脱出します(1/1)
湯浴みが終わり、顔や体に保湿用のクリームだの何だのを塗られた私は、バスローブを着せられ、壁と天井がライムグリーン色になっている客間に通された。案内してくれた使用人が、「申し訳ありません」と謝る。
「本当ならこれからお召し替えをしていただくんですけど、何分、お嬢様に合いそうなものがこの館にはなくて……。格を落としたものならばすぐにご用意できるのですが、それは旦那様が許してくださらないでしょうし……」
「いえ、お構いなく」
他人からこんなにお世話されたのは、一体何年ぶりだろう。いつもは何でも自分でしてしまうから、逆に少し疲れを覚えてしまう。
「服を調達し終えるまで、もうしばらくお待ちください。では、それまでどうかごゆっくり……」
使用人は慇懃に頭を下げて出て行った。やっと一人になった私はほっとする。
けれど、いつまでも脱力しているわけにはいかなかった。大人しくされるがままになっていたのは、このときを待っていたからだ。辺りには誰もいない。脱出のチャンスだ。
といっても、普通にドアから出て行ったんじゃ、絶対に見つかってしまう。この館は、見た限りでは、廊下を始終使用人が行き来しているんだ。脱出するなら、もっと人がいないところを選ばないといけない。
「やっぱり、あれかしら……」
広い室内を見回していた私が目をつけたのは、天井まで届くほどの巨大な窓だった。
近寄って外を覗いてみる。三階分くらいの高さかしら。飛び降りるのは無理だけど、ロープか何かを使えば、地面までたどり着けない距離じゃないように思える。
「……よし」
迷っている時間はない。服が用意できた使用人が戻ってくるまでには、ここから出ないといけないんだ。私は気合いを入れ、ロープを作る手始めとして、窓についていたカーテンをブチブチと外した。
その端を結び、一本にする。でも、まだ長さが足りなさそうだ。もっと何かないかしら?
手頃な大きさの布を求めて、私は続きの間に入る。
そこは寝室になっていた。壁際に鎮座する巨大な天蓋付きのベッドを見て、私は顔をこわばらせる。
――少しでも気に入った女性は、すぐに手込めにしてしまうんですって。
ニューゲート家の当主の悪評を思い出した。
きっとこのままここにいたら、私もひどい目に遭わされるに違いない。なにせ『君にだって、僕しかいないでしょう?』なんて、訳の分からないことを言い出すような人なんだもの。
……あっ、もしかしてあの台詞って、『君を僕の愛人にしてあげます』って意味だったのかしら?
そんな風に考えたら、寒気がしてきた。あんな狂った人の恋の気まぐれなんかに付き合っていられない。
私はベッドの天蓋とシーツを外し、ついでに毛布も隣室へ運んだ。さっきカーテンで作ったロープに、新しい布を足していく。……うん、こんなものか。
そのロープの端を窓の近くにあったソファーの足に結びつけてから、窓の外に向けて放り投げる。辺りは薄暗くなりかけていたけど、ロープが下についたのは、はっきりと分かった。
私はロープを掴み、躊躇うことなく窓枠を蹴った。素肌にバスローブを羽織っただけという恐ろしく無防備な格好だけど、まだそこまで寒くない時期だから、この格好で外に出てもどうにかなりそうだ。
慎重に、慎重に、降りていく。疲れたらロープの結び目で一休みし、最後には何とか地面に足をつけることができた。
「はあ……」
体から力が抜ける。ロープに強く掴まっていたせいで手足が痛かったけど、部屋からの脱出には成功した。
次は、この館から出ないといけない。
私は周りの様子をうかがいながら、腰を屈めて歩いた。物音がする度に、近くの庭木の影に隠れる。大抵は気のせいだったけど、時々人が通ることもあって、かなりヒヤヒヤしてしまった。
それでも、何とか見つからずに門がある場所に辿り着いた。
最初に入ってきた正門とは違うところだ。でも、困ったことに、そこにも二人組の門番がいた。あの奴隷商のように賄賂を渡せば通してくれるかもしれないけど、今の私は全然お金を持っていない。
かといって、私の背丈の何倍もある鉄柵を乗り越えるなんて、いくらなんでも無茶だ。どうしようかと私は頭を悩ませる。
だけど、天は私を見捨ててなかった。門番二人組の会話が耳に入ってくる。
「なあ、交代時間まで、後どのくらいだ?」
「うーん……十分?」
「そんなにあんのかよ。俺、今日はちょっと風邪気味でさー」
一人が豪快なくしゃみをした。
「早く休みたいんだよなー。……ダメかな? ちょっとだけ早く上がっちゃ」
「……実は俺も寝不足なんだよな」
もう一人があくびをした。
「……いいよな」
「……ああ。どうせ、誰もこんなとこから入って来ないって」
体調不良の二人組は意気投合し、そのままどこかへ行ってしまった。その隙に私は外に出る。入ってくる人じゃなくて、出て行く人がいるなんて、あの二人は夢にも思わなかったみたいだ。
外に出た私は、辺りをキョロキョロと見渡す。デュラン家はどっちの方角かしら? 大きな通りに行って、道を尋ねないと……。
「そんなところで何を?」
不意に、後ろから声をかけられた。まだ門の辺りにたたずんでいた私は、反射的に振り向く。
相手は中年の女性だった。ニューゲート家の使用人の制服を身につけている。私の心臓が早鐘を打った。
「あっ、待ってください!」
何も考えず全力で駆け出した私の後方から、女性の声がする。でも、止まるわけにはいかない。私は、早く帰らないといけないんだ。母様の待つ、あのデュラン家へ……。
「うわぁっ!」
叫び声と馬のいななきがした。体に衝撃を覚え、気が付いたときには、私は宙を舞っている。
そのまま地面に体を打ち付けた感覚を最後に、私の視界は真っ暗になり、何も考えられなくなった。