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その戦に義はあるのか

作者: 佐倉伸哉

 慶長(けいちょう)五年〈西暦一六〇〇年、以下西暦省略〉九月十五日、美濃・関ヶ原。濃霧の中に木霊(こだま)する鉄砲の発砲音を発端に、天下分け目の大戦(おおいくさ)の火蓋が切って落とされた。

 目の前で繰り広げられる戦を、床几(しょうぎ)に腰を下ろしながら漠然と眺める一人の老武者。つるりと剃り上げられた頭に悠然と(たくわ)えられた白髭、日焼けした褐色(かっしょく)の肌、そして高齢とは思えない程に筋肉で覆われた逞しい肉体。しかしながら、その表情は胸中の葛藤を表すかの如く曇っていた。

 笹尾山と天満(てんまん)山の中間くらいに布陣する、“丸に十文字”紋の軍勢。その数は(およ)そ三千。将兵達は床几に座る老武者の命を今か今かと待っているが、当人にそのような様子は見られない。

 その老武者の名は、島津“兵庫頭(ひょうごのかみ)義弘(よしひろ)(慶長四年〈一五九九年〉に剃髪し“惟新斎(いしんさい)”と号しているが、本作では“義弘”で統一する)。島津家第十六代当主・義久の弟で、この島津勢を率いる大将である。天文(てんぶん)四年〈一五三五年〉生まれで六十六歳。

 天文二十三年〈一五五四年〉に初陣を果たしたのを皮切りに、各地を転戦。兄の義久が家督を継ぎ九州制覇へ向けて攻勢を強める方針を打ち出すと、義弘は兄に代わって総大将を務めるなど島津家の版図拡大に多大な貢献をした。豊臣秀吉による九州征伐に敗れた事で九州制覇の夢は(つい)えたものの、その武名を大いに(とどろ)かせた。

 義弘は豊臣政権の担当窓口となったものの、兄・義久が豊臣家と距離を置いていた所為(せい)で板挟みとなる。二度の朝鮮出兵にも参加したものの非協力的な義久は出兵を渋った為に、定められた軍役(ぐんえき)を満たせないなど歯(がゆ)い思いをしている。それでも慶長三年〈一五九八年〉九月の泗川(しせん)の戦いでは約七千の軍勢で(みん)・朝鮮連合軍約三万に大勝するなど島津勢の勇猛さを知らしめ、その無類の強さから“鬼石曼子(グイシーマンズ)”と呼ばれ恐れられる程だった。

 日本へ帰国後も島津家内部の内紛や義久・義弘の間に隔たりが生じるなど対応に苦慮する事が多かった。豊臣家内部の権力争いにも義弘は心ならずも巻き込まれ、紆余曲折(うよきょくせつ)を経て現在に至る。

 初陣以来、島津家を武の面から支えてきた義弘。祖父の忠良(ただよし)は義弘を『雄武英略を以て他に傑出する』と高く評価したとされる。義弘自身も戦塵(せんじん)の中で生きてきた武人として誇りを持っており、島津家屈指の猛将として今日(こんにち)まで生きてきた。その義弘が戦にあって苦悩に満ちた表情を浮かべているのは異例中の異例の出来事だった。


(わし)はそもそも、内府ないふに味方するつもりじゃった)

 しかめっ面を浮かべる義弘は腕を組みながら戦況を見つめる。

 そもそも、島津家の取次(とりつぎ)は石田三成が務めていた。豊臣勢に敗戦した際に本国薩摩のみ安堵される方向だったが、三成の取り成しで大隅と日向(ひゅうが)の一部も安堵されている。また、領内の検地に石田家の家臣を派遣するなど、様々な便宜(べんぎ)を図ってきた。そういった点では、三成に恩は感じている。

 しかし、秀吉没後は家康が島津家へ急接近する。それまで接点を持ってなかったが慶長三年十二月に家康の方から伏見の島津屋敷を訪れたのを契機に、島津領内で豊臣家の蔵入地となっていた五万石を島津家へ返還するなど、交誼(こうぎ)を深めていった。

 豊臣政権内で次の覇権を巡って暗闘を繰り広げている両名から秋波を送られた義弘だったが、時を追う毎に情勢は緊迫の度合いが増し、どちらかの陣営に属さなければならない空気が醸成(じょうせい)されつつあった。本来ならば国許にある義久が島津家当主として旗幟を鮮明にすべきなのだが、中央の争いに巻き込まれたくない義久にその気は全く無かった。それ故に、中央との付き合いが深い義弘が選ばざるを得なかったのだ。

 長い付き合いの三成か、新しい付き合いの家康か――義弘が選んだのは、後者。

 理由は二つ。第一に、三成は自ら()いた禍根(かこん)が原因で失脚しており、権限や豊臣家内部の地位を失っていること。第二に、家康は関東二百五十万石の太守(たいしゅ)である上に(かつ)て秀吉が率いた十万の大軍を相手に負けなかった戦上手であること。以上の点から、両者で戦が起きた場合は家康が勝つ可能性が高いと義弘は踏んだ訳だ。三成に感謝はしているが、勝てない戦に参加して運命を共にする程の恩義ではない。

 慶長五年六月、国許へ帰国していた上杉景勝に『不穏な動きがある』との通報が寄せられた事に端を発した会津征伐が決定。九州最南端の島津家に家康は参加を求めなかったが、代わりに『畿内(きない)一朝事(いっちょうこと)あった際は頼む』と義弘へ伝えている。

 家康が大軍を率いて東国へ出発すると、時の権力者が居なくなった畿内では国許へ帰っていた毛利輝元が上洛したり奉行衆の面々が頻繁に密談を行うなどきな臭い雰囲気が出始める。そして――七月十七日、奉行三名の連名で『内府ちがひの条々』が発布。専横(せんおう)を極めた家康は豊臣家に害を()す存在として追討の対象となったのである。

 この事態は家康も予見しており、伏見城に股肱の臣である鳥居元忠を残していた。義弘も家康の求めに応じる形で手勢を率いて伏見城へ入ろうとしたのだが――。

何奴(どいつ)此奴(こいつ)も、儂を虚仮(こけ)にしおってからに)

 思い出すだけでも腹が立ってくる。眉間に寄る(しわ)が深くなる義弘。

 伏見城を預かる元忠は「主から聞いてない」と義弘の入城を拒否。それでも義弘は家康の要請に応えるべく交渉を試みるも、そうこうしている間に大坂から徳川追討の軍勢(以下西軍)が到着し、西軍へ吸収され逆に寄せ手へ組み込まれ奮闘した。

 義弘の手勢一千では到底足りず国許の義久へ援軍を求めるも、義久は「島津家とは関わりのない事、関わりたくない」と拒否。ただ、「義弘の求めに応じる者については止めない」として将兵個人の意思による参加を黙認した。義弘を慕う者、天下分け目の大戦に臨みたい者が手弁当で本国から駆け付け、甥・豊久(とよひさ)を始めとする多くの勇士が駆け付けた。兵数は一千から三千へ上積みされたものの、国を二分する争いに島津家を代表する軍と呼ぶには到底少な過ぎた。

 西進してくる徳川勢(以下東軍)に備えるべく美濃方面へ送り出されるも、東軍の先遣勢が岐阜城へ迫る中で墨俣に駐留していた豊久率いる手勢が味方から取り残されたり、前日に家康へ夜襲を仕掛けるよう三成へ進言したものの(しりぞ)けられたりと、明らかに低い扱いを受けていた。兵数が少ないとは言え武人として軽視され続けた義弘の心は完全に西軍から離れていた。


 暁闇(ぎょうあん)が霧と共に晴れ、戦場が一望出来るようになった。関ヶ原一帯はあちこちで激しい戦闘が行われているが、物見の報告などから西軍が優勢とのこと。この場に立つ島津勢も戦に加わるべきなのだろうが、義弘は床几から微動だにしない。

 この地に布陣した時から、義弘は将兵達にこう伝えていた。

『儂が下知するまで、戦に加わる事は許さん。我等に近付こうとする者は敵味方問わず追い返せ』

 正直なところ、義弘は今回の戦に臨む義を見つけられずにいた。“義”とは道理、意味、題目、筋、それ()を一言でひっくるめたものだが、この“義”こそ重要だった。そもそも、武士は人殺し集団や戦闘狂ではない。先祖代々受け継いできた土地を守る、一族郎党の繁栄を目指して勢力を拡大する、矜持や面目を貫く、それを体現する為に“戦”という行動を起こすのだ。

 将兵達の命、島津家の名。その両方を背負っている義弘は、明確な義を見出せない以上は軽々(けいけい)に行動へ移るつもりはなかった。

 関ヶ原の各地で激戦が繰り広げられている中、息を潜める島津勢。床几に座る義弘の耳に、時折島津勢による発砲音が届く。東軍の諸将も静まり返る島津勢を不気味に思ってか、攻め寄せる気配は見られない。

 刻限が進んだ頃、前の方で豊久が何かに怒鳴る声が微かに聞こえた。暫くして、明らかに苛立った様子の豊久が現れる。

「石田家の八十島(やそじま)何某(なにがし)が来ました」

「うむ」

「加勢を頼みに来たのはいいですが、馬上で物申したので追い返しました」

 豊久の報告に、義弘は「そうか」と一言返す。

 今回の戦で実質的な総大将である石田三成からの使番(つかいばん)ならば、通常だと島津家の将か大将である義弘へ通すのが筋だ。しかも、今回使番を務めた八十島助左衛門(すけざえもん)は石田家における島津家取次を担当した者で、島津家との接点もある人物だ。それを相手の言い分も聞かずに追い返したのは理由がある。緊急時であっても相手が目下の者でない限りは馬に乗っている者は一旦下馬しなければならないのに、余程慌てていたのか助左衛門は馬上から言ってしまったのだ。只でさえ心が冷え切っている島津家の面々にこの非礼は火に油を注ぐ行為に等しく、応対した豊久は『今日は各々が好き勝手にやると仰られた、そういう認識でいいだろ?』とけんもほろろに突っ()ねたのだ。

叔父貴(おじき)

 報告を終えた豊久が、声を掛けてきた。その声色に何かを感じ取った義弘は甥の方に顔を向ける。

(おい)達は叔父貴の為に戦う。色々思うところはあるかも知れんけど、それだけは覚えとってくれ」

 それだけ言い残して、豊久は前線へ戻って行った。豊久は元亀元年〈一五七〇年〉生まれで三十一歳、自分の半分も生きていない若者の言葉は、義弘の心に深く刺さった。

 体面とか思惑とかしがらみとか、気を惑わしたり削いだりする事ばかりに着目していて、本質を忘れていた。“薩摩・大隅隼人(はやと)の名に恥じない振る舞いをする”、それに尽きる。古代より脈々と受け継がれてきた隼人の精神に(のっと)り、島津の生き方を貫くまでだ。

 自分の中で一本の確たる芯が通ると、目の前に見える世界もガラリと変わった。無意識の内に丸まっていた背中も真っ直ぐ伸び、顔つきも引き締まる。心を覆っていた(もや)も晴れ、思考もスッキリしている。ただ漠然と(とき)が過ぎるのを待っていた状況とは一変し、義弘は刻が来るのを待っていた。

 時間の経過と共に、戦況も変化していく。総数に対して稼働人数が少ない西軍が数で上回る東軍を相手に何とか善戦していたが、松尾山に陣取る小早川勢が大谷勢へ突っ込んだのを機に戦況は一気に東軍優勢へ傾く。一度は押し返した大谷勢だが小早川勢に触発される形で新手の寝返り勢が発生し、壊滅。辛うじて保たれていた均衡が崩れ、小西・宇喜多勢も波に押されるように潰走を余儀なくされた。笹尾山に陣する石田勢も敵勢の殺到に持ち(こた)えきれず、三成も敗走するに至った。

 大勢(たいせい)は決した。関ヶ原の戦いは東軍勝利の結果は誰の目から見ても明らかだったが、ここに来て義弘は主立った者達に集まるよう命じた。


「引き揚げるぞ」

 豊久や重臣などが顔を揃える中、開口一番に言い放つ義弘。

 しかしながら、関ヶ原一帯には敵の大軍勢が雲霞(うんか)の如く盤踞(ばんきょ)している。開戦以降一貫して非戦を貫いてきたとは言え、引き揚げるから道を通してくれるとは思えない。幾ら大将である義弘の命であっても、自ら死にに行くような行為に皆躊躇(ためら)いの色が(にじ)む。

()れど、叔父貴……」

 皆の思いを代弁するように、豊久がおずおずと声を上げる。どう話すべきか迷っている甥を制するように、義弘が先に口を(ひら)いた。

「コソコソ逃げるのは好かん。ここは一つ、真っ直ぐ突き進もうではないか」

 その一言で義弘の言わんとしている事が分かり、居並ぶ面々の目の色が変わる。

 西軍の大将達は敗れ逃げて行ったが、島津勢は違う。まだ戦ってないのだから、勝っても負けてもいないのだ。自分達は故郷へ帰る、その道に立ち塞がるなら誰彼構わず突破する。これこそ隼人らしい振る舞いではないか。義弘はそう問い掛けたのだ。

 当然の事ながら、敵中を突破するので厳しい戦いになる。全滅の恐れも十二分に考えられる。それでも、誰も義弘の提案を止めようとはしなかった。寧ろ、意気に感じる者の方が圧倒的に多かった。

 皆の顔を一度見渡し、異論が無い事を確認した義弘はおごそかに告げた。

「急ぎ、出陣の支度を。遅れる者は置いていくぞ」


 陣を払い隊列を整え直した島津勢は、決戦の余韻がまだ残る関ヶ原を東の方へ向け進み始めた。騎馬武者を前方に揃え、歩兵はその後に続く。先陣を務めるのは豊久で、その周りを勇士で囲む。

 まず目の前に見えるは福島正則勢。突如動き出した島津勢を遠巻きに眺めていた福島勢に対し、豊久の周りに居る者達が馬上で予め火縄の点いた鉄砲を構える。

「放て!」

 豊久の命で、一斉に引き金を引く武者達。まさか撃ってくるとは思っていなかった福島勢は被弾者を多数出すも、応戦する事はしなかった。それどころか、塊になっていた軍勢を島津勢が通る為に道を()ける有様だ。この時、正則は将兵達に対し「絶対に戦うな!!」と厳命したとされる。根っからの戦馬鹿である正則は戦場(いくさば)で武功を挙げる事に主眼を置く人物だったが、朝鮮での戦いで島津の戦いぶりを知っていたのと“(なり)振り構わぬ死兵の島津に噛み付いても痛い目を見るだけだ”と悟っていた事が今回の判断に大きな影響を及ぼした。

 福島勢を突破した島津勢の前に次に見えてきたのは、松平忠吉・井伊直政の軍勢。その後方には総大将の家康が居る本陣があるだけに、道を空けようとしない。それでも鉄砲を撃ち矢を放ち、さらに騎馬武者の突貫で無理矢理道をこじ開け、強行突破に成功する。

 近寄ろうとする者が居れば飛び道具を放ち、前を塞ぐ者が居れば刀や槍で薙ぎ倒し、後ろから追い(すが)ろうとする者は歩兵が仕留める。それはさながら、“全てを破壊しながら突き進む水牛(バッファロー)の群れ”のようだった。


 その後、家康本陣の手前で進軍方向を変え、伊勢街道方面へ。強行突破の代償は大きく、兵数をかなり減らしてしまった。また、一度は突破を許した東軍も島津勢を逃すまいと猛追。その対応に幾許(いくばく)かの兵が離脱する事を繰り返し、五百程度になっていた。

 このまま進んではいつか全滅してしまう。大将の義弘に薩摩の地へ生きて帰ってもらう為に島津勢はある決断を下す。義弘には数百の兵と共に先行させ、残った部隊は数人から十数人単位の組を作って足止めしようというのだ。俗に“捨て(がまり)”と呼ばれる戦法は徳川勢を大いに苦しめ、井伊直政はこの時に負った傷が元で病死するなど小さくない痛手を(こうむ)る事となる。

 将兵達の命懸けの足止めもあり、義弘は薩摩へ生還を果たす。この時一緒に故郷の地を踏んだのは八十名前後とされ、如何にこの撤退戦が過酷なものだったかがうかがい知れる。しかし、この“島津の退()き口”が与えた影響は大きく、寡兵ながら大軍勢を突き破って進軍した事が強く印象づけられた家康は、戦後処理で関ヶ原の場にありながらも島津家は本領安堵とせざるを得なかった。


 戦う義を見出せなかった義弘だが、義を貫いた事で結果的に島津家を救った恰好(かっこう)だ。

 この島津家が三百年の時を経て再び徳川家へ牙を剥くことになるが、それはまた別のお話――。


(了)


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