5 魔法で命は造れない
5
「それで主様には、その魔法書を使い、再び魔族の帝国を築いていただきたいのです」
暗い通路の奥の部屋で、女は自らのことをエステラと名乗った。
「ぼくは、そんな――」
エステラは部屋の入り口を塞ぐように立っている。
「……」
「ぼくはただ、穴に落ちて、それでただ歩いていたらこの部屋に来ただけなんです」
エステラは、デイビアを主と呼んで跪いた。そうしてこの魔導書の事を語り始めたのだ。
エステラは言う。この魔導書はあえなく倒れた魔王が、生前に己の力と技を込めて作った至宝の一品だという。優れた魔法使いは、己の技術を後世に伝えることを習わしとする。魔族とはいえ、魔王もまた魔法使いだった。それが、この本である、と言う。魔導書には魔王の権能の内、迷宮創造の力が込められていると言う。
「ぼくは、そのっ――」」
言いかけて、それ以上は言えなかった。エステラの眼は冷たく見開かれて、こちらを射貫くような眼差しを向けている。彼女がじっとデイビアをみるから、デイビアは冷たい部屋の中で汗を出した。呼吸が自然荒くなる。
「あなたは我が主様ですよ」
言って、女は歩き始める。女が動き、背後の照明にぼんやりと照らされた通路が見えたが、デイビアの体は恐怖からか硬直し、動けなかった。エステラがデイビアの横を通った。背後へ回る気配がする。そして、紙がめくれる音がした。本をめくっているのだ。
「これには様々な魔術の秘儀が掛かれています。生前、前魔王は色々なことをここに書きこみました。しかしあなた様にこれは読めないでしょう。しかしそれでいいのです」
エステラはデイビアの横に立った。軽く腰を屈めて、自分より背の低いデイビアの顔の横近くへ、自分の顔を近づける。
「魔法書には色々なものがあります。それがこの世にあり、誰かの手に渡るというだけで、そのものの魔力をよすがに効果を発揮するものもあります。……例えば呪いのものとか」
エステラは彼の耳元で呟く。
デイビアはびくりとして、自分の身体が動くことに気が付いた。意識をしっかり持とうとしながら、地面にしっかりと立つ。汗が頬を垂れる。エステラはデイビアの背後に手を回し、彼の服の皺を伸ばしてやる。
「先ほども申し上げました通り、この本には持つものに迷宮の創造の権能をもたらす力があります。あなたはこの本の何も読む必要はないのです。ただ本を持ち、そう、初めは低能な魔物を作るのがよいでしょう。彼らに地面を掘らせる必要がありますよ」
「あなたは……?」
誰ですか、と問おうとした。どうしてここに居るのですか。
「かつての魔王はこの本に様々なものを残しました。そのうち一つが膨大な魔力です。わたしは魔法書は持つものの魔力をよすがに効果を発揮すると言いましたが、この本に限って言えば、それは違います。わたしは魔王がこの本に残した魔力を元にこの世に顕現しました悪魔です。あなたはわたしを通じて、本それ自体の魔力を用いることができます」
けど、と言いかけたデイビアをエステラは見る。
「あなた様は必ず、わたしの言うとおりになさいますよ。わたしにはわかります。なにせ、あなた様がこの本にお命じになって、わたしをこの世に表させたのですから」
デイビアは驚愕しながら、エステラを見上げた。
怖い、逃げたい、という気持ちがある。一方で、押さえつけられながらも、今にも姿を現したがっている気持ちもある。
(もしかしたら、これで……。もしかしたらっ!)
……何ができるというのだろう。この本を持てば、この悪魔の主になるという。ダンジョンを創造できるという。自分の人生の新しい岐路がこれでひらかれるだろうか? これで? 本当に?
デイビアの眼は見開かれる。鼓動が鳴る。エステラが顔を近づけた。青い、明るい目が、デイビアの目に近づけられる。
互いの瞳が交わる寸前のところで、エステラの瞳はデイビアのそれを覗き込む。
「……もし、ぼくがこれを……持つとして」
はい、と静かにエステラは言う。彼女の瞳はデイビアの瞳をとらえたままだ。
「ぼくは……ぼくは何を差し出せばいいの?」
「なにも」
エステラはデイビアの頭の後ろに手を回す。軽くのけぞっていた彼の背を正してやる。
「ただ使ってくださればよろしいです。わたしを、この本を。……あなたはこの本を持つことによって、先の魔王の後継者となります。その地位は、あなたに魔族の再建の責務を負わすでしょう。あなたはそれを全うせねばなりません。しかし究極的には、あなたはただわたしを使えばよろしいのです。実際には、先の魔王は手にした者と本との契約としては、ただその事のみを定められましたから」
「考えたい」
「考えることなどありません。実のところ、契約は既に果たされております」
「……え?」
「わたしがこの世に存在するということは、そういうことですよ」
エステラは感情のない顔で口許を歪めた。
地下の通路に火が灯った。灯火の光が通路の奥まで点々と続く。エステラが提案し、デイビアがそう命じたのだ。命じる、といっても建前もいいところで、実際はただ頷いただけだった。だが今にして分かった。この扉の前にある松明も魔法の力で燃えていたのだ。通路の火は松明と違っていて、壁に鬼火のように火が浮いている。
エステラはこの疑問を聞くと、こう答えた。
「火は魔法で起こしました。しかし、例えば松明の木材などは実際に木を折りここへ持ってこなければいけません。木は生命です。魔法で生命は、もとより魔力で生まれる魔物を除いて、作れません」
これにデイビアは沈黙で返す。
「ここは元々、魔王軍の前線基地の一部です。この地は神聖王国の首都間近、それゆえに非常に隠匿して作られています。なので、今のところは人間に発覚するのを恐れる必要はありません」
「人間にばれるとどうしてまずいの?」
「それはもちろん、あなたが現在において魔王様であらせられるからですよ。処刑は免れないでしょう」
「えっ」
結局、デイビアは促されるままに本を取ったのだった。慄然としながら本を手にしたが、結局何も起こらなかった。ただエステラが言うには、既に本の権能をデイビアは扱えるという。ただ魔力をデイビアは持っていないので、そうするときはエステラに命じるという形でそれを行う、らしい。
二人は通路の奥まで行き、下へ下がる階段を覗いていた。階下は暗闇に包まれていた。
「この下は?」
「迷宮が続いています。現在のここは迷宮の末端部分で、地表に最も近いところです。しかし今見えているそこより先は、いよいよ本格的に迷宮に入り込むことになります。魔物を囲う兵舎から、魔族のための宿営地がつながるはずですが……、先の魔王が倒れた時には、魔族側にはかなりの混乱があったろうと予想されますから、さてどれほど残っていますやら」
魔族がいるの、とデイビアは隣に立つ女に聞いた。
魔族は魔物とは違い、魔物以上の知恵があり力がある存在だ。彼らは言葉を喋り社会を作る。その社会の一つが、魔王を頂点とした地下の魔族帝国だった。デイビアは彼らを恐ろしい存在だ、と認識していて、この程度の知識しか有していないが、地下の迷宮にあっても、魔族が種族ごとの小さな社会を維持していることは常識として知っていた。
「この下に降りるの?」
「近い内には、必ず……。ただ、主様も疲れましたでしょう。今日はこの程度で切り上げましょう」
言って、エステラはデイビアに踵を返すように促した。
二人は通路を辿り、デイビアが初めに落ちた場所へと着いた。デイビアはエステラと並んで歩いたが、実際は彼女が行く先について歩いただけだった。
エステラは上の丸い光の穴を見上げる。
「主様の初めての仕事となります。さあ、わたしにあそこまでの階段を作る様に命じてくださいませ」
「命じる? 言えばいいの?」
はい、と言って、エステラが顔を戻してデイビアを見た。
「エステラ、あそこまで続く階段を作って――」
デイビアがそう言うと、エステラは何の動作をするまでもなかった。ただ立ち尽くしていた。すると、大きな音がして、地面が揺れた気がした。上にある穴が渦巻くように拡大する。壁もまた渦巻くように広がり、そこへ固い土を繰り出すように土段が下から順に出てきて、上までの階段を作ってしまった。
デイビアは狼狽えた。あまりに自然に地形が変わってしまったから。眼を見開きながら、エステラに問う。
「あなたがやったの?」
「はい。ただ正確には、わたしを通じてあなた様がなさったのですよ」
デイビアはしばらくぽつんと、その光景を見ていた。
デイビアが土段に足を掛けたとき、背後からエステラの声がした。
「わたしは地上には上がれません。わたしとあなた様の本は、この迷宮から離れることができないのです。ですから、ここでしばらく暇を賜わります。主様は何かあれば、すぐにここへ駈け込まなければなりません。わたしはいつでも主様の居場所がわかります」
デイビアはこくんと一つ頷くと、一気に上まで駆け抜けた。地表まで出て、草の生えていない土の上に転がり込んだ。自然、色々なことを思い出す。侍女風の女のこと、地下に続くという迷宮のこと――魔王、とあの女はデイビアを呼んだ。
これからどうなるの、とデイビアは一人ごちた。恐ろしいことが待っている気がする。それには強い確信がある。一方で、今までの人生で心の奥底で閉まっていた「希望」が、ひっそりと首をもたげた感触があった。デイビアはそれを決して思い出さないし、言葉にもしない。けれど一瞬、母の墓の隣で死んだ父親の姿が想起された。