5 暗闇のなか
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デイビアとエステラにとって、デイビアの家の地下から離れたところは、ほとんど未知の場所だった。エステラは周囲を迷宮の書の力によって詳しく探知できるが、それはこの本から遠く離れれば離れるほど、わかるものが少なくなっていく。ゴブリンたちが伝えた場所は、二人にとっては、ただそこまで通路が繋がっているらしいと知れる程度の場所に過ぎなかった。
天使、とまず思った。
デイビアの知識では、天使とはこの世のどこかの大きな山の頂上に住む人でないものたちのことだった。美しい姿に、強力な魔法を操るという。天使は人の味方だ。
エステラはまずことがおきた、という風なことを言った。そうして、彼女はデイビアを先導してそこへ向かっている。
ゴブリンの報告を受けた直後、エステラはデイビアに言った。
「今この場所を天使たちに知られると厄介なことになります。奴らが通路を辿ってここへ来る前に、通路を遮断してしまいましょう」
道を歩きながら、デイビアは前を行くエステラに声を掛ける。侍女服を着た端麗な女は、こちらを振り向いた。
「どうして天使たちがこんなところまで来たの?」
「わかりません」
歩きながら、召使いの女は首を振った。
「しかし、降りて来たからには、なんらかの魔物の活動の兆候を察知したのでしょう。ゴブリンどもには地上へ出ないように固く言いつけておりますから、奴らではないはずです」
ゴブリンの活動範囲はデイビアの家の地下の周辺に限っていた。彼らがそこを遠く離れて活動していたわけは間抜けなものだった。あるゴブリンの一体が通路の掘削作業中に道に迷ってしまったらしい。その途中に遠くに天使たちの姿を見て、あわてて逃走し、なんとかこちら側へ戻ってこれたので報告した、ということだった。
「地下にはゴブリン以外にも様々な魔物たちが生きています。魔族帝国崩壊後も、地下通路はその複雑さゆえに、多くの魔物や魔族の隠れ蓑として使われているのですよ」
しかし、地下は多くの場所が不毛だ。エステラのように食事をとることなく、魔力だけで生きながらえるものもいる。だがこれは高位の魔族に限った話だ。より低級のもの、特に魔物と呼ばれるものどもになると、人間のように食事が必要となる。地下にはそれを支えるための食物連鎖がない。かつては違ったのだが、今はその食物連鎖が崩壊してしまったのだった。だから、地上へ狩に出る必要がある。
エステラはその通りだ、と言う風に頷いた。
そういう風にあれこれと話しながら地下通路を歩いていると、壁際に何かが倒れているのに気が付いた。デイビアが、あっと声を上げようとすると、エステラの顔つきに気が付いて言うのを止めた。エステラは既にそれに気が付いているようで、そこを見つめながら、同じ歩調でそちらへ近づいて行った。
エステラはそれの傍に立ち、見下ろす。デイビアもすぐに追いついて、それを見下ろした。小さく毛むくじゃらの、犬のようだった。いや、よく見ると汚れているが非常に黒々としていて、顔つきは犬なんかよりも、もっと獣の感じがする。
「どうしてこんなところに」
言いながら近づこうとすると、エステラ手を伸ばしてこれを止めた。
「これは魔物です。近づいてはいけません」
エステラが言うと、魔物の獣が眼を薄く開いた。それとほとんど同時に、エステラは目にも止まらぬ速さで腰を屈め、獣の首に手を突っ込み、強く押し付けていた。
獣が、くうと喉を鳴らした。ひどく弱弱しい声だ。見た目とその泣き声から、傷ついているのがわかる。
「助けてくれ」
獣が言った。男の声だった。デイビアはびくりとして一歩下がる。間違いなく魔物だ。
「何があった」
エステラは言い放つ。
「天使が……」
天使、とデイビアは呟く。
よく見れば獣の身体には切り傷がある。それは体毛に隠れて見えづらい。そこから毛の下に赤黒いものが滴っている。
エステラが獣の首を抑え込んだまま、通路の先に顔を向ける。手をすばやく差し出すと、通路の先がぼうっと光った。血が、獣に続いている。
――この量だと長くは走れないだろう。天使は近くにいるはずだ。……なら、この光は不味いのでは?
「ねえ、エステラ。天使たちは近くにいると思うよ。その光だと、気づかれてしまうかも」
「大丈夫です。近くに何があるか、もうわかります」
そうかと思う。エステラは本の力でもう周囲を把握しているのだ。
エステラは立ち上がる。
「行きましょう」
「大丈夫なの?」
「はい」
言って、エステラは通路の先、暗闇を指さして、指先を揺らめかせた。
「わかりました」
デイビアは先へ進むのを少しためらった。傍で倒れている魔物の事が木になったのだ。喋ったから、息がある。でも傷は深いようだ。
既に一歩足を踏み出していたエステラが振り向いた。
「それを持って帰りたいのですか?」
え、とデイビアは驚く。別にどうしたいとも考えていなかったからだ。ただ、放置しておくのは……と思っていた。
エステラは一呼吸置くと、魔物の首根っこを掴んで持ち上げた。黒っぽいちがぽたぽたと下に落ちる。
「死んじゃうよ!」
「平気ですよ。魔物はこれくらいでは死にません」
「本当?」
その質問には、エステラは答えなかった。獣は薄っすらと眼を開いているが、そこには生気はない。
デイビアは通路の先で広間に出た。大きな空間で、一たび通路から出てこの空間の中に入れば、三方の向こう側は暗闇で見えない。それほどまでに広いのだ。広間の向こうには岩場が見えている。それがさらに奥に向かって立ち昇っているのが漠然と見える。岩場には緑色が見えていて、きっと植物だろう。さらに岩場から流れ出ている小川まであるのだ。
「ここは魔王軍によって人工的に作られた空間ではなくて、自然の巨大な洞窟を多少手を入れて整えただけの場所のようです」
「こんな場所があったんだ。これが自然に出来たものなの?」
「はい」エステラは言って、デイビアを見た。「ダンジョンには、ダンジョンマスターが作る人工的な迷宮と、自然発生した迷宮との二つがあります。前者は、それを支配するものの力の及ぶ限り、自由に形づくられます。後者も種類が色々とありますが、大概は素朴な洞窟の形を問っていることが多いのです。
自然発生した迷宮はダンジョンマスターを持ちません。最初から、ダンジョンの中に生態系を孕んで生まれてきます。水があり植物があり、それを栄養素とする魔物があります。そしてそのダンジョンへ、より大きな力を持った魔物が入り込み、住み着き、さらに魔族がそこへ移住するのです」
言いながら、エステラは爪先で小石を軽く蹴った。
「――ここは拡大した魔王の迷宮に取り込まれた、元は別の迷宮だったんですね」
そう、と言ってデイビアは見た。なんとなく、ここに天使がいるのだろうと思った。天使は明らかに今のデイビアの敵だ。見つかれば何をされるのかわからない。そう思う一方で、昔からおとぎ話で聞いて来た美しい天使に会えるのだと思う気持ちがあった。
巨大洞窟の中を、エステラが手のひらの上に出す淡い光を頼りに進んだ。
「本当なら妖精たちが上を舞っているんですよ。わたしたちはその光を頼りに進むんです」
言いながら、エステラは手のひらに浮かせた光の玉を示した。
「妖精? 地下に妖精がいるの?」
「ええ、もちろん。地上に妖精がいるのと同じ理由で、地下にもおりますよ」
同じ理由、と言われても、デイビアは地上ですら妖精なんて見たことがなかった。そもそも本当に存在したのか、と思うところすらある。
そういう気持ちが表情に出ていたのか、エステラはこちらを軽く振り向きながら話し続ける。
「地上にも地下にも魔力がありましょう? 妖精は魔力の溢れる豊かな土地を飛び回るんですよ。魔力は魔物や魔族を引きつけます。それは彼らが魔力をある意味で糧にしているから、とでも言うのでしょうか……本能的なところがありますね。そして魔力は実際に土地を豊かにします。緑生い茂る、豊かな土地は自然と魔力が渦巻くのです。妖精はそういう土地にあらわれます」
ふうんとデイビアは呟く。もしその通りなら、この土地は既に死んでいるのか。
「……はい」エステラは目の前の、岩場に枯れている木々を見た。「見てください、木が死んでいます。ここにはもう生き生きとした植物は存在しません。先の魔王の迷宮に取り込まれた時点で、この自然の迷宮も、魔王の管理の中に組み込まれてしまったのです。それはより効率的な拡大と、魔王の下に集う魔物たちとの合流とで恵まれますが、このように魔王が倒れてその管理が失われたあとでは、ただ荒廃するのみとなってしまいます」
エステラは軽く身を屈めて、枯れきった幼木をねこそいだ。伸びた根からはぽろぽろと感想した土が落ちる。デイビアは上を見上げた。岩場は、岩山の麓だ。小さな山が目の前にある。山の先の方は暗闇で見えないから、正確な高さは分からないけれど。ごつごつと岩が露わになった山肌は、苔や木で覆われていた。苔は茶色まじりだったが、全体的に未だに生気を保っている。木も死んでいるものもあるが、生きているものもある。じわじわと、環境が死に向かっているのだ。
「さ、こちらです」
言って、エステラは歩き始めた。麓を沿うように歩いた。少しすると、鈍色の岩場の中に人の脚が見えてきた。あっ、とデイビアは思う。脚は岩陰にあって、投げ出されている。
エステラが近づくにつれて岩に足を掛けて岩場を少し登っていく。デイビアも後に続いた。
岩々の隙間で出来た窪みの中に、女が俯せになって倒れている。斜面になった形状の上に、頭を下にして斜めに倒れていた。頭の周りには血の海となっている。その血が斜面を滑り落ちて後を引ていた。




