1 熱射
セベルクの第三期、四百十五年三月二十八日、サネイルの地にて魔王倒れる。神聖王国の女王の呼びかけにより集まった同盟軍総勢六万人が、サネイルの魔王のダンジョンに攻め入って三週間目のことだった。魔王はありとあらゆる魔法を尽くして軍勢を苦しめたが、とうとう滅んだ。魔王の死によってダンジョンの崩壊が始まった。既にダンジョン奥深くまで進行していた軍勢は即日退去を敢行し、崩落を免れた。諸国はこの報を魔法の知らせにより同日中には聞き及び、全ての市民が快哉を上げた。ここに諸国を苦しめた悪の魔王は倒れ、平和の時代が訪れようとしている。
セベルクの第三期、四百十五年七月十五日、アロフォスの地にて異変あり。小規模のダンジョンの発生を知らされる。
――デイビアは工具を家の裏の収納箱に戻そうとしたとき、ふと視線を家の裏手の空き地の方へ向けたまま止めた。
デイビアは今年十五歳の少年だ。
デイビアの家の裏手は草が荒れ地で、地面は軽く隆起したり窪んだりしている。さらに奥には森が見え、それがデイビアの家とその周囲の大きく囲もうとする形で伸びている。デイビアの家は三方を森に遠巻きに囲まれていた。その空き地の浅いくぼみのそこに、翳りを見つけたのだ。季節は夏、雑草は生い茂っていて背が高い。見間違いかもしれないが、なんとなく気になった。
デイビアは首を傾げてから、工具をとりあえず箱へ投げ込み、家の裏手を進んだ。
「なんだこれ」
言いながら、やはり首を傾げる。
窪地は浅く広いものだ。これはずっと前からある、ような気はする。だがその底が、まるで蓋を抜かれたように黒々とした穴を見せていた。穴の大きさはそれなりにある。天気は快晴、太陽が燦燦と照っていた。デイビアが穴を覗き込めば、さらに下に、自分の影とその周囲の茶色い地面が闇の中に照らし出されていた。
(この穴の中には空間があるんだ)
デイビアは穴の周囲をよく観察する。この穴は明らかに異質のものだった。穴と窪地の底との境の、底穴の円周部分の土は薄い。デイビアは窪地に足を踏み出し、そこを手で触れてみた。すると薄い土がぽろっと崩れて穴がほんの少し広がった。デイビアは慌てて窪地から出る。これほど薄いなら地面が引っこ抜けて、落ちてしまうかもしれないと思ったのだ。
デイビアは窪地を上がって思う。
(だけど、ここを降りたときの足の感覚は、別に普通だった。薄っぺらい土の上を踏みしめたなら、嫌でもわかるけど……)
デイビアが思うに、確かに空間はあるらしい。それがどれほどの大きさかわからないけど、そこからこの窪地の底に細い穴が伸びているのだ。――そういう陥没の仕方が、あるようだ。だからこの感じだと、この周囲はおろか、まさか家まで地面の下に落ちることはなさそうだ。
おかしな穴、とデイビアは思い、息を吐く。
デイビアは家に戻り、昼食を済ます。ジャガイモと野菜を使って昼食を作った。いざ数皿をテーブルの上へ並べてみると、デイビアは少し誇らし気になった。見る人が見れば、この食事も貧相だと思うだろう。だがデイビアにとっては、とても美味しそうに思える。
デイビアの両親は三年前に他界した。良い二人だったが、病には勝てなかった。まず母親が病んだ。父親はその看病をしている最中に病が移ってしまった。デイビアは母親が止んでから、家族ぐるみで付き合いのあった他の家へ事情を話して移してもらっていたから、詳しい様子は分からない。だが父親から母親の死と自分がそう長くないことを知らせる手紙が来て、その指示通りに時間を置いて、家へ再び帰ったとき、デイビアが見たのは家の裏手の丘の上に作られた母親の墓と、その墓に寄り添う形で生えていた木で首をくくっていた父親の姿だった。
「ごちそうさまでした」
デイビアは皿を片付ける。柱にかかった古いがらくた同然の掛け時計は、時刻を十二時三十分に刻んでいた。
デイビアはまだ若いながらも大工の親方のところで修行をしている。手元、と呼ばれる雑用のようなものだが、それでも職人連中の一味には違いない。そこはデイビアの父親がもともと頭領をしていた場所で、父親の死後、後を継いだ人間がデイビアに良くしてくれているのだ。
普段なら現場で昼食をとり、さあもう一働き、と言ったところか。だが今日は午前中で仕事が終わってしまったから、後は暇なだけだった。
そうすると、ふと家の裏手のあの穴のことが気になり始めた。食事をとり落ち着いてみると、ますます変な穴に思えてきた。
覗き込んだ感じからすると、穴の底に空間が広がっているようだった。おかしな話だ、とデイビアは思う。地面が落ちることがある、というのは、なんとなく知っている。だが落ちるということは、落ちた分だけ下に下がるということではないのだろうか。だからあれは、単純に地面が陥没したというより、もともと空洞が下にあって、そこへ地面の一部が落ちてそれが発覚した、ということだろう。
だとすれば陥没はますます拡大するかもしれない。下に空洞がある分だけ、地面が落ちるかもしれないのだから。
そういう心配と、そもそも空洞があるのがおかしい、という気持ちが両立した。
デイビアは食卓の椅子の背に体側をもたせ掛けて、脚をぶらぶらさせる。
「ありゃ、なんかなあ」
見て見たいけれど、怖い気もする。うーん、と唸りながら考えていた。
デイビアは一歩踏み出し、穴の底を確認する。陽光は燦燦と照り付け、痛い程光っていた。
こうしてみると、穴の底まで案外ない。三メートルか、四メートルか、といったところだった。落ちて死ぬことはなさそうだけど、這いあがっても来れないだろう。やはり怖い。
デイビアは前のめりになっていた体を戻し、帰ろうとする。穴の縁で踵を返そうとした時、縁が崩れた。デイビアは足の下が抜ける感覚を覚えて、次に背後へ倒れる際の、ふわっとした感覚を覚えた。
――目が覚めると、デイビアの頭上には少し歪になった穴の形が、白い光となって闇の中に浮かんでいた。デイビアは眼を眇める。しばらくすると、やはり自分が地下に落ちていて、あの上の光は外の光なんだと気が付いた。
「痛い……」
言いながら、身体を捩り俯けになり、地面に手を突く。腰から背にかけて痛みが走る。
デイビアは家の中で悶々とした挙句、とうとう好奇心に負けたのだった。
デイビアはしばらく蹲った。
痛みを感じながら立ち上がり、上へ叫ぶ。
「おーい!」
「誰か、助けて!」
「誰か――」
何度も何度も叫んで、デイビアは疲れて座り込む。目の前に壁があったので、そこに背をつける。
目の前には上の丸い穴の形が、光となって地面に降り注いでいた。そこだけ明るく、地下の土の色から微かな起伏までありありと映し出されていたが、その周囲はぼんやりとして、さらに周囲は完全に闇の中にあった。
デイビアの家の周囲には何もない。自分の家がぽつんと立ち、周囲は草地が広がるだけだ。ただ少しだけ離れたところに幼馴染の家があるくらいか。幼馴染のネルは、よくうちへ来る。……このことに気が付いてくれるだろうか。
デイビアは少しだけ泣いて項垂れた。
「これ、どうするんだよう」
またしばらくそこで顔を立てた膝の間に埋めて過ごした後、立ち上がった。
デイビアはとりあえずもう一度叫ぶことにした。
「おーい! 誰か……」
言葉の最後は絶望で尻すぼみになってしまった。
デイビアはこの地下に続く洞穴の奥を、見るともなく見た。すると、奥にぼんやりと光、のようなものが見える。それは明かりというにはあまりにも心許ないが、そう思えなくもない程の、淡い照明の影。そんな気がする。
デイビアはつい息を呑んだ。背後の方を見る。そちらは完全な闇だった。
デイビアは視線を戻し、深呼吸をする。恐る恐る、足をそちらへ向けていた。