私の喜ぶこと、したくない?(1/1)
目が覚めたとき最初に目に入ったのは、ライムグリーンの天井だった。
この色、見たことがあるような気がする。でも、一体どこで?
「気が付きましたか」
深い青色の瞳の青年が目の前に現れた。その綺麗な顔にときめきを覚えてしまう。あれ、この人もどこかで見たような……。
「ラフィエルさん!?」
記憶の引き出しを開けている内に意識が覚醒した私は、飛び起きた。
ここはニューゲート家だ。ついさっき、私が脱出したばかりの客間。……ううん。脱出できたと思っていた客間、かしら。
「何で……どうして……」
「それだけ元気があるなら大丈夫ですね」
狼狽える私を見て、ラフィエルさんがヘッドボードに体重を預ける。彼が座っているのは、私が寝ているベッドの上だった。
「二時間と少し眠っていました。医師の話では、手と足をすりむいた他は、命に別状はないそうです。道に飛び出した君は、通行中の馬車にはねられたんですよ」
ああ、そうだった。
私の逃走計画は失敗した。そして、この狂った青年の元へ逆戻りしてしまったんだ。
「女神、君は一体誰の許しを得て、体に傷をつけるような真似をしたんです」
ラフィエルさんはかなり怒っているみたいだった。でもそれは、私が逃げようとしたからじゃないらしい。
「君は僕のものなんですよ。僕の許可もないのに、勝手なことをしないでください。分かっているんですか、女神」
「私、あなたのものになった覚えはないわ」
相変わらずのむちゃくちゃな理屈に、私は口元を歪める。
「後、その『女神』っていうのもやめてよ。言ったでしょう? 私、普通の人間よ。名前だってちゃんとあるわ。『ディアーナ』よ」
「名前があろうがなかろうが、君は女神です」
……ダメだ。話が通じない。一体どうすれば、この人に分かってもらえるんだろう。
「……ラフィエルさん、あなた、一体私をどうしたいの?」
少しでも彼の気持ちを理解できないかと私は必死になる。
「あなたの傍に置いておいて……一体何をさせるつもり?」
「……何を?」
ラフィエルさんは心底不思議そうな顔になった。
「別に何も。何故君に何かをさせないといけないんですか」
「何故、って言われても……」
私は言い淀んだ。
ラフィエルさんがあんまりにも無垢な目をして質問してくるから、おかしいのは私の方なのかという気になってくる。
「だって、目的もないのに傍に置いておかないでしょう、普通は」
「目的ならあります。君に傍にいてもらうことです」
それってつまり、私を別にどうにかしたいわけじゃなくて、ただ傍にいて欲しかっただけってこと……?
何それ。何だか変だ。てっきり愛人になってくれとか言い出すのかと思ってたのに、そうじゃなかったらしい。
この人、好色家らしいし、どこかが狂ってはいるけれど、もしかして根っこは純真なのかも。そう思ったら、少しだけラフィエルさんを悪く感じる気持ちが薄らいだ。
「……ラフィエルさん、私をうちに帰して」
そこまで悪い人じゃないのかもしれないと分かったら、もう一度正面からお願いするだけの心の余裕も生まれてきた。私はラフィエルさんの目を真っ直ぐに見つめながら、真剣な調子で切り出す。
「ラフィエルさんは肉親なんてどうでもいいって感じてるのかもしれないけど、私にとってはそうじゃないの」
粗末なベッドで横になっている大切な人の痩せ衰えた姿を思い出す。早く母様の元に駆けつけないといけないという気持ちがむくむくと湧き上がってきて、声がどんどん深刻なものになっていった。
「私は母様を助けたいの。……ねえ、だから、私をうちに帰して」
「そんなに帰りたいんですか」
ラフィエルさんは、あまりにも私がしつこく帰して欲しいと言うせいか、困り切った表情になる。
「どうしてです。理解できません。……聞きましたよ、湯殿に詰める使用人から。君のその髪は、家族を養うために切ったんでしょう。あのボロボロの格好も、奴隷商のせいではなくて、実家にいたときからずっとそうだったのではありませんか? どうしてそんなところに帰りたいんです。僕は君をぞんざいに扱ったりしませんよ」
「それは……そうでしょうけど……」
今までの対応を見ていても分かる。ラフィエルさんは強引だけど、私をいじめたり、ひどい暮らしをさせたりはしないだろう。
でも、それとこれとは別だ。
「ラフィエルさん、母には私の助けが必要なの。この際、血の繋がりがどうとか、そういうのは忘れてくれてもいいわ。私はただ、大切な人を守りたいの」
私の言葉にラフィエルさんの濃い青の瞳が揺れる。小さな声で、「……女神」と呟くのが聞こえてきた。
「君まで僕を見捨てるんですか」
まるで神様に顧みられなくなった人が出すような声だった。あまりに痛々しいその声色に、私は胸を衝かれる。この人は、どうして私のことでそこまで心を揺さぶられているんだろう。
それに、『君まで』ってどういうことなの? もしかしてラフィエルさん、昔誰かに裏切られた経験でもあるのかしら。
「見捨てたりしないわ」
私はラフィエルさんの肩に手を置いた。このままじゃ、あんまりにも気の毒で見ていられない。
「私、あなたを見捨てたりなんかしないわ」
「……だったらどうして、帰りたいなんて言うんですか」
ラフィエルさんは、ほとんど泣きそうな顔で私を見ていた。
「私はあなたのものだって言っていたのに。それなのに僕の傍から去ってしまうなんて。どうしてそんなことをするんですか」
あなたのものだ、なんて言ってない。
そう言おうとしたけど、声が出ない。どうも私、この人にすっかり同情してしまったみたいだ。
「……ねえ、ラフィエルさん、私のこと、大切に思ってくれてる?」
「もちろんです」
私の質問に、ラフィエルさんは即答した。彼の気持ちが純粋なものだと分かった今、その言葉は真っ直ぐに私の胸に響いてきた。かすかに鼓動が早くなる。
でも、私はそれに気が付かないふりをして話を進める。
「だったら……大切な人の喜ぶこと、してあげたいって思わない?」
「……君の喜ぶこと?」
ラフィエルさんがわずかに目を見開いた。私は畳みかけるように繰り返す。
「思わない? 私の喜ぶこと、したくない?」
「……」
ラフィエルさんは黙り込む。頼りなげに揺れていた深い青の瞳に蓋をして、うなだれた。
「……どうして欲しいんですか、女神」
負けを認めたような声だった。私は胸のうずきを覚えつつも、その答えを口にした。