ドレスもガラスの靴もないけれど(1/1)
「逃げないでよ!」
背後からレイラさんの叫びと足音が迫る中、私は無我夢中で廊下を走った。心臓が大きく耳元で鳴るのを感じながら大声を出す。
「やめて! 来ないで!」
でも、その不安に駆られた声はレイラさんを喜ばせただけだった。狂気的な高笑いが聞こえてくる。
「ディアーナ、待ってよ、ディアーナ! 汚い顔が余計に汚くなるだけだよ! これまでと何にも違わないじゃん! だから……」
「いたぞ、あそこだ!」
「捕まえろ!」
レイラさんの声は大きな怒鳴り声にかき消された。階段下から複数の男の人が矢のように疾走してきて、あっと言う間にレイラさんの小さな体を床に組み伏せる。
「大丈夫ですか、女神様」
突然のことに何が起きているのか分からず、拘束から逃れようと大暴れするレイラさんを呆気にとられながら見ていると、またしても階下から別の男の人が上がってきた。
それだけじゃなくて、隣の家に住んでいるおばさんとムーランさんもやって来る。
「あいつですよ、あいつ!」
隣のおばさんはレイラさんの方を興奮しながら指差した。
「あたしゃ見たんですよ! 汚い身なりのガキが窓をよじ登ってムーランさんとこに忍び込むのを! で、一目でピンと来たってわけです! きっと泥棒に違いないってね! だから自警団の人たちを呼んだんですよ!」
「自警団……」
よく見てみれば男の人たちは揃いの制服を着て、胸には鳥の羽をかたどったバッジをつけている。
自警団は警邏隊とは別にニューゲート領の治安を守るために編成された組織だ。迷子捜しから難事件の解決まで、領内の人たちにとっては頼れる存在らしい。
「まったく……女神さんのいるところに押し入るなんてとんだ大馬鹿者もいたものだ」
隊員さんが苦労してレイラさんの体に縄をかけながら苦々しい顔になる。
「では、警邏隊に引き渡してきます」
レイラさんを軽々と肩に担ぎながら隊員さんが言った。レイラさんは、「嫌! 監獄なんか行きたくない!」と泣きじゃくっている。
レイラさんはもう成人してしまったから、罪を犯したら牢獄行きになってしまう。汚れた顔で泣き喚くレイラさんを見て、自警団の人たちは「うるさいなあ」と愚痴をこぼした。
でもそんな声も階段を降りる度に小さくなっていって、やがて聞こえなくなる。隣のおばさんは野次馬根性を発揮してその後ろについていった。
「事情を知りたいので女神様もご同行願います」
残っていた隊員さんが丁重な態度で話しかけてきた。突然色々なことが起こったせいでまだ衝撃を受けながらも、私はふらふらとした足取りでそれに従おうとする。
けれど、そんな私の肩にムーランさんが手を置いた。
「悪いけど、話ならまた今度にしておくれ」
ムーランさんがゆっくりと首を振る。
「女神さんはこれから大事な約束があるんだよ」
『約束』という言葉で、私はこれから自分がしなければいけないことを思い出した。真っ青になり、自室へと引き返す。
「ああ……そんな……」
私は床にひざまずき、ビリビリに破られた白いローブと原型がなくなったガラスの靴を手に取った。
どちらもすぐに修繕するのが不可能だと一目で分かる。私が舞踏会に着ていくはずだったラフィエルさんからの贈り物は、レイラさんの手によって完全に破壊されていた。
呼吸が浅くなり、体から力が抜けていくのが分かる。まるで衣裳だけじゃなくてラフィエルさんと舞踏会で踊るという夢そのものが壊されてしまったみたいな気分だった。
「とりあえず自警団の人たちには帰ってもらったよ」
ムーランさんが部屋に入ってくる。私は震えながらムーランさんの丸い顔を見上げた。
「ひどいね、これは」
ボロボロになったローブとガラスの靴を見ながらムーランさんが顔をしかめた。
「向かいの古着屋に聞いてみようか? 何か舞踏会に着ていくのにいいのはないか、って」
ムーランさんが気遣わしそうに言った。でも私は首を振る。
この舞踏会はニューゲート領中の女の子たちが楽しみにしている催しだ。当然皆おしゃれして行くはずだし、お店にはいい服や靴なんか一つも残ってないに決まってる。
それに、もし代わりの服や靴が調達できたって、それを着て舞踏会に行くのにはどうしてもためらいを覚えてしまう。
だってそれは夜の聖女が身につけていたものじゃないんだから。久しぶりの再会なんだからラフィエルさんの理想の姿で彼の前に現われたかった。
……理想の姿?
自分で考えておいて私は疑問を覚える。
ラフィエルさんの理想の姿って何なんだろう? 白いローブとガラスの靴を身につけた女神? 絵本に出てきた光り輝く長い黒髪の幼い夜の聖女?
……ううん、違う。
ラフィエルさんと初めて会ったときの私は、みすぼらしい身なりで髪は丸刈りのすっかり成長しきった体をしていた。
でもそんな私を見て、ラフィエルさんは真っ先に言ったんだ。夜の聖女――僕の女神、って。
ラフィエルさんが求めたのは私の見てくれなんかじゃない。私の存在そのものだった。
そう結論を出した途端に失意は吹き飛んだ。私は勢いよく立ち上がる。
「私、舞踏会に行きます!」
室内の時計に目をやって、私は焦りを覚える。予想外のトラブルに巻き込まれたせいですっかり予定が狂ってしまった。もう舞踏会は始まっている頃だろう。
急がないといけない。私は早口でまくし立てた。
「お部屋は後で片付けます! 迷惑をかけてしまってすみませんでした!」
それだけ言うと私は駆け出した。後ろからムーランさんが「いってらっしゃい!」と声をかけてくる。
階段を一段飛ばしで降りる。その度に私の心臓は大きく弾んだ。
汚れた作業着と灰だらけの手足。短い髪を隠すスカーフもない。
でも、これが私なんだ。だけどこんな私でも、ラフィエルさんならきっと受け入れてくれるに違いなかった。
だったら変に着飾ったり見た目を気にしたりすることなんかない。
ありのままの私で一番大切な人のところへ行くんだ。




