1 主従は暗がりを進む
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暗い隧道の中を、デイビアは進んでいた。迷宮の地下通路だ。彼の隣には、彼を主と言う女が並び歩いていた。
ちらりと視線を向ける。エステラはその仕草を確認して、同時に眼を合わせる。エステラが片手で抱えているのは、持つものが迷宮の支配者となれるというあの本だった。この本は中々分厚い。表の装飾は縁取りくらいなのだが、いかんせん重たかった。本はエステラが地下で管理していて、デイビアが地下に入るとエステラは本を持ってやってくる。今日デイビアは本を受け取りしばらく歩いた後、エステラに持っていてくれるように頼んだ。
エステラは地下を拡大するに先んじて、デイビアの家の周辺を掘削して、かつての迷宮と連結しつつ新しくこじんまりとした拠点を設けようと提案してきた。デイビアはこれに頷いた。何をしていいかわかっていないからだ。
デイビアはエステラを通じて本の魔力によって、迷宮を自由に創造することができる。しかし、デイビア自身の魔力が貧弱なので、デイビアと本の魔力に拠らずに掘削を勧めてくれる手下が必要だ、ということらしかった。
「もう少しかな?」
はい、とエステラは頷く。
この通路に入る前のこと、デイビアとエステラは、デイビアの家の裏から続く通路の先の袋小路で佇んでいた。
デイビアの目の前には壁がある。壁といっても、彼の左右にある通路の壁のように土を固めて作ったものではなくて、厚い土砂の壁だった。迷宮はあちこちで寸断されている。ここもその内の一つだろう。
「この通路の先にゴブリンの小集団が住み着いています」
「ゴブリンって言ったら……」
デイビアはその魔物を聞いたことがある。醜く狂暴で、恐ろしい魔物、というイメージがあった。
「元は地上に住んでいたある種族が元だと伝わっています。それが恐ろしい呪いを掛けられてしまって、地下に逃げ込み、背を低くし知能を退化させ、そのまま種族として固定化されてしまったようです」
エステラは本を広げ、片手でさする。その手のひらを道を塞ぐ土砂に向ける。大きな音を立てながら、土砂が元あった場所へ「引いていった」。土砂が崩れた時の時間が巻き戻るかのように、土は元もと壁があった場所の内側へと引いていく。
「伝承はともかくとして、ゴブリンは危険な魔物です。奴らは知能が低く暴力を好みます。ある程度の知能があるのも厄介です。待ち伏せや死んだふりなんかもできます」
彼女が言い終わるまでに、土砂はすっかりなくなって、通路の先が見えていた。明かりはなく、暗い闇に満ちてはいたが。
「でもそんな奴らに、どうして会いに行くの?」
「労働力になります。行って、ひれ伏させるのです」
言い終わると、エステラは通路の先へ足を踏み出した。肩越しにデイビアを見る。デイビアは彼女の後に続くことにした。
「ほら、あそこを」
そう言ったエステラが指示した先、暗闇の向こうに薄っすらとした明かりが見える。この幅広の通路の先には間口があって、その先から光は覗いている。
二人は間口までたどり着いた。奥は広々とした広間になっていたが、左手は土砂がなだれ込んでいて斜面を作っていた。そこに焚火が一つあった。
焚火の周りにあった三つの影が、こちらを認めて立ち上がる。
デイビアはその仕草に、ただならぬ感じを覚えた。相手は決してこちらを友好的には見ていない。
エステラがデイビアを見る。デイビアより背丈がいくぶんも高い彼女は、落ち着き払った目で彼を見る。
「大丈夫ですよ」
影らは焚火から、それぞれ一つずつ長さの違う薪を取り出した。それをこちらに翳しながら、素早く近寄ってくる。その火の明かりから、影の姿がより明らかになった。体は小柄、手は長く細い、鼻は前に伸びていた。全体的に酷く醜い生き物だった。
これがゴブリンか、とデイビアは思った。半歩下がって、エステラの背中の陰に半身を隠すようにする。そんなデイビアをエステラは見て、次に二人の前を囲んだ三匹のゴブリンを見た。冷たい声を放つ。
「下がれ醜い小鬼ども。お前たちの前におわすのは、新しい魔王様だ」
その言葉を理解したのか、一匹が顔を横に振り向け仲間と目配せした。ゴブリンは顔を戻した後、げらげらと気に障る声で笑った。
「魔王は死んだ! 魔王は死んだ!」
「お前らはばか!」
「もうすぐおれらの餌にならあ!」
三匹は言いながら、腹をおかしそうに掻きながら足を躍らせていた。
ねえ、とデイビアは背後からエステラに話しかける。エステラはデイビアに目を配る。手で任せて、と意を示す。
エステラは冷たい視線を三匹に向けると、手を翳した。一匹がぴたりと動きを止める。嫌らしい目は、訝しむ様子を見せた。
「まずは一匹」
言うと、彼女の手が閃く。
エステラの正面にいたゴブリンが赤い炎に包まれた。それは叫び声を上げながら、踊るように足をばたつかせて悶えた。暗い部屋の中で、彼自身が一つの照明となって転がっている。
残りの二匹は驚いた様子で、一瞬で今までこちらを馬鹿にしていた様子を消し去った。照明を放りだして、それぞれ逃げようと別の方向へ走り去ろうとした。エステラは両手をそれぞれに向けた。すると、彼らの体が宙に浮いた。彼らは体をばたつかせて、よじり、逃げ出そうとするが、空中で虚しく手足が泳ぐばかりだった。足元には棒切れの照明が転がっている。
エステラは両者を眺めて、一匹に視線をやる。やるや否や、そのゴブリンの首がねじれる。高い悲鳴を上げた。声はすぐにぷつりと停まる。どさりと体が地面に落ちた。
デイビアはその光景にはっとして、エステラを振り仰いだ。彼女は既に残ったもう一匹の方を見ていた。「あれに首領のもとへ案内させましょう」
エステラは視線をゴブリンに戻し、歩き始める。デイビアはおずおずとその後を追う。
宙で怯えた様に体を動かすゴブリンの横を、エステラは一歩回って、その顔を見る。ゴブリンは眼を見開いて、エステラの顔を見た。エステラはただ立っていただけだったが、ゴブリンの首は、その緑色の皮膚がどんどんと上へ押し上げられているようだった。まるで見えない手に首を絞められているようだった。
ゴブリンが悶えて、眼を上転させる直前、その体が地面に落ちた。その際、腹から苦し気な声を漏らした。ややあって、立ち上がる。その顔にはもはや嘲りの表情はなく、完全な怯えがあった。
「おれ……おれ」
ゴブリンは歯を震わせながら言う。エステラは指を立てて、それの口の前に翳した。
「しっ。余計なことは言わなくてよろしい。もう二度とは言いません。あなたたちの首領に合わせなさい。わたしにはこの迷宮のことが手に取るようにわかるのだから、あなたたちの首領がすぐ近くにいることも知っています」
ゴブリンは恐る恐るといった様子で、おもむろに頷いた。