出発の日(1/1)
その日から、ニューゲート城へ向けて出発する準備が慌ただしく始まった。
といっても、私のしないといけないことは、そんなに多くなかった。私室を綺麗に掃除したくらいだ。
身の回りの品をまとめようにも、私物なんてほとんどなかったし、ラフィエルさん曰くニューゲート城には何でもあるらしいので、特別に用意するものも思いつかなかった。
大変だったのはラフィエルさんの方だ。馬車を手配し、医療関係者を何人も呼び寄せ、打ち合わせと言っては、しょっちゅう私に会いに来る。
でも、全然疲れていないし、むしろ生き生きとして見えるのが不思議だった。この人、多分この状況を楽しんでいるんだろう。
そんな日々がしばらく続き、ようやく準備が整ったのは、夏の気配がすっかり消え、日中でも気温の低い日が続くようになり始めた頃のことだった。
「じゃあね、ディアーナ」
出発の日の朝。私が談話室の前を通りかかると、レイラさんが声をかけてきた。室内には、ばあやとナンシー姉様もいる。窓の外からは、使用人が薪割りをしている音が聞こえてきていた。
ラフィエルさんは色々な気遣いを見せてくれたけど、デュラン家に人を派遣して、私を家事から解放してくれたのもそんな心配りの一つだ。
今まで私がしていた料理や掃除や洗濯は、今では皆ニューゲート家の使用人がやってくれている。
それだけじゃなくて、ラフィエルさんはナンシー姉様とレイラさんにたくさんの贈り物もしていた。
ドレス、装飾品、珍しいお菓子、金貨……。そんなものをずらっと目の前に並べられた二人は、すっかりお祭り気分になっていた。
私をいじめることも忘れ、毎日のようにどこかの夜会や舞踏会に出かけている。こんな風に家にいるところを見るのは、久しぶりだ。
「でも、あの人も変わってるわね」
談話室のソファーに腰掛けたナンシー姉様が、太い首を傾げている。
家具がほとんどなかった談話室は、ラフィエルさんからの贈り物で溢れかえって様変わりしていた。真新しくて値が張る椅子やテーブルが置かれ、壁には絵画まで飾ってある。
でも、床板や壁は相変わらずオンボロのままだから、何だかチグハグな印象を受けた。
「あんたみたいなブス、どこが気に入ったのかしら? 黒髪ってこと以外は、何の価値もないのに。それを連れて帰って愛人にするなんて……」
ナンシー姉様たちは完全に私とラフィエルさんの仲を誤解していた。今回の引っ越しも、私がラフィエルさんに見初められたからだと思ってる。
「きっとすぐに捨てられて帰ってきますよ」
ばあやが意地悪な声で言った。
「そしたら、あたしが代わりにあの人の恋人になるんだー!」
浮かれた声を出しているのはレイラさんだ。レイラさんは、テーブルの上に置かれた彫刻を見ていた。
「ねぇ、これ、とっても綺麗! あの人、あたしに気があるから、こんな素敵なものをプレゼントしてきたんだよ!」
レイラさんがうっとりと眺めている彫刻は、昨日ラフィエルさんが手ずから持ってきた『右翼の天使』という作品だった。
頭部と左側の翼が欠けている天使の立像で、高さは大ぶりな本くらいありそうだ。珍しい水晶を切り出して作ったらしく、ほんのりとピンク色をしていて、向こう側が透けて見えている。
――『左翼の天使』という、これと対になっている作品もあるんですよ。どちらもニューゲート家の宝なのですが、特別に差し上げます。
ラフィエルさんはそんなことを言っていた。
いくらなんでもそんなものをもらうことはできないと私は拒否したけど、ナンシー姉様やレイラさんはすっかりこの美しい作品の虜になってしまい、結局は押しつけられるような形で受け取ることになってしまったんだ。
「お嬢様、そろそろ出発しようと旦那様がおっしゃっています」
ギヨームさんが迎えに来る。私は彼について談話室を出た。姉様たちは見送る気もないのか、部屋に残ったままだ。
みすぼらしい門の外には、何台かの大きな馬車が止まっていた。車体には、鳥の羽をかたどった紋章が描かれている。
「母様は?」
「すでにご乗車なさいました。先生方も一緒ですよ」
ギヨームさんが前から二番目の馬車を手のひらで示す。
「旦那様がお待ちです、さあどうぞ」
ギヨームさんが一番前に止まっていた馬車のドアを開け、私は中に入る。ギヨームさんは、そのまま後ろにある立ち台に向かっていった。
「いよいよ出発ですね、女神」
クッションを膝に置き、座席にもたれかかっていたラフィエルさんが楽しそうに言った。
「素敵な日々の始まりです」
馬車がゆっくりと動き出す。
十年間住んだ家を離れ、変人貴公子の住むお城で暮らすことになった私は、期待と不安を感じながら、馬車から伝わってくる振動に身を任せていた。