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2004年 2度目の九寨溝

作者: マボロショ

2004年のゴールデンウィークに、旧北九州空港発着の、妻子連れの旅の報告です。

九寨溝と黄龍を見て来ました。

新聞広告を見ていたら、北九州空港発着のチャーター便で、中国に行きませんかと書いてある。そのコースの一つに、九寨溝・黄龍を観光するのがある。しかも、4年前、私が行った時の半額くらいの料金だ。

それもそのはず、「九寨・黄龍空港が出来て、バスで10時間もかかっていた所を、飛行機で40分で行けます。

ぜひ、いらして下さい。歓迎します」と、州知事が、写真入りで述べている。 


前回、素晴らしい景観に感動した経験のある私は、家内に、「行ってみたらどうか」と勧めた。

家内は、私や弟から、トイレ事情の悪さ、料理に対する違和感などを聞いて、「中国には、絶対行かない」と言っていた。しかし、「あんたも行くなら、行ってもいい」と言う。私は、一度行った所へまた行くのは、勿体ないような気がして、「愛と2人で行ったら大丈夫だよ。添乗員もいることだし」と言ったが、結局、ちょうどフリーな状態だった娘と3人1室で、申し込むことになった。


4月29日、連休の間、留守番をしてくれるという次女夫婦と孫に見送ってもらい、予定より少し遅れて、午後2時ごろ、北九州空港を飛び立った。


右の窓際だったので、「洞海湾が見える」「遠賀川も」「あれは津屋崎」「九十九島だ!」「五島だ!」と

空の旅を楽しむ。雲が増えて、外の楽しみもなくなったころ、機内食が出た。軽く昼飯は取っていたから、さほど空腹ではなかったが、出されたものは残さず食べる主義の私は、ちゃんと完食した。


時差調整のため、時計を1時間、前にもどす。すると、上海に着いたのは、2時半ごろになった。

巨大な浦東空港だが、何もかもが滑らかというわけでもない。荷物をうけとったり、入国審査があったり、かなり時間がかかった。


次いで、バスでの移動だ。上海虹橋空港は、市街地の反対側、40キロも離れた所にある。

リニアが走るところをチラリと見たりしながら、高速道路を走る。


予定だと、成都に着いて、9時過ぎにレストランで食事ということになっていたが、飛行機の都合で、それには間に合わないかも知れない。それなら、上海で、おいしい料理を食べて行った方がいいだろう、ということで、豫園の一角のレストランに寄ることになった。

大きなレストランだった。現地ガイドの説明では、クリントン大統領やエリザベス女王も来たことのある由緒あるレストランだと言う。「それほどうまいとも思わんけどなあ」という声が聞こえたら、その近くの人が「メニューも違うんやないかねえ」と。なるほど。

私は、箸袋を、記念に持って帰った。赤地に、白抜きの隷書で「緑波廊」とかいてある。


上海虹橋空港からは、夜の中国大陸を西に横断することになる。しかし、ほとんど真っ暗な所ばかりで、下を見ても、面白くもない。

うとうとしている時、何か、中国語の機内アナウンスがあった。目を覚ましたついでに、窓の下を見たら、珍しく電気が煌々と輝いている所が見える。どこかの街かな、とも思ったが、ちょっと違う気もする。

あの光の形からすると、あれは揚子江イコール長江。飛行時間から考えると、ひょっとして、あの三峡ダムの工事現場を、おれは今、上空から見ているのではないか。夜も休まず、進められている国家的大工事。1人で興奮して、歴史的瞬間を味わった。

機内アナウンスも、それを教えてくれるものだったのではないか。しかし、中国で、そんな情報サービスなんか、してくれるのかなあ。


成都空港から、中心街のクラウンホテルまで、またバスだ。思っていたより快適なホテルで、ぐっすり眠れた。


4月30日


中心街から南へ。さらに、高速道路も走って、成都空港へ。


中型のプロペラ機を予想していたが、ローカル路線なのに、大きなジェット機だった。

乗客数も、予想よりは、はるかに多い。


離陸した飛行機の窓から見ると、田園地帯から、いきなり、雲の上だ。岷江の両側の、切り立った断崖などを、上から見てみたいと思っていたから、至極残念なことであった。


ヒマつぶしに、座席備え付けの、航空会社の宣伝誌を、パラパラと見ていたら、「九寨」という大きな活字が目についた。紅葉のころの、見事なカラー写真に添えて、この航空路線のことが、いろいろ書いてある。若いころ、中国語を少しかじったことがあるので、分かる部分もある。


九寨黄龍空港が完成したのは、2003年9月だと。その海抜は3447メートル。

長さ3200メートルの滑走路の北端から、1800メートルの所には、ちょっとした小山がある。

その他にも、海抜4191メートル、5003メートル、5579メートルの山が、空港から見て、「磁方位○○度、距離○○キロ」の所に、それぞれある、と書いてある。

ここまで読んだら、なんで、こんな危険な所に空港を作ったんだ、と思わずにはいられない。

まだ、続きがある。


この空港は、高原にあるから、気象条件が急変しやすい。9月20日の試験飛行の時も、着陸寸前、急に雪が降り出した。その雪を巻き上げて一番機が着陸した時、人々は、「吉祥の金風」のようだと言って喜んだ、とか。そんなもんじゃないだろう。


エア・チャイナの西南航空部門に所属する成都の6中隊の中でも、高原空港を含む路線の離着陸を経験した機長は64名。その中から、飛行時間などを審査して、21名だけが、この路線の機長として認められた。しかも、そんな機長が、一機に2名ずつ乗務する。機材も、新型の、エンジン出力の大きいものを用意した。


だから、安心だよ、という書き方なんだが、読むと、かえって こわくなる。


なんか、無理して作ったような空港だが、ねらいは、観光客を大いに呼び寄せようということらしい。バスの長旅をしないでよいから、中国東部や海外からも、中老年の観光客などが、このコースに来やすくなった。それが、四川省の他の観光事業などにも、大きなプラスとして働くだろう。

つまりは、今度出来た この路線は、「黄金線」、ゴールデンルートなんだ、と書いてある。


ねらいは、確かに当たっている。前回、いつ巨大な落石に見舞われるか分からないような道を、長いことバスに揺られた私は、今回、それがないとの 触れ込みに、まず、興味を持った。途中のトイレで、不快な思いをすることもないだろう。家族連れでも参加しやすくはなったと思う。

しかしなあ、宣伝誌に、ここまで書いてあると、かえって、なあ。


飛行機が高度を落として、雲の下に出る。あっという間に、着陸成功。


ここは海抜3500メートル。大声を出したり、走ったりすると、空気が薄いから、気分が悪くなるおそれもある。ゆっくり、行動する。荷物をバスに移して、そのバスで移動する。


空港の敷地、空港への接続道路などで、植木の手入れ、道路の補修をしている人の姿が目に付く。

その中に、チベット属か、羌族か、地元の女性が、派手な色、デザインの民族服で、スコップや鍬などを使っている姿も、かなり見かけた。新空港は、こういう形でも、地元の経済に、影響を及ぼしているのだろう。


バスは一旦 谷間に降りる。岷江の上流になる所だ。

川主寺という町の、はずれあたりから、また、上りにかかる。

あっ、ここは、前回、わざわざバスを止めて、写真を撮った長征記念館だな、と思ったのは

一瞬で、バスは、どんどん進む。カーブは多いが、きれいなアスファルトの道だ。

4年前、ここは、猛烈な土埃の舞い上がる未舗装道路だった。それが、今や、自分で運転したら楽しいだろうなあという快適なワインディングロード。

しかし、あの時、感動した雪宝頂、5579メートルは、雲で見えない。

雲の切れ間に、雪が残る山が見えたので、「あれじゃないか」と言ったが、現地ガイドは、「あれ、雪宝頂じゃない」と、はっきり断定する。


前回、青空トイレのため停車した、海抜4000メートルの峠近くには、いろんな山野草が咲いていたが、今回は、まだ、そんな季節ではないよという感じ。

前回と違うと言えば、道ばたに、携帯用酸素ボンベを売る露店が、やけに多い。

道路工事中、出来なかったことが、チャンス到来で、一気に爆発したものと見える。


石灰岩の作り出す、迫力のある、不思議な景観を、遠く、近く見ながら、峠を下る。


黄龍の切符売り場、入場口の、内外の様子、すべて、大変わりであった。駕籠屋が多いのにも驚いた。その上、しつこく、「乗れ、乗れ」と つきまとう。「プーヤオ(=不要)」と言っても、なかなかあきらめない。彼らから見れば、私たちに体力がないのは歴然としている。しかも、200元ぐらいは、持っていそうに見えるのだろう。しかし、携帯酸素ボンベを1人1本ずつもらってもいる。

なんとか、自力で登ろうと頑張った。


それにしても、前回は、すべての棚田に水が満たされていた。その青い水が、下の段に、さらさらと流れていて、絵はがきそのままの光景だつたのに、今回は水がない。ところどころ、たまっている水はあるが、ながれていない。そんな黄龍なんか、カッコよくは見えない。

大体、龍というのは、水の神そのものだというではないか。水不足の黄龍に、何の意味がある?

滝だった所が、ただの崖にしか見えない!


やっと、前回、私が、Uターンした、中腹の寺まできた、今回は、妻も娘もいる。酸素ボンベも、一つは、使い切ったが、もう一つ、残っている。じわり、じわりと進んで、やっと、黄龍寺の裏にある池を見られる最高点の展望所まで着いた。海抜3550メートルぐらいだそうな。

あえぎあえぎ、標高差450を、2時間近くかかって、登って来たことになる。


ここの池には、水がたまっている。青く光ってるいる。この色こそ、ここで見たかった色である。

「恋は水色」という歌がある。そういうブルーである。悲しくも、さわやかにも、見える。


あとは下るだけだが、集合時間ギリギリになりそうだ。「顔色が悪いから、愛を駕籠に乗せるよ」と家内が言う。下りは、180元でいいとのこと。チップも後払いでいい、と。それで、娘を駕籠に乗せて、その様子を写真に撮って、先に下らせた。


家内は、現地ガイドの呉さんと一緒に、少し先を行く、私は、後を追おうとするが、だんだん、おいて行かれる感じ、下山路は、林の中が多い。呉さんが、「ツツジ、ツツジ」と言うけれど、私にはシャクナゲに見える灌木が、かなりある。花は、まだ。葉で、シャクナゲだと思う。


わりと近くで、ピーピーと小鳥の声がする。登る時、呉さんに聞いたが、小鳥の名は知らないとのこと。下山路のゴミを拾っている、現地の少数民族らしい服を着た娘に、小鳥の鳴き声のマネを聞かせて、「シェンマ ニャーオ」と聞いてみたが、手を振って、知らないという感じだ。おれの北京語は、少数民族には通じないのかな、などとも思う。


駕籠屋たちが、おそろしいほどたむろしている間を抜けて、出口から出る。後で聞いたことだが、娘は、あの連中に囲まれて、チップが約束より少ないとか、皆から言われたとか。

「ないものは、ない」と、日本語で言って、振り切ってきたという。わが子ながら、大したもんだ。


川主寺まで戻り、土産物屋でトイレを借りる。ここのトイレは、昔風の、オープンなところが残っていた。家内に感想を聞いたら、トイレには行かなかったと言う。なーんだ。


また、岷江の川筋に沿って、丘を登る。なんか、岷江の上流は、砂利採取場みたいになって、川原に、砂利の山が、あっちにも、こっちにも、たくさんある。もとの、自然なままの景観の方が、観光には向いていると思うのだが、空港を作ったり、ホテルを作ったりするためには、膨大な量の砂利も必要になるのであろう。


時々、ヤクが、草を はんでいる。

ゆるやかな草原が尽きると、そこが分水嶺で、あとは、かなり急な下りになる。


前回、アスファルトが溶けていたあたり、われわれが立ち小便をしたあたりには、石作りの、小さなレストハウスみたいなものが出来ていた。そのほかにも、工事中のところが多い。黄龍への道に比べれば、確かに緑は豊かである。その緑の中を、降り出した雨をくぐって、ぐねぐねと下りて行った底が、九寨溝の入り口であった。本日の泊まりは、シェラトン系列の九寨大酒店だ。


玄関前の広場には、周りに巨大なトーテムポールが何本も立っている。その奥は、少数民族ショーの特設会場になっている。中国の少数民族にも、トーテムポールを神聖視するような風習があったのかも知れない。


新しい、清潔感のある、いいホテルで、泊まり心地は大変よかった。さすが、シェラトン!


しかし、売店で、DVDを2枚、100元に値切って買い、得意になっていたら、帰国後分かったことだが、中国で制作したDVDは、日本のプレーヤーでは再生出来ないのだそうだ。なんか、方式がいくつかあって、アメリカのも、ヨーロッパのも、日本のプレーヤーでは再生出来ないらしい。

家に帰って、再生出来ないから、サービスセンターに問い合わせて、やっと、その間の事情が分かった。

あの店員は、日本語ができるんだから、日本のプレーヤーでは、見られないということを知っていたのかも知れない。承知の上で売っていたとすれば、詐欺のようなものだ。しかし、「今は水が少ない、明日、がっかりするかも」とか、心配してくれていた。悪い人でもなさそうだ。世間知らずだったオレの方が悪いのか。…………


ホテルのテレビには、九寨溝の紹介のビデオがいつも流されているチャンネルがあって、2泊とも、ずっと、そのチャンネルにしていた。前夜は、予習のため、後夜は、復習のためであった。


5月1日


お目当ての九寨溝を実際に見て回る日だ。お天気も、よさそう。


九寨溝内専用の、天然ガスを使うバスは、ボディーに、パンダの絵を描いたのなどもあって、デザインが、前と変わっていた。お役所臭が消えて、垢抜けした感じになっている。最初に乗り込む場所も、前回とは、広場を挟んで、左右反対になっている。


超満員になる前に、ほぼ満席近くで、発車。


右手にチベット族の村があるところを過ぎたあたりから、盆景灘、樹正群海などが、次々に展開する。しかし、降りて写真を撮ったりするのは、すべて帰る時という予定。途中で降りたら、終点の長海まで行くのが大変という理由からである。納得。……しかし、老虎海に写った対岸の山の姿は、いわゆる逆さ富士のようで、ぜひ、写真に撮りたかった。さざ波一つなく、鏡のような水面に、絵葉書のような山容が写っていた。しかし、通過。

結局、帰りは、風が出て、波のため、この絶景には、再びお目にかかることは出来なかった。

残念至極である。


バスは別れ道を左に進み、下の季節海、上の季節海の傍を上る。季節によって水が貯まるから、季節海という。今は、水の少ない季節ということで、両方とも、干上がっている。前回は、半分くらいはあったのに。………


終点の長海の駐車場には、まわりにトイレのボックスなどが増設されて、だいぶ様変わりしている。少数民族の土産物を売る露店などが、うーんと増えている。

新しい展望台から見ると、最奥部が見えないほど長大な湖と、その周りの急峻なら山々が、確かにスイスのように見える。しかし、その展望台が、一番、しつこい売り手の多い所でもある。早目に集合場所に戻る。


傍の土手にヨモギがある。「これは、匂いが、日本のほど、強くはないねえ」「葉の形は、確かにヨモギなんだけどねえ」などと語り合う。


その下の五彩池まで、立派な遊歩道が出来ている。団体行動として、そこを歩く。


前回は、バスで五彩池の上まで移動して、下りて見たい人は御自由にどうぞ、ただし、帰って来る時に、無理をすると、高山病になりますから、注意して下さい、というコース設定であった。体力に自信のない私は、池の傍までは、下りなかった。その時、無理をした中国人の大男が、息も出来ないくらい弱っていたのを、この目で見た。


今回は、五彩池を、すぐ傍で見た。

水の色は、黄龍寺の裏の池よりは、濃く見えた。しかし、正直に言って、

もっと水が多ければ、もっときれいに見えるだろうに、と、思った。それより、これから、バス停に戻るまで、坂道を登れるかなあと心配していたら、ほとんど坂道を登らないでバス停に行ける道が出来ていて、ほっとした。


例の、Y字型の別れ道近くまで戻って、昼飯である。レストランの建物が、大きく、豪華に生まれ変わっていた。好きなものだけを選択出来るバイキング形式で、これも、ありがたい。


食後、土産物市場みたいなバザールを見て回る。売り物に、けっこう面白いものがあった。そっちは、家内と娘にまかせて、こっちは、巨大な吹き抜けの天井に、外からの光をうまく生かして、いろとりどりの無地の傘が、200か、300かというほど、花のように、きれいに並んで吊るされているのにしきりに感心していた。


午後は、別れ道を右に上る。前回、素晴らしいと思って見た諾日朗瀑布に、水が一筋も流れていない。ガッカリだ。

帰りに見たら、一筋だけ、向かって左の方に、水が落ちていた。ガイドが、「今、一筋、流れ始めていますね」と言ったら、ちょっと喚声が上がったが、オレは、本当に

「瀑布」をみたことがあるんだぞと、内心、誇らしかった。


バスは、右手に、いろいろな池を見ながら、終点の原始森林までいく。


原始森林も、桟道がキチンと整備されていた。前回の馬の糞だらけとは、大違いだ。

桟道の一番奥まで行くと、いかにも、原始森林らしい雰囲気がある。巨大な

針葉樹の足元みたいな所に、シャクナゲが、けっこう咲いている。ここいらは、黄龍よりも高度が低いから、花が咲くのも少し早いのであろう。霧に、ちょっと霞む名勝、剣岩を背景に、シャクナゲと家内の写真などを撮る。


下りながら、天鵞海、草海、ゼン竹海、熊猫海を見る。英語で言えば、スワン レイク、グラス レイク、アロー バンブー レイク、パンダ レイクである。

ゼンは、竹冠の下に、前という字で、意味は弓矢の矢、アローである。このあたり、名前からして、昔は、竹も、笹も、たくさんあったのだろう。だから、パンダもいたのだろう。どちらも、今は、池の名前だけになっている。


五花海は、前回は、バス道路の対岸を歩いた。しかし、今回は、橋を少し渡ってみただけで、すぐ引き返した。石に刻んだ「五花海」という標柱が、根本から倒されていた。前回までは健在で、そのそばに立つ私を弟が撮ってくれた写真が、今もある。


自由時間が、多少あったが、退屈はしなかった。

橋の向こうの小さな岬の先っぽから、飛び石のような所へ、一人ずつ渡って行って、一人ずつ記念写真を撮っている中国人グループがいたから、「落ちる人がいたら、おもしろいのにねえ」とか、「マナーが悪いのがいるってのは、日本も、中国も同じやねえ」とか言いながら見ていた。


腰を下ろしていた所のすぐ近くに、リスが来ているのを家内が見つけ、写真を撮ろうとするが、ちいさくて、動きが速くて、うまく行かない。小鳥もいたが、撮影は無理。


珍珠灘は、予想以上に水量があった。花の咲いた灌木の間をさらさらと、一面に広がってながれる湖。ここでも、何枚か写真を撮る。その水が、滝になって、しぶきをあげて落ちるところを、階段を降りて、下から仰ぐように見る場所もある。カメラのフレームには、入り切らない迫力がある。見せてやりたかった所だったが、家内も娘も、しきりに、感嘆の声をあげていた。


また、バスで移動し、朝も見た、例の、「今、一筋、流れ始めていますね」の所は、車窓から見ただけで、通過。


次は、犀牛海の標柱のあるあたりから、水際の桟道を歩き始める。ここを歩くのは初めてだ。樹正瀑布をすぐ傍から見る。まさに、自然そのままだ!


マニ車は、前回は、水力で回っているのを、この目で見たが、今回は、人が手で回しているのしか、確認できなかった。


いくつかの池の、青い、透き通った水の中に、白い倒木が、抽象芸術のように、幻想的に見える所があった。倒木に、水中の石灰分が付着して出来た光景らしい。

さて、その倒木だが、いつごろ、どうして出来たのか。

私たちの感覚では、大昔に、風でたおされたか、寿命がつきて倒れたかぐらいに見えた。

ガイドの話では、毛沢東が、地元の人の収入を増やすために、政策的に木を切らせたのだという。

その後、自然をそのまま残して、観光地として生かした方が、地元の経済には、よりプラスになると考えられて、今や、世界遺産と認められ、観光客殺到のありさまだ。

30年前の政策の残骸が、いかにも、太古から存在していたかのように見える。この不思議!


自然のように見えるけれども、実は、不自然。 反対に、不自然に見えるけれども、実は、自然。

世の中には、こんなこと、かなりあるのかも。


4時にホテルまで買える予定だったのが、6時になった。それだけ丁寧に案内してもらったのだから、そういう意味では、ありがたい。しかし、バスに乗る部分が多い予定が、かなり歩いた。

昨日の疲れが抜けていないのち、また、きつい思いをした。早く、ゆっくり休みたい。

それで、少数民族の歌と踊りのショーを、予約していたのに、キャンセルした。私は、4年前、ナマのショーを一度見ている。家内と娘は、昨日、バスのビデオで、大体どんなものか、想像出来るようにはなっている。それに、家に帰れば、いつでも、DVDで見られる。そういう気持ちもあった。

まさか、DVDが、規格違いで、チラとも映らないなんて。

そんなら、キャンセルしなきゃよかった。残念、ほんと、残念。


5月2日


ホテルから、九寨黄龍空港へバスで移動する。ホテルの近くから、数キロ先の集落まで、ずっと、道端に、数人ずつ、少数民族の女性が立っている。全部で、100人以上いたのではないか。ガイドは、

「お土産などを売るため、お客さんを呼んでいるんです」といっていたが、私には、春を売るための呼び込みに見えた。こんな時間に、こんな所で、まさか、という違和感はある。

日本人などのの買春行為を、厳しく糾弾するお国柄だ。 しかし、子供を一人しか作ってはいけないという規則も、少数民族は例外扱いされている。売春禁止も、少数民族に対しては、適用が甘いのじゃないかな? という感想を禁じ得ない光景ではあった。体制は違っても、人間のすることに、本質的な違いはないだろう。こんな邪推をするのは、私の心の方が、それだけ、ゆがんでいるのかなあ。


峠を登るにつれて、流れが次第に細くなり、バスに近くなり、遠くなりして、しばらく、しばらく続く様が、いかにも面白い。植生も少しずつ変わる。次第に灌木が増え、草原になったな、という所で分水嶺を越える。


九寨黄龍空港では、飛行機の到着が遅れて、かなり待たされた。しかし、売店をのぞいて回ったりして、退屈はしなかった。

1階では、羊の群れを織り込んだ壁掛けがよかった。しかし、買わなかった。赤ちゃんのポーズをリアルに描いた、小さな土人形があったが、そのポーズというのが、一つは、おちんこを突き出しているところ、もう一つは、四つん這いになって、頭は低くして、肌がの尻を高だかともち上げているところ。「中国人は、こんな人形が好きなのかねえ」と、家内が言う。「さあ、ねえ」


安全検査を通った後、2階の売店には、気に入った本が2冊あった。日本円が使えるか聞いてみたが、話が通じない。成都か、上海の空港でも買えるだろうと思っていたが、結局、そこにしか置いてなかった。一つは「中国西部」という本。もう一つは、「ルオールガイ」と読むのだろうと思うが、パソコンでは出て来ない漢字の地名の、九寨溝の西隣にある大湿地帯、大草原を紹介する本。

後者の方は、長征軍を悩ませた悪路だった所。「ここは夏と冬、二つの季節しかない。春、秋という、穏やかな季節のない、灼熱か、極寒かという大地の美しさを、写真で見せましょうという本。

印象としては、ジョン・フォード監督が、西部劇のロケ地に使いたがるんじゃないか、というような、広大無辺の大平原である。


九寨黄龍空港を飛びたって、5分か10分くらいは、雲間から、山や渓谷、村らしきものも見えていた。

しかし、あとは、全く雲の上であった。地上の様子を見たいのに、見られない、などというのは、贅沢な不満か。

実は、一日遅れだったら、九寨溝行きの飛行機は、3便も欠航したんだそうな。添乗員の言葉では、

「そしたら、多分、九寨溝には行けなかったでしょうねえ。私たちは、ついていましたよ」ということになる。遅れたくらいで文句言うな、下が見えないくらいで文句言うな、と、自分で自分に言い聞かせるしか仕方がない。


成都空港では、お目当ての写真集は見つからなかった。

「四川省地図冊」というのを見つけた。20元。買った。


機上では、雲の上ばかり。退屈なので、この地図を見た。黄龍の水は、やがて南に下り、確かに長江に向かっている。しかし、九寨溝の水は、一度は南に向かい、甘粛省に入るのだが、そこで一転して、北に向かっているように見える。だとすれば、この先は、黄河?

もしそうなら、今度の旅で、長江の水源の一つと、黄河の水源の一つと、両方を一度に見て来たことになる。ガイドの、「どちらも長江に流れ込みます」と言う説明が、間違いであってもらいたい、そんな気さえする。


上海虹橋空港から、市内のお茶屋に寄る。若い店員が、中国茶の本格的な入れ方を講釈する。

一回目は捨てるというのが、貧乏性の私には、なんとも、もったいない、結局、高価な茶の葉は、敬遠して買わなかった。お茶うけの珍味、梅の変わり漬けを、何種類か、買う。

店員が、「お茶屋に来て、梅干しだけ買うの?」と皮肉を言う。


時間調節がうまくいったというので、上海雑技団の、その人、1回目のショーを見に行く。ビデオ撮影OKというので、残っているテープと電池を使い切るつもりで、席に着いた。


皿まわしから、自転車の曲乗り、樽くぐり、輪くぐりジャンプ、吊り輪のような技を見せる吊りヒモ、箱に剣を突き刺すマジックなどである。

最後のマジックは、勿体ぶって、時間をかけているが、箱の中から、女の子が一人出て来るくらいなら、わざわざビデオで撮るほどのことはあるまいと、撮影をやめていた。そしたら、まあ、出て来るは、出て来るは。5人も出て来た。これは、撮るべき価値があったと思ったが、バカの後知恵!


そこで、球状の鉄網の中をオートバイでクルクル回るショーでは、最初から最後まで、ビデオカメラを、回しっぱなしにした。同方向に回るだけじゃない。交差したり、逆方向に回ったりする。2、3人でも怖いのに、最後は5人だ。「もういい、やめてくれ」と言いたくなるほどの刺激であった。


夕食のレストランは、日本人の好みに近い味で、「ほっとするね」と言う声が、あちこちから聞こえた。食後、お茶をサービスする店員が、「この急須でお茶を入れると、おいしくなります。健康にも大変いいです」と言う。なんでも、山東省の特別な材料で作るのだそうで、ストロンチウムが含まれているから、何日置いても、水が腐らない、とかいう。だから、買え、というわけだ。湯呑みとセットで15000円だと。結局は、うちのテーブルでは、購入者ゼロ。隣のテーブルでは、なんと、2セットも売れたとか。


最後の夜は、ライトアップした外灘を見ようという作戦。バスで移動の途中、ガイドが言う。

「ここは六馬路。日本人は、みな、四馬路はどこかって聞くんっすよ。なぜでしょうねえ」

ピンと来た私は、「そりゃあ、歌の文句で有名だからですよ。[夢の四馬路(スマロ)か、虹口(ホンキュ)の町か]という歌詞で、ディック・ミネが歌って、かなり はやりましたよ」と言う。

メロディーをつけてみて、と、マイクが回って来た。その一節だけを歌ったら、お義理の拍手が少々。「ああ、その歌なら、聞いたことがある」という程度の反応であった。若い者は、もう、こんな歌も知らないのかなあと、世代の断絶に改めて驚いた。

ツアー参加者では、最高齢、74歳だという橋詰氏と、その奥様だけが、この歌に関心を寄せてくれたようだ。「ホンキュというのは、漢字では、虹、口、と書くんだよ」と、氏が、奥様に説明しておられた。


中国でも、メーデーからは、ゴールデン・ウィークになって、観光客が、めちゃ増えるという。

ちょうど、その日に、ぶつかったわけだ。外灘で車から降りるのは無理という判断で、対岸から、ライトアップしてした外灘を見ようということになった。


対岸も、結構 にぎわっていた。スリに気をつけろと、パトカーが繰り返し警告放送するほどの混雑であった。しかし、外灘の華やかな夜景は、十分に鑑賞できたと思う。


浦東シャングリラホテルの、割り当てられた部屋からも、幸運なことに、ライドアップされた外灘がよく見えた。


5月3日


朝早くかや、目を覚まし、外灘の方をみる、昨夜ては、全然雰囲気が違って、きりさめで全てが灰色。実に静かで、落ち着いている。雨模様のせいか、太極拳をしている人々の姿も見かけない。

ホテル専用のテニスコートにも、水たまりが見える。

何分かして、また外を見たら、ホテルの従業員らしい服そうの男の子が、長いコードを引きずりながや、バキューム掃除機で、テニスコートに溜まった水を吸い取っていた。


浦東空港へ移動する。新しい道路に、リヤカーのような車を持った清掃作業員らしい人が、ちらほら見える。

どうろに沿った植え込みは、手前は低く、その向こうは、やや高く、道路の端っこにあたるところは、4、5メートルもある高い木で、きちっと構成されている。 

そんな道路が、10キロも、20キロも続いている。


浦東空港ビルの、何とまた、巨大なこと。外から見ても、中から見ても、恐ろしくなるほど大きい。

さすが、万里の長城を作った国の建築だわい。


いよいよ出国手続きのため、現地ガイドがのきんさんと別れる時、「ラブレターです」と言って、

紙切れを手渡した。ホテル備え付けのメモ用紙に、昨日の、ディック・ミネの歌の、一番の歌詞を書いておいたものである。よせばいいのに、「この歌のタイトルは[上海ブルース]てす」とまで書いて

しまった。

家に帰って確認してみたら、[夜霧のブルース](作詞・島田磬也)というのが正しかった。

「上海ブルース」というのも、ディック・ミネの歌の中に、確かにあるし、その歌詞の中にも「夢の四馬路」という言葉は出て来る。しかし、わたしがバスの中で歌ったのは、やはり、「夜霧のブルース」の方であった。

金さん、ごめん。ウソを教えてしまいました。

この文を読んだどなたかが、上海においでになって、ハルピン出身の、女性日本語ガイド、この、金さんにあったら、「♪夢の四馬路か、虹口の街か」という歌詞は、「夜霧のブルース」の一節であることを、改めて、教えて上げて下さい。頼みます。(なお、この金さんは、「遠山の金さん」の、金さんと同じだと覚えておいて欲しい」と、言っていた。念のため、記す。


免税店の本屋コーナーでも、例の写真集を探してみたが、やはりなかった。

もっとも、ここでは、中国女性のヘヤーヌード写真集を発見した。大判の、紙質も、印刷もグーなものであった。しかし、丸出しというのは、こちらの好みには合わないので、チラッと見ただけで、また、書棚に戻した。「女の性」を商品化するなどということは、男女同権、女性差別なし、のお国がらでは、あり得ないことと思っていたが、市場経済の論理で、売れるものを作って売る、という一面が、こんなところでも露呈しているのかと、正直、驚いた。


飛行機をせ待っている時、例の、橋詰御夫妻と話をする機会があった。

私のほうからは、ホームページを作っていることや、その内容のいくつかを、お話した。好意的に聞いて下さったので、そのアドレスを言おうとしたが、自分のホームページのアドレスを、自分で覚えていないのだ。それで、プリントアウトしたものを、後日、少々、お送りしましょう、と言って、橋詰氏の名刺をもらった。


なんと、氏は、「日刊新周南」の編集主幹という人物であった。元、毎日新聞の記者とは聞いていたが、現役のジャーナリストだったのだ。

元の徳山市を中心とする限られたエリアで、ニュースの材料が、そんなにあるだろうか、経営面でも、うまくやれるのだろうか。 ついつい、余計な心配までしてしまった。


しかし、この旅行記を、私が、一本指打法で、ぽつぽつ打っているころ、周南市では、住民投票で、合併に伴って、議員が高い報酬を取り過ぎるのは認められないという運動が、大勝利をおさめて、全国的なニュースになった。周南市の人々の意識の高さは、すごいじゃないか、橋詰氏が主幹を勤める新聞の働きも大きかったのではないかと、勝手に推測した。


三菱自動車が、欠陥隠しをやったがために、クラッチがこわれ、シャフトがはずれて、それが原因で、ブレーキが効かなくなり、大型トラックが激突して、その運転手が死亡した場所も、昔の熊毛町、今は周南市になるという。これも全国的なニュースとして大きく報道された。氏は、報道や論評で、大忙しであろう。


にもかかわらず、私のホームページの感想をEメールで送って下さった。その上、「日刊新周南」に連載された、氏の、きめこまやかな中国旅行記のうち、雲南篇と蘇州篇のコピーまで、わざわざ送って頂いた。奥様との名コンビで、現代版弥次喜多道中記というべき、見事な中国レポートである。


何度も笑わされながら、A4で65枚のコピーを、一気に最後まで読んで、お二人の行動力、観察力などに敬服した。

私の日記では、それは、当然、帰国後の、5月6日のことになっている。


話は、前後するが、ここで、旅行の最終場面のことを少々。


帰国便は、北九州の気象条件が、あまりよくないので、福岡空港に着くかも。ただし、そのばあいは、バスで、北九州空港までお送りします、と、添乗員が言う。


時間的には、もう、九州になるはずなのに、見えるのは、雲ばかり。

高度が下がって、雲の下になったら、私の席からは、左手に、津屋崎、遠賀川、皿倉山、小倉競馬場などが見えた。ここまで来れば、北九州に下りるつもりなのは、間違いない。が、飛行機は、高度をある程度保ったまま、空港の上を素通りした。このまま、海の上を飛んで行けば、しこくになってしまうのじゃないか。心配していたら、いつのまにか方向転換したものらしい。左手に、行橋、苅田らしい地形が見えて来た。「あれが神の島。今、新空港の、ほとんど真上を飛んでるよ。長い橋も見える。毛無し島。間島。ほら、もうすぐ、滑走路」と、家内に実況中継をする。


ターミナルに着いたのに、ドアがなかなか開かない。タラップと飛行機のつなぎ目が、うまく行かないらしい。いつも、この空港に来る飛行機じゃないから、勝手が違うのだろう。そのうち、機長らしい男が、操縦室から客室に出て来て、ドアの担当者と、ちょっと話をして、また操縦室に戻ったら、すぐにドアが開いた。


入国手続きを終え、スーツケースを押して、ロビーに出る。次女夫婦と孫とが、出迎えに来てくれていた。


家に着くなり、ビデオを使って、報告会。雑技団の映像に、娘夫婦から、「すごいねえ」の声。

しかし、DVDは映らず。 サービスセンターに問い合わせたら、「規格が違いますので、御覧にはなれません」だと。この旅一番の残念であった。


夜は寿司屋を取った。久しぶりの、いかにも日本らしい味!


追記


九寨溝を見て回る時、九寨溝の地図はもらえなかった。ほしい人には、何元かで世話します、とか現地ガイドの呉さんは、言っていた。

入口まで戻って来た時、タダで、配ってくれた。「こんなもの、くれるんなら、前もってくれよ。今ごろもらっても、ほとんど意味がないじゃないか」と、独り言的につぶやいた。それを聞きつけた橋詰氏が、「全く、その通りですな」と、共感の意を示してくれた。


その、カラー印刷の地図には、回りや、裏などに、当地に縁の深い動植物も、美しいカラー写真で紹介されている。実は、中国にいる間は、気付かなかったのだが、帰宅後、その中のある部分が、気になって仕方がないようになった。それは、明らかにシャクナゲに見える花の名前を、中国語で、「星毛杜鵑」と書いてあることだ。

いろいろ、図鑑、辞典など調べてみたが、「杜鵑花」の写真も、ただの「杜鵑」の写真も、私には、シャクナゲにしか見えない。ところが、文字の解説には、日本語で、「つつじ」とか、「さつき」とか、書いてある。ホトトギスの鳴くころ、花が咲くから、という補足説明まで。


シャクナゲは、大きな分類の枠では、ツツジ、サツキの仲間に入るのてろあろうか。だとすれば、

シャクナゲを指差して、呉さんが、「ツツジ、ツツジ」と言ったのも、「ツツジ科、ツツジ科」と言っているのだと解釈出来る。それなら、間違いとは言えない、

しかし、日本人のガイドなら、やはり、シャクナゲのことは、シャクナゲと言うだろう。決して、ツツジと混同することはないだろう。大陸気質と島国根性のちがいかも知れないが、オレはやっぱり、日本人的な感じ方、言い方の方が好きだなあ。そう思う。……五七五で締めくくります。


旅帰り おれは やっぱり 日本人




成都からバスを使った前回と、飛行機を使った今回との対比が面白いと、自分では思っています。

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