6 召使いが天使を無理やり起こす
6
エステラは、斜面に伏す人の横、大きな岩の上に膝を屈めてその人を見下ろした。周囲を窺うようにしている。デイビアはその姿を下から見上げてから、下に落ち込んでいく岩場を、恐る恐る降りて行った。
上からエステラが声を上げる。
「生きてはいませんから、大丈夫ですよ」
デイビアがはっとして足を止めて見上げると、エステラは背後を向いていて、殆ど姿が見えなかった。さらに数段降りて、女の横に立つ。
顔は見えないが、女はまだ若いはずだ。服は純白のガウンに、金の縁取りと模様が刺繍してある。服は高価なものだ。血は生々しい。上半身が血の海の中にあって、脚は太ももに血糊がべったりとついている。――胸をやられたんだ。
顔を振り仰ぐが、エステラの姿は見えない。
デイビアはしゃがみ込んだ。女の手のひらに触れてみる。あっと思う。冷たくないんだ。そしてすぐに、死んだばかりなのだから、それもそうか、と奇妙な感覚で納得した。
鼓動が速くなるのが自分でもわかった。死は恐ろしい。自分は死にたくない。……父親の死は体験したくなかった。それは忌まわしく、見たくもないものだ。……その死が、今目の前に。若い女を自らに誘い、捕えてしまったのだ。
デイビアは首もとに手をそっとやろうとする。視界でとらえる自らの手は震えていた。長い淡い金髪をわけて、首筋に手を触れた。脈はない。
(この人は……死んでいるんだ)
デイビアは少し横に移動してから、反対側の女の身体に両手を伸ばした。女をひっくり返す。デイビアは一瞬で顔を背けて眼をつむった。ちらっと見えた女の顔は綺麗なものだった。元の作りは端正だ、血も両頬の端にしかついていない。それでも死人を見るのは怖かったし、薄っすらと開いた眼は、見てはいけないものの気が強くする。
純白のガウンに、透き通るような肌の白さは、天使に違いない。人間では不可能な美しさを、この死体は持っていた。
岩陰からは、エステラの声だけが聞こえた。
「お前がやったのか?
答えられないの? ほら」
デイビアは死体を一瞥してから、岩の段を上る。岩陰から顔を出すと、自然とエステラが放つ光が顔を照らした。その光だけが頼りな薄闇を、岩を足場に、もたつきながら進んでいく。
エステラは大きな岩の上で膝を崩していた。すぐ横は差し渡しの狭い崖のようになっていて、そこが先ほどの窪地だった。エステラの膝の前には魔物が横たえられていた。岩肌には血糊が着いていたが、血自体は流れ出ている様子はない。
「流血は止めました。簡単な魔法を使って、止血したんです」
エステラは本を持っていない。普段は腰に革の帯で留めてある。
「生きてるの?」
「はい、先ほどはうわ言のようなものを喋っておりました。意識は殆どないようです」
「助かる?」
「はい」エステラは頷いた。「主様が助けたいとお思いなら」
「折角だしね」
デイビアは言って、エステラの視線を追った。二人は岩山の斜面にいる。周囲は明かりが照らしていて、鈍色の岩場だ
エステラが指を指す。岩の影に一人、そこに沿うようにして倒れ伏している。エステラが指先を動かした。遠くて暗いところに、一人いる。開かれた両脚がぼんやりと見えるから、仰向けに倒れているのだろう。
「これで三人」
言って、エステラは本に触れた。
「あと二人です」
「天使様は五人で来たの?」
「はい。彼に聞きました」
エステラは、自分の横で倒れている魔物を見下ろした。
しばらくエステラが何も言わなかったから、デイビアはただ周囲をじいっと見ていた。周囲は離れれば離れるほど暗くなる。背後を見る。背後を立ち上がっていく岩山は、そのあちこちに枯かけた木々を生やしている。やはり、その先端は暗くて見えない。耳をすませば岩山を流れる小川のせせらぎが聞こえてくる。
――地下は広いんだな、とデイビアは思わざるを得なかった。
デイビアが顔を戻すと、エステラと顔があった。するとすぐに、彼女は立ち上がって言った。
「残り二人、どこにいるか見当がつきますよ」
そう言うと、エステラは山を下りる方向へ進み始めた。少しして岩場を降りて、土を踏む。デイビアを振り返り、到着を待つ。
二人は山に沿いながら歩いた。デイビアは横目で、先ほど倒れているのを見つけた二人を追おうとしたが、山の下からでは見上げる形になるので、姿が見えなかった。
エステラは足を止める。山とは反対側、小さな岩場があった。小さな岩が寄せ集まって、小さく隆起している。そこに大木が堂々とした姿で生えていた。大木の葉は茶色くなっていた。近づくにつれて木肌が見える。皮は深く皺が刻まれ、過ぎ去った年月を予感させた。威厳とともに老いを深く感じさせる姿でもあった。
デイビアは歩きながら木の下に女を見つけた。女は木の下で、顔を前に傾げ、両足を大きく広げながら、木に背を靠れている。その様子からもう命はないだろう……。
その木の裏、別の女が横たわっている。木の裾野にできた小さな草場の上に体を投げすてるように横たえていた。
デイビアは直感して、生きていると思った。
へえ、とエステラは呟いた。反対側の木陰で死んでいる女を一瞥してから、顔を戻す。
「わかりますか? 生きていますよ」
「うん」デイビアは呟いてから、傍に近づいた。「そんな気がする」
二人は女の両側にいる。エステラが立ち見下ろし、デイビアがしゃがんでいる。
エステラが女の首筋を指さしたから、デイビアはそこに触れた。――脈がある。
はっとしてエステラを見上げる。エステラはしゃがんで、女の横顔を見つめた。薄い緑色の短髪は緩やかにカーブして、眉毛の長い、作り物のような顔だった。
エステラが口許に手を差し伸ばした時、女の瞼がピクリと動いた。同時に、女の手も少し動く。
女が、あ、と言った。閉じた瞼が、数回力んだ。女の瞼が徐に持ち上げられる。
ゆっくりと開かれた女の眼は、次いで大きく見開かれた。
「あ……う」
女は身体に力を籠められないようで、手を微かに動かすだけだった。けれども目は恐怖を色濃く映している。顔が恐怖で戦慄いている。
デイビアはその様子につい腰を浮かした。
「これはもう何にもできませんよ。可哀そうに、中身がすっかり死んでいます……」
「でも」
「仲間が周りに倒れ伏す中で、自分ひとり惨めに生き残ってしまったんです」
この犬が、とエステラは呟いて傍に持ってきた魔物を見た。
「天使をこれだけ殺してしまうなんて、この弱小な姿からは想像もできません」
魔物は微かな喘鳴をゆっくりと上げている。
女が体を徐に動かしながら、震わせながら、ゆっくりと上体を起こして後ろへ下がろうとする。エステラはちらりとその姿を一瞥してから、容赦なくその肩を掴んだ。女がびくりと体を震わせた。
「あ――」
「主様、連れて帰りましょう。わたしが世話をしますから」
「助けてあげるんだね」
エステラは、上体だけを地面から起こした女の背後へ回った。デイビアを見る。
「はい――でも、もう天上へは絶対に返しませんよ」
「……酷いことはしないでね」
「わかりました」
言って、エステラは立ち上がる。女の左手を持ち上げた。女は顔を恐怖で青ざめて、玉の汗を流していた。女の肩だけが力なく持ち上がる。エステラは一度、ぐっと引っ張った。やはり女の肩だけが持ち上がる。
「立ちなさい」
「……」
「エステラ、今は――」
デイビアが言うと、エステラは彼を見た。
「いつもまでもここにはいられません」
エステラが言っても、女は立てない。ただ小刻みに体を震わせるだけだった。エステラは女の傍に膝をついて、女にそっと、デイビアに聞こえない声量で耳打ちした。女の眼が見開かれて、その後に体が一度大きく震えた。女は震える足を動かそうとする。
「……なんて言ったの?」
立ち上がったエステラは、デイビアの言葉に、
「死体を四つ並べて、それとお前を数珠つなぎにしてここに置いていってやってもよろしいですよ、と言って差し上げたんです。ただ足ではなくて、手で這うようにしておくけれど、とも」
「もうそんな残酷なことは……言わないでね」
はい、とエステラは言った。この女は悪魔なのだ。彼女の眼はいつものように光なくこちらを見つめている。美しい、人形のような顔立ちで、その内心は窺い知れない。