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◆第二の手記

 魔手がシートにのびる。長く鋭い鉤爪がガリガリと音を立てる。急にハンドルが軽くなり、操作性を失った。僅かに前輪が浮いたらしい。アクセルを吹かし加速すると、両輪はしっかりとアスファルトを噛んだ。

 赤い二つの光が、バックミラーから遠ざかる。その場に留まり続け、もう追いかけてはこない。

「──やっと諦めやがった……」

 寸でのところで魔手をかわした俺は、尚も加速する。

 バックミラーの赤色光は完全に消えた。

 バイクを停め、振り返った。注視しても闇の中に光源は認められない。少しだけ走らせ、車体を右に倒して反転させヘッドライトを向けた。が、巨体の影も映らない。再び逆方向へハンドルを切り、東口を目指してエンジンを吹かし続ける。

 かなりの引き離しに成功し、すぐにこの距離まで追いつくのは不可能だろう。安全圏まで逃げおおせて一応は安堵したものの、脳裏に焼きついた姿が目前の闇に浮かんだとたん、背筋に悪寒が走った。

「ナニモノなんだ?」

 数多の修羅場を潜り抜けてきたが、これ程ブルっちまったことはない。


     *


 東の出口に向け、バイクは唸りを上げ続ける。

 バックミラーには闇だけが張りついている。

 風が右頬を掠めた。微かなにおいが鼻腔に引っかかった。ほんの微かなにおいだ。いや、そんな気がしただけなのかも知れない。妄想が作り上げた気配というべき微細な空気の振動を皮膚が感知し、においの記憶が呼び起こされてしまったのだ。己の中から湧き出た臆病の虫の仕業だろうか。

「臆病風に吹かれただと。このオレが……か?」

 思わず自嘲した。

 それからしばらく経つと、木立の間を縫って黒い影が後方から前方へと流れた。直後、空圧が右耳の鼓膜を微かに振動させた。

 ──時速80㎞……

 スピードメーターが指し示した数字だ。が、相対速度で時速40~50㎞ぐらいで追い越された感覚だった。だとすれば……時速100㎞は軽く超えていたわけだ。

「あり得ねえ!」

 一直線のアスファルト上でもなく、密集した大木の間をくねくねと掻い潜って凸凹の土の上をチーターでも100㎞超えは無理だ。否応なく減速を強いられるはずだ。

 森に気を取られて、ふと真っすぐに視線を戻す。遥か前方に光が見えた。かと思ったら、闇に浮いた小さな赤い二つの点が次第に膨らむ。

「いや、そうじゃねえ!」

 それは、速度を増してこちらに迫ってくるのだ。

 咄嗟に減速する。バイクを反転させると、アクセルを全開にした。バックミラーには二つの真っ赤な光源が凄まじい勢いで接近してくる。いよいよ背筋は凍りついた。

 俺は、革ジャンの懐に右手を忍ばせ、ホルダーからトカレフを抜いた。左手に持ち替え、アクセルを吹かしながら、ミラーを睨みつける。

 闇の中にゴルフボール大の赤い光が上下に揺れる。ヤツは既にバイクのすぐ後ろに迫っている。

 銃口を後方へ向け、引き金を引いた。

 と、ヤツは唸り声を上げ、血飛沫を口から吐き出した。頬に生暖かい感触が突き刺さり、嗅ぎ慣れたにおいが鼻の奥を刺激する。ただ、何とも甘い味のする血液だ。これほど芳しい血は初めてだった。

 ミラーには赤い光源が映っている。怯んだかに見えたが、未だ諦める様子もなく、ヤツは再び距離を詰めてくる。

 俺はもう一度左腕を後方へのばした。自然と前かがみになって振り向きざま左の肩越しに赤い玉の間に照準を合わせる。今度は確実に狙いを定め引き金を引いた。

 一発……二発……。

 三発目の炸裂と同時に悲鳴のようなけたたましい雄叫びが耳をつんざいた。瞬間、前輪が少しばかり浮いてウイリー走行を余儀なくされた。ヤツの爪がシートにかかったのだ。

 俺は夢中でトカレフを乱射した。と、前輪は地面に吸いつくと、とたんに加速を始めた。赤い二つの光源もミラーから遠ざかって行く。

 このまま直進すれば自ずと西出口へと繋がっている。もう間もなくゴールは見えてくるはずだ。脳は勝利の瞬間を映し出す。俺は無我夢中でアクセルを吹かした。

 どうやら、森を出て一般道へ入るしか術はない。警察の目を掻い潜る策を頭の中でシミュレートした。

「あと少しだ……数十秒もすれば抜けられる」

 フーッとひとつ息を吹く。

 と、前方の闇が揺らめいた気がした。錯覚だろうか、目をギュッと瞑って見開き、瞬いて凝視する。

 目線の数十メートル先に靄がかかっている。靄っているというより、空間がさざ波を起こしているように見える。

 しばらくすると、石礫を投じた水面同様に中心部分から波紋が広がった。次第にさざ波は失われ、空間の裂け目から実体が露になり始める。視線を少しだけ右へずらし、視界の端を掠める存在の動きに神経を集中する。やはり闇の中で何かが蠢いている。錯覚ではなかった。真っすぐ見据えた。近づくにつれ増々その存在が大きくなってくる。

 バイクを停めて、いっとき闇中(やみなか)に開いたトンネルから這い出たソノモノと対峙する。

 西口付近にぼんやりと巨大な影が立ち塞がっている。赤い目玉はいよいよ輝き、こちらの動きを捉えて離れない。睨みを利かす仁王像のそれに似ていたが、これっぽっちも慈悲の心は感じられない。

「なぜだ!」

 わけも分からなくなって叫んでしまっていた。「忌々しいヤツめ! どこからどうやって先回りしやがった?」

 ヤツは俺の行動を見透かしてか、のっそりとした足取りで近づこうとする。

 トカレフを構えた。一度深呼吸をして、両の赤玉の間に狙いを定めて引き金を引いた。とたんにヤツも突進してきた。こちらも間髪入れずに連射する。弾は確かにど真ん中を撃ち抜いた。にも拘らず、ヤツは倒れるどころか、増々正気づいたように猛進するのだ。

 俺は慌てふためいてバイクを反転させようとして転倒しそうになり、寸でのところで持ちこたえ、体勢を立て直すとフルスロットルで逆走した。

 これでは、手玉に取られた袋の鼠だ。

「どうすればいい?」

 ひとつだけはっきりしていることは、ヤツから逃れるのは最早不可能という事実だ。だったら、それを踏まえて策を講じるしかない。()るか()られるか。腹をくくるしか選択の余地はなくなった。

 襲われるイメージが頭に過った。生まれて初めて味わう死の予感だった。

 死臭に引き寄せられるように血を好み、死を友として生きながらえてきたこの身。幾度となく殺しの修羅場を越えてきた俺が、殺される側に回るというのか。

「オレは死ぬのか? まあ、これも人生かもしれねえ……思い通りに生きた」

 腹は決まった。悟った俺は正面から対決する道を選択した。決心したからには最早慌てる必要はない。恐らく東口にバイクが着く頃にはヤツは先回りしていることだろう。「とんだイタチごっこだ」


     *


 中間地点までやってくるとバイクを停め、煙草に火をつけた。

 真夏だというのに森の中はひんやりとした風が頬に心地いい。街の喧噪も届かない。聞こえるのは風に騒めく葉擦れと、フクロウの鳴き声ぐらいだった。

 何と穏やかな心境なのだ。自分でも驚く。今から死出の道行に発とうかという、この期に及んで。己の馬鹿さ加減に呆れ果てた。

「──それとも……死を望んでいるのか?」

 そんな考えが脳裏を掠めた。


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