変人貴公子と女神の母(1/1)
「実は一度、あなたと二人で話してみたいと思っていたんですよ」
女神のお母様と一緒にボートに乗った僕は、オールを握りながら話を切り出した。
「あら、奇遇ね。私もよ」
お母様は微笑んだ。こういう顔をすると、ますます女神にそっくりになる。やっぱり親子だからだろうか。と言っても、女神の方が綺麗だけど。
「女神のことについて、何か言いたかったんですか?」
「ええ、もちろん」
お母様は僕の目をじっと見た。
「あなたがニューゲート城へ私を迎え入れてくれたのも、全部あの子……ディアーナが欲しかったから。そうよね?」
「はい」
僕は肯定した。お母様は、「あなたって正直ね、ラフィエル様」と言う。そして、探るような目つきになった。
「あなたはディアーナが好きなのかしら?」
「彼女に恋をしているのか、という意味でしょうか。それなら、分かりませんと答えるしかありません」
僕は、池の縁辺りで使用人に出してもらった椅子に座って休んでいる女神を眺めた。
「女神は僕にとって『女神』でしかないんです。彼女は僕のことが好きなようですが」
「あらあら、相手にだけ心の内を告白させるなんてひどい人」
「……そんなに大切でしょうか。自分の気持ちをはっきりさせるのは」
なじられて、僕はオールを漕ぐ手を一瞬止めた。
「あなたは言ったそうですね。僕が女神に恋をしている、と。何故そんな風に考えたのですか?」
機会があれば一度聞きたかった質問だった。
「何となくそう思っただけよ」
でも、お母様は曖昧な答えしかくれなかった。ハリのない手をそっと水面に浸けて、水をすくっている。
「それでも、間違っていないと思うわ。だって、好きでもない相手にこんなに執着したり、尽くそうとしたりするかしら?」
「僕は女神が大切だからそうしているだけです。それが恋ということでしょうか」
「やっぱりあなたって変わり者ねえ」
お母様は自分の手のひらからこぼれ落ちるキラキラとした水を見つめて、軽く笑った。
「これじゃあ、あの子をよろしく、なんて言えないわ」
お母様は挑むような目つきになる。僕は体を硬くした。死期の近い病人がこんな好戦的な眼差しを向けてくるなんて、思ってもみなかったことだ。
義娘たちにいじめられて衰弱してしまったと聞いていたから、お母様はきっと繊細な人なんだろうと思っていたけど、どうやらそんなこともないのかもしれない。
もう死を覚悟しているから開き直った態度を取っているんだろうか。もしくは、娘を思う親心が彼女を奮い立たせているのかもしれない。
どちらにせよ、あまり舐めてかからない方がいい相手みたいだ。僕は緊張しながら口を開く。
「あなたが何と言おうが、僕は女神を手放すつもりはないのですが」
「ディアーナの意思とは関係なく?」
「女神の意思? 女神は僕と離れたいと考えているんですか?」
うっかりとオールを取り落としそうになった。慌てて持ち手を握り直し、姿勢を正す。
「どうしてですか。今までずっと傍にいてくれたのに、どうして今さら離れようとするんです」
そう言いながらも、女神が「うちに帰して」と言っていたことを思い出して、息が止まりそうになる。
女神はもはや僕の頭の中だけにいる存在じゃないんだ。だから自分の考えで動くことがあってもおかしくはない。
最近の女神はずっと僕の手の届く距離にいたから、そんなことはすっかり忘れていた。
「女神は僕のことが好きなのに、僕と離れたいと思っているんでしょうか。僕と離れた方が幸せだと感じているんでしょうか」
僕は呆然としながらお母様に尋ねる。
「そんなことってあるんでしょうか」
「……ラフィエル様、好きな人と一緒にいるからって、幸せになれるとは限らないのよ」
お母様が疲れ切ったような仕草で首を振る。
お母様の経歴を考えれば、これ以上説得力のある言葉もなかった。僕は動揺せずにはいられない。
「ラフィエル様、あの子の幸せは何なのか、よく考えてみて」
お母様が僕の手を握ってくる。痩せているのに、何て力強い手なんだろう。思わず息を呑んでしまう。
「あの子を決して不幸にしないで。……これは、私があなたに送る遺言よ。覚えておいて」
そう言ったお母様の目はどこまでも慈愛に満ちていた。先ほどの鋭い視線といい、どうして母親というのはこんなにも強いのだろう。
僕は今になって、女神が何故あんなにこの人に入れ込んでいたのか理解した。こんなにも愛してくれる相手をないがしろにするなんて、絶対にできそうもない。ここまで自分を思ってくれる母親を持てた女神には、うらやましささえ感じてしまう。
「僕にもあなたみたいなお母様がいればよかったですね」
言いながら、僕は水面を見た。女神の幸せ。それは一体どこにあるんだろう。
僕の傍? それとも……。
答えは出ない。結局僕たちはそれ以上は何も会話せずに、ちゃぷちゃぷと水の音を響かせながら岸へと戻っていった。




