お買い上げされました(2/2)
「……お買い上げ、ありがとうございます」
奴隷商が引き揚げていく。荷馬車が揺れる音を聞きながら、私はニューゲート家の当主の青年に、形ばかりの礼を言った。
青年はそれに応えない。ただ、黙って私の方を見ている。
そんな反応を見せているのは、彼だけじゃなかった。周りの人たちも、私と青年の様子を興味津々な目つきで眺めている。
でも、それも無理もないのかもしれない。だって、彼みたいな大貴族は普通、奴隷商からみすぼらしい娘を言い値で買ったりしないだろうから。一体何が始まるんだろうって好奇心を覚えてしまっても仕方なかった。
……ううん、今はそんなことを考えてる場合じゃない。せっかく檻から出られたんだから、早くここから逃げないと。
「こちらへ」
私が隙をうかがっていると、ようやく青年は口を開いた。それと同時に手首を掴まれる。青年は、私をどこかへ連れて行こうとしているみたいだった。
「あ、あの……?」
「建物の中に入ります。君は見世物ではないので」
私の質問に先回りして青年が答える。……どうしよう。こんなにしっかりと掴まれてたら、逃げ出せない。
……いや。逃げ出そうなんて考えはよくないか。一応、私はこの人に助けられた形なんだから。事情を話して、正式に解放してもらった方がいいのかもしれない。
「すみません、ニューゲートさん、あの……」
「ラフィエルです。他人行儀な呼び方はやめてください、女神」
「は、はあ……」
私はつい間の抜けた返事をしてしまった。他人行儀もなにも、さっき知り合ったばかりなのに。
それに私を『女神』って呼ぶなんて……。きっと、夜の聖女が女神の化身だからそんな風に表現したんだろうけど、彼女とは髪色以外何一つ共通点がない見苦しい容姿の私には、全然似合わない言葉だった。
でも、嫌味というわけじゃなさそうだ。
この人、もしかして変わり者なの? 大貴族で女好きで変人で……。忙しい人だ。
「あの、ラフィエルさん」
拒否する理由もないので、私は青年のことを教えられた名前で呼んだ。
ラフィエルさんに連れられた私は、館の中にいくつかあると思われるホールの一つに入っていた。華やかな丸い空間を横切る私たちの後ろからは、ラフィエルさんの従者が適当な距離を空けてついてきている。
ホールにいる人たちが、何事だろうという目をこちらに向けていた。やっぱり私は、どこにいても目立ってしまうみたいだ。
「ええと……私を助けてくれてありがとうございます。でも私、どうしても家に帰らないといけないんです。ラフィエルさんが奴隷商に払ったお金は必ず後で返します。ですから……」
「……帰る?」
私の言葉を聞くなり、ラフィエルさんの足が止まった。
「帰るって、どこに帰るんですか。君の居場所は、今日から僕の隣ですよ」
「えっ……?」
「奴隷商には、随分手ひどく扱われたようですね。髪もそんな風にされてしまって。ギヨーム、急いで湯の支度を。それから服の用意も……」
「あの、待ってください!」
一人で話を進めるラフィエルさんを私は遮った。何が何だか、さっぱり分からない。
「『君の居場所は、今日から僕の隣』ってどういうことでしょう?」
「そのままの意味ですが」
ラフィエルさんは、どうして私がこんなことを言い出したのか理解できないみたいだった。
「君は夜の聖女。女神の化身です。現実の世界でも会えるものなら会いたい。会ったなら、ずっと傍に置いておきたい。昔から、そう思っていました」
……何言ってるの、この人。
確かに私の髪は夜の聖女と同じ黒色だ。でも、それ以外に私と夜の聖女を結びつける要素は何もない。なのにこの人は、私を本物の夜の聖女だと思い込んでいる。
しかも、『現実の世界でも会えるものなら会いたい』なんて、訳の分からないことまで言い出す始末だ。
どうしよう……。もしかしてこの人、変わり者じゃなくて、少し狂ってるんじゃ……。
そう思ったら、急に鳥肌が立ってきた。早くこの人の傍から逃げないと、と焦ってしまう。
「あの、私は夜の聖女でも女神でもありません」
私は、噛んで含めるように説明した。
「普通の人間です。あなたが欲しいと思っている女神とは違うんです」
「いいえ、君は女神です」
でも、ラフィエルさんは頑固だった。こういう人には理屈で説明しても無駄なのかもしれない。
それなら……と、今度は別の方向からアプローチすることにした。
「ラフィエルさん……。私、病気の母がいるんです」
私は努めて悲しそうな顔をしようとした。
「家には母の面倒を見てくれる人は誰もいません。私が帰らないと、取り返しのつかないことになってしまうかもしれないんです」
「そんなの放っておきなさい。血の繋がりが何だというんです。病気になったのも、それで死ぬのも、どうせ自業自得ですよ」
「なっ……」
あんまりな発言に、一瞬、頭が真っ白になった。
「何でそんなこと言うの!? この冷血漢! あなた、それでも人間!?」
思わず敬語をかなぐり捨てて、私は青年を睨みつけた。
「母様は私の世界で一番大切な人よ! 放っておけるわけないじゃない!」
「何を言ってるんですか。君の世界で一番大切な人は、この僕です」
ラフィエルさんは顔色一つ変えなかった。従者の方に視線をやる。
「ギヨーム、何をしているんです。早く僕の命令を実行に移しなさい。湯浴みの用意と服の手配、それから食事の準備を」
「は、はい、旦那様!」
従者は、一つ結びにした栗色の髪をなびかせながら、急いで私たちの脇を通り過ぎていく。私は「離して!」とラフィエルさんの手を振りほどこうと必死になっていた。
「私を家に帰して! 母様のところに!」
「できません」
強い力で引っ張られた。あっ思ったときには、間近にラフィエルさんの整った顔がある。
「僕には君しかいませんでした。君にだって、僕しかいないでしょう?」
ラフィエルさんの深い青の瞳は、情熱的に燦然ときらめいていた。
背筋を嫌な汗が伝う。
どうやら私は、とんでもない人に捕まってしまったみたいだった。