夢と女神(1/1)
「ラフィエル、今日も私に会いに来てくれたのね。嬉しいわ」
僕が部屋の隅で縮こまっていると、一人の少女が声をかけてきた。膝を抱えていた僕は、そっと顔を上げる。
「……女神」
僕が囁くと、女神はにっこりと笑う。僕の背丈の半分くらいしかない幼い彼女は、白いローブの裾を翻し、ガラスの靴に包まれた小さな足を投げ出すような形で、僕の隣に腰掛けた。
このとき、僕は異変に気が付いた。昨日までは床につくくらい長かった女神の黒髪が、今日は丸刈り状態になっている。一体どうしたんだろう。
けれど、今はそんなことを問い詰められる心境じゃなかった。僕は女神に会うと、いつもとても嬉しい気持ちになる。でも、今日は違った。僕は恨みがましい声で女神に文句を言う。
「女神、どうしてですか。どうして僕の元から去ろうとするんです」
「去ってなんかいないわ」
女神は小さな手で僕の頭を撫でた。
「ほら、今、会ってるじゃないの」
「……『家に帰して』と言っていました」
僕はそっぽを向いた。そんな僕を、女神は困ったように胸元に抱き寄せてくれる。
「大丈夫よ、また会えるわ」
女神が僕の髪を梳いてくれる。
「私はあなたのものなんだもの。あなたしかいないの。……ね、そうでしょう?」
台詞と共に、ゆっくりと女神の体が透けていく。僕はハッとなった。今までは、出てきてすぐにいなくなるなんてこと、なかったのに。
「女神、行かないでください」
「どこにも行かないわ」
微笑みながら、女神は最後に僕の頬を撫でた。
「寂しいのなら、また会いに来て」
「女神っ」
自分の声で目が覚めた。
僕はベッドから跳ね起きる。寝汗でびっしょりだ。肩で息をしながら、ベッドから這い出た。
たまらないほどに不安な気持ちだ。今まで夢の中でしか会えなかった女神。僕の頭の中にしかいなかった夜の聖女。それが現実の世界でも現われたのに……。
「……女神」
僕は棚から一冊の本を抜き取って抱きしめた。もうボロボロになった絵本だ。
「会いに行っても、いいんですね?」
絵本の表紙を撫でる。そこに描かれていたのは、さっきの夢の中に出てきた、白いローブとガラスの靴を身につけた幼い少女だった。
****
「あんた、一体何を考えてるの!?」
傾きかけたデュラン家の正門を潜ると、家の中からナンシー姉様の怒鳴り声が聞こえてきた。
「ディアーナを売るなんて、何でそんなことするのよ!」
「だってぇ、ドレスにブローチをつけたかったんだもん」
言い訳がましい妹のレイラさんの声を聞きながら、私は「ただいま」と言って中に入る。
「ディアーナ!」
私が談話室に足を踏み入れるなり、室内の視線が一斉にこちらに降り注いだ。中にいたのは、ナンシー姉様、レイラさん、それにばあやだった。
「おやまあ、娼婦の娘が帰ってきたよ。やっぱり売れ残っちまったのかい?」
ばあやが開口一番に嫌味を言う。ナンシー姉様の大きな体が、ソファーの上に崩れ落ちた。
「ああ……よかった……」
ナンシー姉様は両手で顔を覆う。
「レイラのバカが、金の卵を産むニワトリを殺しちゃったって聞いたときは、あたくし、どうなるかと……」
「バカじゃないよ! ……ディアーナ! あたし、お腹空いた! 夜食を作ってきてよ!」
思った通りだけど、誰も私を心配していなかった。それだけじゃなくて、帰って早々こき使おうとする。
やっぱりこの人たちにとって、私はこの家の一員とは認められてないってことなんだろう。
「あれぇ、ディアーナ、そのドレス、どうしたの」
私が台所へ向かおうとすると、何かに気が付いたようにレイラさんが声を上げた。
「ええっ!? 何これ!? すごく高級な素材でできてない!?」
ナンシー姉様もソファーから立ち上がって、私のドレスのスカート部分に触れる。ばあやが、「生意気にネックレスまでつけてますよ、お嬢様」と口を挟んだ。
「……借り物よ。汚さないで」
私はナンシー姉様の手を払いのける。これはラフィエルさんが用意してくれたものだったんだけど、何故かナンシー姉様に触られるのは嫌だと思ってしまった。
私が着ていたぼろ切れみたいな服は捨てられてしまったらしいから、下着からドレスに至るまで、全部ラフィエルさんが手配してくれたものを身につけるしかなかったんだ。
こんな高い服、破ったりしたら困ると拒否したけど、「では、裸で帰るんですか?」と聞かれてしまい、結局は『借りる』という形で袖を通すことにした。ラフィエルさん曰く、「それなら、永久に貸してあげます」らしい。
藍色を基調として、金の刺繍が施されたドレスは、いつも身につけているものとは段違いな着心地の良さだった。
それに、装飾がたくさんついているのに意外と動きやすい。もしかしたら、私の好みを考えて用意してくれたものだったのかもしれない。そうと思うと、少しだけ嬉しくなった。
「『借りた』って、誰に借りたのよ」
ナンシー姉様は怪訝な顔になる。私は曖昧な返事をした。
「私を奴隷商から助けてくれた、親切な人よ」
「嘘! ディアーナみたいなブス、助ける人なんかいるわけないじゃん!」
レイラさんが目を丸くする。
「きっと盗んだんですよ、お嬢様方」
ばあやの言葉に、二人とも納得したような顔になる。私は思わず「違うわ」と反論した。
「本当に借りただけよ。……じゃあ私、もう行くから」
さっさと会話を切り上げようとした私だったけど、その手をナンシー姉様が掴んだ。
「待ちなさいよ、ディアーナ。あんたじゃそのドレス、似合わないわ。だから、あたくしが代わりにもらったげる」
「えっ」
まさかの言葉に思考が停止する。レイラさんの不満そうな声が飛んできた。
「お姉様、ずるーい! ……でも、あたしはいいや。そんな地味な色、好きじゃないもん」
レイラさんが視線をそらす。本当に興味がないみたいだ。
「ほら、脱ぎなさいよ」
ナンシー姉様が私のドレスを剥ぎ取ろうとした。私は「やめて!」と後ろに飛び退く。
「これは借り物なの! だから姉様にはあげられないわ!」
「あんた、生意気よ!」
私の言葉に、ナンシー姉様は逆上した。
「いつからそんな口を利くようになったの!? あの死にかけがどうなってもいいのかしら!?」
ナンシー姉様の言葉に、私は心臓を氷漬けにされたような気がした。
『死にかけ』というのは、私の母様のことだ。いつもの脅し文句。私が命令されたことを上手くできなかったり、依頼を受けるのを渋ったりすると、いつも姉様たちは母様のことを持ち出して、私を揺さぶりにかかる。
しかも、それはただの脅迫じゃない。
前に、私はレイラさんの髪飾りを壊してしまったことがある。謝ったけど、レイラさんは許してくれなかった。その結果、母様の夕食に石を入れられてしまったんだ。
私が反抗的な態度ばかり取れば、被害を受けるのは、この家で一番立場の弱い母様だ。そうだと分かっているから、私はいつも強くは出られない。
けれど私は、今回だけは少しだけ悪あがきをした。
「でも……私、これを脱いだら着るものがないわ。いつもの服が一張羅だったし……」
私が持っているのは、あのボロボロの服の他には、フードのついたケープだけだった。町へ買い物に行くときに着るものだ。
しょっちゅうドレスを新調しているナンシー姉様やレイラさんと違って、父様が死んでから、私は新しい服なんて一着も買えていなかった。
「それなら、カーテンでも仕立て直しなさいよ」
でも、ナンシー姉様は私の服装なんてどうでもいいみたいだ。
「この談話室のカーテン、古くなっていたし、ちょうど取り替えたいって思ってたの。穴とか空いてるけど、別にいいでしょ。あんたの前の服と大して違わないわ。……ばあや」
ナンシー姉様が命じると、ばあやがカーテンを外し、私の前に置いた。姉様の言う通りだった。古びてすり切れたカーテンは、私がついさっきまで着ていた服と同じような傷み具合だった。
……ああ、これが私の現実なんだわ。
汚い服を着て、意地悪な姉妹たちにこき使われて……。
綺麗なドレスに身を包んで、美しい青年に大切な人だと言われた。魔法みたいな一時だった。
そう、あれは魔法だった。魔法で見た夢だったんだ。そんな風に思うことにした。そう思うしかなかった。じゃないと、あんまりにも虚しすぎる。
「……着替えてくるわ」
私はカーテンを持って、談話室から出た。
あんな魔法になんて、かからなければよかった。今の私は昨日の私なんかよりも、ずっと惨めだ。
心身共に疲れ切ってしまった私の頭に、ふっと母様の顔が浮かんできた。そうだ、後で母様の様子を見てこないと。解けてしまった魔法なんかより、私には母様の方がずっと大事なんだから。
そう思うことで、私は必死に自分を慰めた。
でも、この魔法にはまだ続きがあったってことを、このときの私は知らなかったんだ。