昭和五十七年四月一日、『関東放射線株式会社』に入社。

今は社名変更して『株式会社シマノ』となりました。

因みに、一社目の『大阪放射線株式会社』も社名変更して『株式会社ダイワ』となっております。


第四巻へ続く。


第四巻へと続いていきます。

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