◇死の予感と死にたがり
人生を精一杯生きた者にとって、この世に未練など存在しないのだろう。命の危機に瀕して──あくまで実体験だと仮定した場合──カメレオンとてそんな心境だったのかもしれない。殺しのプロという、常人には理解し難い行動原理だが、殺し捲ってきた達成感から己の死も自然な流れだと悟ったに違いない。四十二歳のカメレオンは、達観したように覚悟を決めると、魔物の正体を探り始める。
圧倒的存在感の巨体にもかかわらず、音もなくしなやかな身のこなしで猛進する魔物の実態は掴めないという。彼は熊だとは認識していない。やがて、“この世の屑ごとき人間臭いケダモノ(魔物)”に心を乱されてしまうのだ。
驚くべきことに、対峙した魔物への懐古の情を吐露する。それは恐怖心に勝るものらしい。赤い目に囚われ、まるで催眠でトランス状態に陥ったのか、常に冷徹な彼に似つかわしくはない。精神状態に異変を来していると見て取れる。
そして、自分の存在理由が、魔物の正体と関わるのだと言い切る。だから、正体を探るため、命がけの対決を選択した。いわば、自分捜しの死闘と受け止められよう。
やがて、死のにおいを嗅ぎ取った途端、魔物の僅かな気配をも全身で感知し得る程、彼の神経は鋭敏に研ぎ澄まされる。殺気が迫りくると、緊張を保ち、ポジティブに己のポテンシャルエネルギーを最高潮に上げる。勝利への栄光に向け、精神の復活を果たす。
赤い玉がうねりながら迫ってくる中、カメレオンは再び驚異的な精神力を見せつける。幾度も危機をかわすが、魔物の爪がシートにかかってしまう。と、右腕が切断されるまでトカレフを連射し、難を逃れる。
シートに張りついていた右腕の五本爪は、鎌のように湾曲して先端が鋭く尖り、その長さが20cm程。ヒグマでも6.5cm前後だから、尋常じゃない巨大さだ。体長90cmのオオアルマジロだと、一番長い爪は20cm近くあるが、熊のそれとも比較にはならないくらい脆弱だ。 専門家とて、それ程の恐るべき巨大な武器を持つ生物は認識外だろう。「こいつにやられたら、ひと掻きでお陀仏」なのは頷ける。
ほんの数秒程度の橋上での逃走劇は、生涯で初めての恐怖をもたらした。死闘を乗り越えたカメレオンは、一旦バイクを降り、千切れた腕を森に捨て東口へ向かう。東門まであと4、50メートルに迫った場所でバイクが故障し、足止めを食らうことになる。彼はバイクを乗り捨て出口へとダッシュした。が、数メートル行った地点で、さざ波の中から魔物が出現したので、バイクの所へ戻った。
抜け道も存在しない森で常に先回りして巨体が目の前に立ち塞がるのだから、彼も疑念を隠せない。やはり、一頭だけではそんな芸当など不可能だ。二頭以上の複数で行動している獣だと推測せざるを得ない。
バイクの故障は回復していたので、また西へ走行したものの、橋の中央で再びバイクは停まる。「万事休す」と彼は覚悟を決め、対決の時を待っていたら、あろうことか、森に捨て去ったはずの千切れた腕が首を締めつけたのだ。五本の爪に襲われ、命からがら首から引き離すと、ミンチ状になるまでトカレフで打ち捲った。この千切れた腕が、バイクの減速の理由だと彼は考える。まるでB級ホラー映画さながらだ。到底信じられるはずはない。
また、真っ赤な目玉が追ってくると、体当たりも辞さない覚悟で西口へとバイクを走らせる。案の定、魔物は前方から突進してくる。と、トカレフで攻撃を加えながら、生存をかけて彼も突進して行く。遂に激突の瞬間を迎え、地面に背を叩きつけられたあと、魔物は彼の体にのしかかった。
間近に見た魔物の描写が生々しい。
○目玉だけがギラギラと赤い閃光を放つ。
○毛むくじゃらの肢体は、黒い靄そのもので輪郭がつかめず、闇と溶け合うかのよう。
○彼と同じにおい。
○魔物の目──共感さえ覚える。恐怖と快楽をもたらす。彼への殺意。
どういうわけか、魔物に懐かしさや共感を覚えても、恐怖心も死への恐れさえも湧かないという彼の心情が理解できない。全くもって不可思議だ。
残った左腕の一本の爪で彼に対する残虐行為が始まる。胸の皮膚を剥がされる。深く抉るように肉を骨からこそぎ落としてゆく。解剖され続けた彼は、苦痛から逃れたい一心で、死を乞うという弱音を吐いてしまう。だが、魔物は彼の命を弄び続ける。
彼の心の叫び声が吐露される。
──一体、何がしたい!
──お前みたいな魔物に弄ばれる命などない!
──人の命は尊いものだ!
散々、人の命を弄んできたカメレオンが放つ言葉ではなかろう。彼の身勝手な性格がうかがえる。己の身に起きて初めて命の尊厳を知ったというのか、何をかいわんやである。
魔物は、一旦行為をやめたあと、再び赤い目玉を燃え上がらせ、今度は牙で臓物を貪り始める。
「頼む。トドメを刺してくれ!」
耐え難い苦痛から逃れたいとの願いもむなしく、却って魔物は残虐行為を楽しむ。
そこで彼は、トカレフで自殺を試みるのだが、魔物の手で銃弾は防御され、失敗に終わる。
彼に襲いかかる感情は、
○死にたくて堪らないのに死ねない辛さ。
○生き地獄を生きねばならぬ不条理。
これまでは、全能の神の座は、彼の独壇場だった。今、自分の命を支配できるのは魔物だけ。魔物が全能の神だと悟る。皮肉なことに、彼が被害者の立場に逆転した瞬間だ。
「死にたいよう。お願いします、殺してください。オレを苦しみから救ってください」
子供じみた祈りの声を魔物に向けると、覚悟を決めて最期の瞬間を待ち侘びた。だが、甲斐はなかった。魔物は、頭皮を剥がし、牙で頭蓋を噛み砕く。
「トドメを刺してくれー!」
懇願しても魔物は彼の命を弄ぶだけ。
彼の自殺願望はこうして生まれた。苦痛から逃れたいがための手段だったのだ。
この非現実的な魔物との死闘は、ここで終焉を迎えたかに思われる。が……
夕日が左頬を突き刺す──西日を浴び、死にたくて堪らないのに死ねない恐怖と苦痛に苛まれながら、正気を取り戻した彼は、西口付近の元のベンチに座っていた。まだ陽は陰っていない、つまり魔物に遭遇する前の時間帯に戻っていたということだ。彼自身、夢だったとの認識を持つ。余りにもリアル過ぎる夢であったので、全身を弄って傷を探すが見当たらないし、トカレフもホルダーにおさまっている。公園に入って吸った煙草の短い吸い殻も足元に一本だけ踏み消されていた。
風が立つと、熟れたザクロの臭気に気づき、魔物のにおいだと認識する。
釈迦が鬼子母神への戒めに、その子供を隠して悲しみを悟らせ、ザクロを人間の代わりに食べよと言い渡した伝説から「ザクロは人肉の味」とされた日本特有の俗説が思い起こされる。
数多の命を奪い、人の血のにおいを知っているカメレオンは、魔物に人肉のにおいを感じ取った。そして、ザクロのにおいを臭気だと表現している。それは、芳しいものではなく、嫌な臭いだと感じている証だ。死臭に引き寄せられるように血を好み、死を友として生きながらえてきたカメレオンの、死への願望に取りつかれてしまった挙句の心境変化がうかがえる。
カメレオンに震える程の恐怖が襲う。夢ならこれ程の怯えなどないはずなのに、と彼の頭は混乱傾向にあるらしい。夢と現実の曖昧な境界線を彷徨っているのだ。
──どういうことだ?
──オレ自身が変なのか、この世がおかしいのか?
──いや、オレは真っ当だ!
自身と世間を両天秤にかけ、己の行為の正当性を主張し始める。と、彼を否定する幻聴に襲われ、「嘘じゃない!」と反論する。単なる殺人趣味を、社会正義のための悪者狩りだと平気ですり替えにかかる。盗人猛々しい言い分に呆れ返る。身勝手極まりない。
幻聴との格闘後、夢を思い出しながらバイクで東口へと向かう。落日の橋の全景がヘッドライトに浮かぶと袂で停まり、夢に怯えて存在するはずもない赤い玉を探したのち、出発する。
何事もなく東口まできて蠢くものに気づき、バイクを急停車する。と、闇が破け、二つの赤い玉が彼に迫る。咄嗟に彼はフルスロットルで逆走。
夢幻だと思い込もうとした途端、前方から赤い光が突進してきた。全身が膠着状態に陥って、なす術もなく激突の道を選んだ。
また悪夢の再現。魔物は、カメレオンという生餌を喰らう。彼は死を求めたが、魔物は許さない。
「お前はナニモノなんだ?」
実態を探ろうと魔物に問うと、脳に直接囁きかけられた。
カメレオン自らが望んで別次元から呼び寄せた真の己の姿だ、と魔物は言う。
だが、彼は全否定する。死の恐怖は与えても、死ねない苦痛を与えずに確実に殺す。だから自分にはバケモノのような残酷さはない、と断言する。
魔物に魂をも八つ裂きにされ、苦痛から逃れようと死を懇願するが、決して受け入れてはくれない。
「早くトドメを刺しやがれー!」
そうして、死ねない恐怖に苛まれながら気がつくと、明るい場所にいて苦痛も全て消失していた。やっと死ぬことが叶ってあの世かと錯覚したが、彼はまたベンチに座っていた。
最早、彼には夢と現実の区別が分からない状態に陥ったようだ。
今、彼にとって生きるということは、恐怖と同居することなのだ。常に赤い目玉に監視され、死ねない運命に恐怖する。真の生き地獄を味わい続けなければならない。余りの苦痛から死の衝動に駆られ、トカレフで自らの頭を撃ち抜いたが、魔物に遮られた。恐怖で目を閉じ、目を開けた時には姿はなく、一発の銃弾が落ちていた。絶望が彼の心を支配する。
そして、誰かがやってくる気配に気づき、女子高生と警官に自殺幇助を求めた。警官が射殺し易いように、わざと的は外して発砲した。
〈女子高生の証言〉
「イケメンだった。見た目は、二十代後半から三十代前半だと思った。カッコよかった」
〈警官Aの証言〉
「わたしたちが駆けつけると、犯人は銃をかざしていました。こちらも迷わずホルダーからリボルバーを抜いたところ、天に向けて発砲したので、左手をしっかり添えて構えながら近づきました。そしたら『射殺してみろ!』とあおって、こちらに近づきながら四発立て続けに発砲したんです。一発目と二発目は左肩と右靴の側面を掠め、三発目は腰の拳銃ホルダーを吹き飛ばしました。四発目に警帽の右縁を掠めた瞬間には怯んで、銃を落としそうになりました。警察官として不甲斐ないのですが、狙いを定めることなど最早叶いません。あっという間の出来事です。これ程の名手は滅多にいません。射撃手としては超一流の部類です。わたしは、必死に銃を構え直して固まるだけが精一杯でした」
〈警官Bの証言〉
「それで、わたくしが、躊躇せず援護射撃をしたというわけです。犯人の右肩を狙ったのですが、胸元に当たってしまいました。射撃には自信はありましたが、実戦では思うようにいかなかった。反省する限りです。犯人はくずおれ、その場に倒れました。わたくしが、銃口を犯人に向けながら傍に近づいてみますと、いきなり『ありがとう……』なんて言葉を投げかけてくるんです。それも嬉しそうに満面の笑みですよ。瀕死の重傷を負わせた相手から、あんな幸せな表情で感謝されるなんて、正直、ゾッとしました。何かに取り憑かれたとしか思われませんでした」
──やっと死ねる!
──ヤツの目から逃れられる!
──これで苦痛とはおさらばだ!
こうして、胸部に銃弾を浴びた彼の希望は叶った。魔物の目から逃れ、死ねない苦痛から解放されることに安堵し、嬉し涙を流したのだ。