◇“報いの森”伝説
ようやく死後の世界に導かれたと確信したカメレオンに、無情な現実が突きつけられる。
白い世界を見渡せば、白壁とリノリュウムの床で覆われたただの病室だった。窓に嵌められた鉄格子から閉鎖病棟に収容されたことをすぐに理解したはず。
「なぜだ!」
途端に、生き延びていたことへの絶望感から絶叫した。
「運がよかったのさ。急所を外れたんだよ」
医師の無慈悲な温かい言葉に怒り心頭に発し、また恐怖心がもたげてくる。魔物の赤い目を恐れた。
ベッドの中で恐怖と戦いながら長い時間をやり過ごし、幾分心の安定を取り戻した矢先、突然、目前に現れた小さな靄の中心が裂け、二つの真っ赤な炎が猛烈な勢いで彼に襲いかかる。彼は病室の隅へ避難するも、魔物は執拗に追ってくる。
死ねない恐怖と過酷な苦痛を、永遠に抱えて生きねばならない呪われた現実、それが、罪深いカメレオンに課された“報い”なのだ。
*
“報いの森”伝説には枚挙にいとまがなく、多岐にわたる。その中でも特に興味深い事例を紹介しておこう。
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【大学生男女四人組の場合】
森の中の神社付近のどこかに洞窟への入り口が存在し、ひとたび中に入れば二度と出られない、という噂が兼ねてよりまことしやかに飛び交い、若者中心に話題をさらっている。
これは、大学生男女四人組『桜・奈々・一郎・広志(何れも仮名)』が肝試しゲームを敢行した時の体験談である。
肝試しといっても、ペアを作って二手に別れ、一方は東口からもう片方は南口から丁度中間地点である橋の真ん中を目指して深夜の森を歩くだけである。藪中に迷い兼ねない北口から目指すのは非現実的なので、彼らは南口と東口を出発点に決めた。
まず、同性同士に別れ、赤と黒のそれぞれ二枚ずつの丸シールを無作為に掌に貼り、色が合致した男女がペアになる。次に、ジャンケンで勝ったほうのペアが好きな始点をきめる。結果、勝利した桜と一郎が東口を選んだ。負けた広志と奈々は公園沿いの集会道路を渋々南口へ向かう。
スマホで連絡を取り合いながら、互いの始点に到着したことを確認すると、スタート時刻を午前二時に決め、時間が満ちた瞬間にスマホを切ってそれぞれ目的地へ向け園内に入った。
南口から西口までの地図上での直線距離は数百メートルに過ぎないが、小高い丘を越えなければならないから実際は一キロメートル程。森林公園南口の噴水広場から坂を上ると間もなく、暗いながらも左手に鳥居の影が見える。鳥居から数歩だけ行くと短い石段があり、少し目線を上げれば小さな祠が威厳たっぷりに鎮座する。
広志と奈々ペアがそこに差しかかった瞬間、突風に襲われ、転がるように鳥居を潜った。石段の下に両手両膝をつき、起き上がってお互いの無事を確認し合い、ふと祠の方向に目をやった。と、一方向に向かって吸い寄せられてゆく影が見えた。凝視して観察してみると、あらゆる方角から光が一点に集約しているように見える。丁度それは、円錐の形をして中心に向かいグルグルと渦を巻いているようだ。
広志は、その場を離れようと奈々を促したが、何においても好奇心旺盛の奈々は、行こう、と目配せして一人でその現象の傍へ向かった。仕方なく広志も奈々の後を追う。
奈々が現象の正面に立ったと思ったら、たすき掛けで肩にかけている奈々のショルダーバッグが浮かんで吸い寄せられそうになる。彼女はどんどんそちらに歩み寄る。広志は奈々の腕をつかんでその行為を阻止しようとした。が、彼女が一歩踏み出した瞬間、奈々の体は萎みながら現象の中心へと吸い取られた。奈々が消えたと同時に現象も止んだ。奈々の腕をつかんだ広志の掌は虚空を握り締める。
辺りを見渡しても闇が支配するだけで、奈々の気配はどこにもない。広志の頭は混乱を来し、半狂乱に叫びながらひとり目的地へ向け全力疾走した。
やっとの思いで西口の遊歩道入り口へ出ると、広志は一目散に橋を目指す。
橋が視界に入ってくると、喘ぐように足を速める。袂まできて、橋の中央に人影を見つけ、桜と一郎だと確認した瞬間、胸を撫で下ろした。鉛を履いた足は思うように進まなかったが、最後の力を振り絞って二人の元へ急いだ。
ようやく橋の中央で二人と合流して声を振り絞ったらそのまま飲み込む羽目になった。目の前の光景に驚愕した。二人の背後に異様な影を認めたのだ。
桜と一郎ペアが何事もなく遊歩道を進み、橋の中央付近で湖面を覗いたら、水面に波紋が起き、その中心から光が昇って一瞬で消えた。その不可思議な現象に呆気に取られたままいっときすると、突然背後から声をかけられた。振り向くと、奈々が不思議そうな面持ちで立っている。
「あれ……あたし、なんでこんなとこにいるの?」
方々に目を向け、奈々は首を傾げるばかりだ。
そこに広志が血相を変えて現れた。
広志は、奈々が消えたことを告げようとしたら、消えたはずの奈々が立っていた。わけもわからないまま、奈々の傍へ行き、その肩をつかんで揺すりながら、無事を確認する。
「大丈夫よ。さっきまで、あの神社の前にいたわよね……」
広志は皆に、自分が目撃した事の顛末を聞かせてやった。が、桜と一郎は取り合ってもくれないし、当事者の奈々ですら寸前に起きた現象について全く記憶にない始末だ。そこまででこの肝試しゲームはお開きになり、西口門へ出て解散の運びとなった。
解散した後も広志は、奈々につきまとって問い質し続けたものの、煙たがれるばかりで、結局そのまま別れ、帰途に就く羽目になった。
後日、彼が再びあの場所を訪れた午後には何も起こらなかった。その場所には巨大な岩が居座っているだけであった。
その後、広志君は、自分だけが未知の現象と遭遇したモヤモヤを心の中に飼い続け、本誌の『“報いの森”伝説事件』の企画を知ってわざわざ編集部へ赴いてくれたのである。
「あの岩が洞窟への入り口を塞いでいるんですよ、きっと。重力異常が起こっている。それも桁外れの。地下に高密度の重い物体でも埋まっているのか、そこだけ重力が強いのです。光さえも落ちていってしまうくらいの。“曲吸光現象”と僕は名づけました。つまり、光を曲げたり、吸収する現象です。極小のブラックホールかもしれません。それが、湖に繋がっている。湖面の波紋の中心が抜け道なんですよ。つまり、それがホワイトホールなんです。神社付近の洞穴から湖面まで、ワームホールで結ばれている。そこを通れば、自由に時空を移動できるのではないかと僕は考えています」
彼は、真剣な面持ちで捲し立ててきて、編集部スタッフ一同を煙に巻いた。
だが、この現象は、次の事例とも関連するのかもしれない。
【少年A(12歳)の場合】
両親の愛情を一身に受けて育った少年Aだったが、父親の不慮の事故死直後から不幸が始まった。母子家庭となって収入源は絶たれ、微々たる生命保険金だけでは生活もすぐにままならぬ状態に陥った。我が子に少しでもいい暮らしをさせたい母親は、がむしゃらに働いた。そんな生活が五年続き、過労とストレスがたたったのか、胃がんを発症した。病院にかかった時には既に末期の状態と診断され、医師から余命宣告を受けると、絶望の中、幼い我が子の手を引いて森に入った。
「私が死んだ後、どうかこの子に幸福をお与えください」
橋の欄干に肘をついて手を組むと、涙ながらに祈り続けた。
と、湖面に波紋が立ち、水の輪の中心から光が天を目指して昇っていった。どこからともなく耳障りな音がして一瞬で止んだ。気づけば目前の光も消え、凪いだ湖面に戻っていた。
「五年の猶予をやろう。寿命を悔いなく使え。お前の子は必ず幸福の元へ導くと約束する」
声がしたわけではないが、あの一瞬の耳障りな音の中に聞き取った言葉だった。
母親は、命尽きるその日まで、我が子に精一杯の愛情を注ぐことに決意した。それを形見とするのだ、と。
あっという間に五年の歳月は流れ、入院生活が続いていた母親は死期を悟ると、病院を抜け出した。12歳に成長した我が子を連れ、再び森へ入る。橋の欄干から湖面を覗きながら、手を合わせた。また、声を聞こうとしたが、今度は何も起こらない。長い時間が経ち、諦めて東口へ向け橋を渡り切ると、前方から白い光がやってきて、親子を包み込んだ。
「約束どおり、この子を幸福の場所へと導いてやる。もう思い悩むことはない。心穏やかに旅立てばよい。これがお前への報いなのだ」
幸福感に満たされながら、我が子のほうを見た瞬間、つないでいた手が解かれ、すうっと滑るように白い光に吸い寄せられてゆく。母親は涙を流した。悲しみの涙ではなく、安堵の涙だ。自分が死んでも我が子に安寧がもたらされると確信したのだ。そして、白い光とともに我が愛しい子も消えていた。それを見届けると、きびすを返し、病院へと戻った。
それから、少年がいなくなったことが知れ渡り、大捜索が始まった。森の中に入った捜索隊のひとりが、橋の袂を過ぎた辺りで少年が履いていたと思われるスニーカーの片方を見つけた。が、少年の足取りは、そこで途絶えて、結局見つけ出せはしなかった。母親に確認をとったところ、少年が履いていたスニーカーに間違いないことがわかった。世間の目は厳しく、余命いくばくもない母親が一人残される子供を不憫に思って道連れにしたとか、森の中で神隠しに遭っただとか、無責任な噂が飛び交った。
母親は、我が子と別れた日からひと月後に病院のベッドで静かに息を引き取った。その顔は実に穏やかで幸福な面持ちだったと、担当の看護師は証言している。
ベッドの枕元にあった日記に事の顛末が記されていたが、誰もが、子供を失った母親の妄想だと疑わなかった。最後の日付は、旅立つ当日のものだ。ここに掲載する。
『 2024年8月24日 快晴
今朝、夢を見た。
あの子が、立派に成長した姿で夢枕に立った。
少し風変わりな衣装を身につけ、長い髪を結っていた。
弥生の丘公園で見た弥生人の絵と似ていて、どこか、古代風の雰囲気で目の前に現れてくれた。
私は両手を合わせ、不甲斐ない母親を持った我が子に詫びた。
「お母さん、ぼくは幸せだったんだよ。僕を受け入れてくれた親切な仲間たちに囲まれて……」
息子の言葉が、じかに魂に染み込んできた。
そうして、あの時履いていたスニーカーの片方を胸に抱いて、私の前から遠ざかり消えていった。
目を覚ますと、私は歓喜の涙を流していた。
枕元のスニーカーを思わず胸に抱き締めた。
最後に我が子と再会した喜びを抱いて、あとは旅立ちの瞬間を待つだけだ。』
母親が死んだその日、2024年8月24日、森の頂の天文台建設予定地から弥生時代中期の豪族の甕棺墓が発掘された。かなり身分の高い人物が葬られているらしい、とメディアは挙って報道した。
報道だけをみれば、何の変哲もない古代遺跡発掘のニュースに過ぎないが、これには隠蔽された真実がある。
発掘にあたった在野の考古学者の一人、H氏によれば、棺に納められていた人物は成年男子で、奥歯の一本には治療痕があり、合金が詰められていた。また、副葬品が何とも奇妙で、ガラス製の瓶。用途は不明だが、現代のコーラ瓶に似た、否、コーラ瓶ソノモノの形だった。しかも、土の中からプラスチックの欠片が見つかっている。最もH氏の興味を引いたのは、あるものを大切そうに両手で抱き締めていた姿だ。あるものとは、スニーカーのような形でゴム製だった。一連の証言は、匿名を条件に得られたものだ。
奥歯の詰め物もガラスもプラスチックもゴムも古代には当然存在しない。誰かによって故意に埋められた形跡もなく、これこそオーパーツである、とH氏は首を捻るばかりであった。
【国立K大学文学部哲学科教授の日記】
教授は、子供の頃から日記をつけるのが習慣で、欠かしたことはない。
『 1977(昭和52)年8月24日 快晴
机にかじりついてデカンショ(※注)に明け暮れ、机上の空論を戦わせるのにも飽きてきたので散歩に出ることにした。
気まぐれに森へ入り、野鳥の囀りに歩調を合わせながら思索に耽っていると、老人と擦れ違い様、いきなり、声をかけられた。
「ソソソクラテスかプラトンかニニニーチェかサルトルか、みーんな悩んで大きくなった♪」
などとCMソングを浴びせかけられた。
自分の心境にピッタリだったものだから、私は思わず吹き出した。
何ともユーモアに溢れる老人だろう。
脳裏に焼きついた野坂昭如の風貌を老人に重ねつつ、笑みを返す。
「若い時分は大いに悩みなさい。いつか報われます」
老人の温かい励ましに私は素直に頷いて、こちらも返礼にはなむけの言葉を送った。
「あなたは、明日で悩みから解放されるのですね」
なぜかはわからないが、自然と口を衝いて出た言葉だった。』
(※注)デカンショ = デカルト、カント、ショーペンハウエルの略。
定年退官後の教授は、大学生の頃から親しんだこの森を散歩するのが日課になった。
『 2024(令和6)年8月24日 快晴
遊歩道を歩いていると、若者と擦れ違った。
ああ、私も彼のように若かりし時代があったのだ。
ふと、老人と出くわした時の光景が目に浮かぶ。懐かしい。
私は、老人が放った言葉をそっくりそのまま若者に手向けてやった。
と、返された言葉に驚いた。
老人にかけた言葉と全く同じだった。
私は帰宅して、鏡を覗いたその風貌に愕然とした。
あの時に出会った老人が鏡に映っていたのだ。
さっき会った若者は、若い頃の自分だと気づいた。
「あなたは、明日で悩みから解放されるのですね」
そう、明日で全てが終わり、報われるのだ。
私は悟った。』
日記は、この日で途絶えている。翌日、ようやく思索に明け暮れた人生の終焉を迎えたのだ。享年77歳。
教授はゲーテや芥川のようにドッペルゲンガーと遭遇してしまったのだろうか。
【本誌スタッフ(28歳)の場合】
本事件取材中の出来事である。
カメレオンの足取りを辿って、バイクで事件現場から森林公園の西口まで行き、園内へは自転車以外の車両全てが進入禁止なので、バイクは置いて西門を潜った。一旦ベンチに腰を下ろし、休憩をとってから遊歩道を歩いてみることにした。
日々の疲労からか、ついウトウトして気づいた時には陽は傾きかけていた。と、気配を感じ、横を向いたら、絶世の美女が座っている。微笑みかけられ、「さあ、立って、行きましょう」と手招きして誘ってきた。
根っからの女好きの彼は、ノコノコついていった。
遊歩道を東口へと向かう。
女に追いつこうと歩を速めても、女も歩調を合わせて距離を保とうとするので、追いつくことは叶わない。
例の橋に差しかかった時、女が橋の中央で止まり、手招きする。彼は橋の袂から一気に駆け寄ったものの、女との距離を詰めることはできないのだ。
次第に陽は傾き、夕闇が迫る時刻が近づいていた。
「わたしに追いついて、そしたら、わたしはあなたの思うがままよ」
彼はその言葉に奮起し、最早脱兎のごとく突き進んだ。
しかし、彼が女に近づこうとすと、途端に苦痛が全身を駆け巡る。刀葉林(刀で出来た林)が目前に立ち塞がろうとも、欲望に駆られた彼はお構いなく、女を手に入れることに躍起になる。
女に手が届いたかと思った瞬間、女はどういうわけか、背後の遥か彼方に移動していた。
こんな攻防が永遠のように繰り返され、ようやく彼は、あの女は自分のものにはできないことを悟った。そして、全身を切り裂かれた苦痛に耐えきれず、その場にくずおれた。
気づけば、ベンチに座っていた。辺りを見回すと、陽は高く、短い影を落としている。
夢から覚めた彼は、遊歩道を東口目指して行こうと立ち上がった瞬間、右足の親指の付け根に激痛が走り地面に倒れ込んだ。夢の中の苦痛が現実に再現される。
長い時間が経ったものの、激痛は全く軽減せずに続いた。仕方なく取材は諦め、這うようにバイクの元まで進み、必死の思いで帰途に就いたのだ。
「やはり、カメレオンの手記には信憑性があります。わたしは、カメレオンに共感を覚えました。何せ、同じ経験をしたのですから」
激痛から解放された彼が、編集部に顔を出して開口一番、捲し立てた証言だ。
彼の妻は家を出て行き、現在、離婚調停中だ。原因は彼の不倫にある。人妻をその夫と子供から盗んで、不倫の挙句、思い余った相手方の夫が妻を道連れに心中を図ったのだ。彼が殺めたに等しいと責められても弁明の余地もあるまい。残された子供が憐れだ。
彼の体験は、まさに“衆合地獄”そのもの。
「この足を見てください。あの森で美女を追ううちに刀葉林で傷つけられた証拠です。世にも怖ろしい地獄を確かに体験したんです。確かです」
彼は確信に満ちた面持ちで、靴下を脱いで素足をさらけ出した。親指の付け根が赤く腫れあがり、痛々しい。
しかし、病院で診断を下されたのは、高尿酸血症が原因だと。尿酸値10.0mg/dL。つまり、単に不摂生がたたった挙句の痛風発作に見舞われに過ぎない。それを、“報いの森”伝説に強引に結び付けようなどとは、かなり無理がある。
実際の体験だったと主張して憚らない“衆合地獄”の件も、彼みたいな無責任男でも罪の意識に苛まれた結果の夢物語であろう。
編集部一同にて、こんな言葉を彼には浴びせかけてやりたい。
「この、愚か者めが!」
※ 〈衆合地獄〉
殺生・盗み・邪淫(倒錯した性嗜好。妻、夫以外の性行為を行うこと)を犯した者の落ちる場所。
絶世の美女を追えば、刀葉林で切り裂かれ、美女に出会うことは永遠に叶わない。
【服役経験者(多数)の場合】
この事件の取材過程で、森林公園に立ち入ることを躊躇う年配者が多数いた。
「怖ろしい報いが必ずやって来る」
彼らは口を揃えて言う。
何れも報いは、森に一歩足を踏み入れた途端、その罪の軽重に応じて連続して訪れるようだ。苦痛は際限なく繰り返され、なかなか抜け出せぬ羽目に陥ったそうだ。詳しく事情を訊くと、大半が服役経験を持つ者だった。
【善人の場合】
また、ある老人は言う。「この森の中で、報われた」のだと。そして、その直後から幸せの境地に達し、順風満帆な人生を歩むことができた。若い頃より、人助けを旨として生き、言わば善行を施してきた人だった。
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以上はごく一部の事例に過ぎないが、それぞれの当事者に必ず“報い”は訪れ、それがこの森林公園を別名『報いの森』と呼ぶ所以である。いつの時代からか定かでなないが、人々は畏怖の念を抱いてそう呼ぶようになったのだろう。
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「オレが怖いか? オレはお前だ! ナニを怖れているんだ? 報いを受けろ!」
赤い目玉を覗きながら、カメレオン自ら放った言葉だ。恐らく自分の中の魔物に呟いている。魔物とはカメレオン自身が作り出した妄想の産物。森での死闘は、己の脳が起こした現象で魔物など存在しないのではないか。やはり彼の精神は破綻していて幻覚が見えたということか。
この点を踏まえて、仮説を立ててみることにする。
〈仮説1 : 解離性同一症(多重人格障害)〉
彼の中にもう一人の彼(人格)がいるとしたら──その人格こそが魔物。自分の中に潜む別人格(魔物)との格闘を自ら繰り広げていた。悪魔と天使の囁きのように。つまり、精神疾患のひとつ、“解離性同一症(多重人格障害)”なのではとの推測が生まれる。
この疾患が生じる原因は、小児期に圧倒的なストレスや心的外傷を経験したことによる。その生い立ちから鑑みると、ピタリと符合する。彼の幼い時分に受けた伯母からの度重なる虐待と殺害に至った経緯が、病気の誘発を促したと見ていいだろう。
〈仮説2 : 薬物中毒〉
何らかの薬物依存症が考えられるが、彼が薬物に手を染めたという事実は認められなかった。逮捕直後の尿検査でも、麻薬や覚醒剤はもとより、違法ドラッグや危険ドラッグといったものまで全て陰性を示した。
この薬物中毒による幻覚説も潰えた……かに思われるかもしれないが、ここで興味深い体験談を示しておくことにする。
【A氏(30歳。会社員)の場合】
Aさんの趣味は、昆虫採集。とりわけゾウムシ(甲虫類)には並々ならぬこだわりを持っていて、休日になると捕虫網片手に近隣の野山を散策して回る。
その日も、早朝から喜び勇んで出かけ、この森林公園に入った。Aさんにとっては初めての場所で、森の中は盛夏といえども涼しく、時間も忘れて虫捕りに熱中していた。遊歩道から大きく逸脱し、かなり森深く足を踏み入れた頃、どこからともなく芳しい匂いに鼻腔をくすぐられた。嗅いでいると何とも心地よく、気分も晴れやかになってゆく。増々上機嫌で、昆虫採集に励んでいたら、突如周りが暗がりになったことに気づいた。天を見上げても木漏れ日も届かない。ついさっき陽は南中に差しかかったばかりで、まだ正午前後のはず。と、目線の先の闇を見ていたら、半透明の波が揺らぎ始めた。中心から同心円を描くように徐々に波紋は広がり、突如縦方向に亀裂が入ると、眩い光が漏れてきたと思う間もなく、巨大なゾウムシが現れて話しかけてきた。虫好きといえども、さすがに怖れをなしたAさんは、じわりと跡すざった。しかしゾウムシはAさんに寄り添い続けるだけで、危害を加える気配もなかった。それどころか、互いの心は通じ合い、この上ない安心感と幸福感に満たされたのだ。
そして、やはりこの生き物が、この世で一番好きなのだと改めて感じた。生涯、虫の世界で生きようと決意した。会社を辞めたAさんは、子供の頃からの夢を実現するため、研究者の道へ進むことにした。そうして、彼はその道の権威として成功をおさめ、充実した研究生活を全うした。自分の人生はゾウムシによって“報われた”のだという。
あの不思議な体験の後、気がつくと、あたりはすっかり明るくなり、陽は高々と南中にあった。Aさんによれば、あれが、夢だとは到底思えない程、リアルだったという。夢ではない証拠に巨大ゾウムシの1メートル近い触覚の標本を見せてくれたのだが……やはり俄かには信じ難い。
この事例を検証してみると、森の中で何らかの作用が働いて垣間見えた幻覚。もしかすると、そういう幻覚作用が働く未知の植物でも棲息しているのかもしれない。例えば毒性の強いキノコ類の胞子を吸ったとか。
善良な者には幸福感を、カメレオンのように罪を犯した者に対しては罪の意識を増幅させる、そんな物質を放出している未知の植物の可能性を考慮してみる必要があるのではないか。
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本誌では、敢えて否定的な立場に立って──カメレオンの体験を現実ではなく夢幻として──検証を試みてきたが、現象を妄信してかかることも、あるいは逆に否定してかかることも、先入観という点では同質である。本来、科学的考察の正しい態度は、“ハテな(?)”であろう。現象をありのまま素直に受け入れたうえでの絶対的中立性が大原則なのだ。
カメレオンが体験したことは、現実なのか、あるいは悪夢という白日夢に過ぎなかったのかは、わからない。恐らく、科学の信奉者からは、一笑に付されることだろう。
しかし、事実か、もしくは彼の精神が破綻を来した挙句の単なる夢幻の世界の出来事だったとしても、己の為したことへの“報い”が訪れてしまったのは紛れもない現実であろう。
ここに接見した弁護士の談話を記しておく。以下は、本誌だけに語ったものだ。
「犯人の胸には爪痕、頭部には牙痕がくっきりと刻まれていた。しかも、傷は日を追うごとに増え、それに伴って憔悴し切った姿が、まるで手負いの獣、否、極限までの怯えた目と苦悶の表情は、地獄の彷徨者そのものであった。恐怖から逃れようと、幾度も自殺を試みたようだが、いつも何者かに阻まれるのだそうだ。彼は死に憑りつかれている。しかし、それは叶わぬ夢なのだ」
これは興味深い現象だが、どう解釈すべきかは、やはり読者諸氏に委ねることとする。
【闇への招待状】
ひっそりと、闇の中に迷い込んでみませんか?
あなたにも経験あるでしょう?
足掻いても足掻いても抜け出せぬ闇……
それは、あなたへの“報い”なのかもしれません。
善行には光、悪行には闇の“報い”が訪れる。
あなたはどちらを選択しますか?
それは、あなたの心次第!
今宵、異次元の扉が開かれ、ソノモノは目覚めるのです。
どうか、“無間地獄”にだけは落ちませんように!
〈了〉