母様の好きなこと(1/1)
その翌日から、宣言通り、私はコマドリの館に移り住むことになった。母様の隣の部屋に居室をもらって、そこに調度品だの何だのが運び込まれていく。丸一日がかりの作業だった。
「お嬢様、お夕食の前に軽く散歩をしないかって旦那様がおっしゃってましたよ」
私の新居に入ってきたタニアさんが言う。
「お外は寒いですからね。上着を持って行ってください。どれがいいでしょうか?」
タニアさんがクローゼットを開けて服を探す。
たくさんの侍女たちがいなくなった代わりに、新しく私のお世話係になったのはタニアさんだった。
ラフィエルさん曰く、「侍女の仕事なんてそんなに難しくないんですから、『取扱注意』さんでもできますよ」とのことらしい。
でも、当の本人は私の服についていた装飾をホコリと間違えて引き千切ったり、足首にネックレスをはめようとしたりと、いつも通りだった。
今も、クローゼットから雪崩れてきた服の山にすっかり埋まってしまっている。
「じゃあ、行ってらっしゃい!」
私も手伝って何とか服を元に戻し、タニアさんに見送られてコマドリの館の門を潜った。占い師たちの言った通りに重い雲が立ちこめる曇り空の下で、ラフィエルさんが待っている。
「ラフィエルさんの方のお引っ越しは終わったの?」
「はい、僕はそんなに色々とものを持ち込まなかったので」
「私もそれでよかったわよ?」
そんな他愛もないことを話しながら、私たちはニューゲート城の庭園を目的地もなくブラブラと歩いた。
辺りの樹木の中には、黄色っぽい色に紅葉しているものもある。その木々がまるでゲートのようになっているところを抜けると、大きな池に出た。
「そういえば母様が、窓からこの池が見えたって言ってたわ」
池の中程には、様々な種類の鳥がとまっている木の彫刻が置いてあった。その木の枝の先から、噴水のように水が噴き出している。
「母様はもっと近くでこの池を見てみたいって言ってたけど……ダメよね、そんなことしちゃ。あんまり出歩くと体によくないわ。絵でも描いて見せてあげようかしら」
「絵なんかより、実物の方がいいんじゃないですか」
ラフィエルさんが水面にそっと指先を浸けた。
「目で見えるだけで触れないのは、実在しないのと同じです。僕だって、女神が絵本の中だけの存在なら、ここまで崇拝はしていませんでしたよ」
ラフィエルさんは立ち上がると、私の手を軽く握った。
「それでもいいと言う方もいるでしょうが、君のお母様はどうなのでしょう。庭に生える芝生の柔らかさも、この池の水の冷たさも、もっと身近で感じてみたいとは思っていないのでしょうか」
「でも、母様にあんまり無理させちゃ……」
「無理はできる内にしておくものですよ。君のお母様、長くないんですから」
ラフィエルさんはいつもみたいにはっきりと言い切った。私はラフィエルさんの手ひらの中から自分の手を抜くと、池の縁にしゃがみ込んで、水面をじっと見つめる。
「どれくらい持つのかしら」
母様の残りの命が少ないと聞いても、私は前みたいに取り乱したりしなかった。きっと、いつの間にか覚悟ができてしまったんだろう。
それに、母様自身がこの運命を受け入れているんだ。だったら外野の私がとやかく言うべきじゃないのかもしれないとも思っていた。
「先生の話によると、来年の紅葉は見られないかもしれないとのことです」
「そう……」
ポトリ、と瞳からしずくが落ちて、水面に波紋を立てる。池に映っていた私の顔が歪んだ。
「女神、手を尽くした結果がこれです。どうか許してください」
すすり泣く私をラフィエルさんが後ろから抱きしめて囁いた。
「分かってる、分かってるわ……」
私は泣きじゃくりながらラフィエルさんの腕をぎゅっと掴んだ。もう覚悟はできている。
でも、だからといって、母様が私の傍から永遠にいなくなってしまうことに何も感じなくなったわけじゃない。
胸の内にしまわれていた悲しみが涙になってどんどん溢れてきてしまう。そんな私の傷心を慰めるように、ラフィエルさんが優しく頭を撫でてくれた。
「……私ね、ラフィエルさんには感謝してるの」
悲しみが癒える気配は一向になかったけど、そうされている内に少しずつ涙も止まってきて、私は目元を軽く擦る。
「母様、自然が好きなのよ。だから緑がいっぱいのニューゲート家に来られて、すごく喜んでいたわ。元気だった頃は、よくピクニックにも行ってたのよ」
「では、このお庭巡りをしてみましょう」
ラフィエルさんが辺りを見回しながら言う。
「女神の言う通り、大人しく寝ていればお母様の寿命も少しは伸びるかもしれません。ですが、自分のしたいことを何もかも我慢してまで保った命に、一体何の価値があるんでしょう。どうせなら楽しく生きて、喜びの中で死んでいきたいじゃないですか」
ラフィエルさんはきっと、嫉妬にまみれたまま亡くなってしまった彼の母様のことを思い出しているんだろう。確かに非業の死と言えなくもない最期だ。
「そうね……」
私はラフィエルさんの腕に額をこすりつけながら、ゆっくりと頷いた。
「そうなのかもしれないわね」
自然と触れ合うこと。それが母様の望みなら、叶えてあげたい。残り少ない人生の最後の思い出に、母様の好きなことをさせてあげたかった。




