もうあんな人の顔は見たくない(1/1)
私たちがデュラン家へつく頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。呼び鈴を鳴らすと、中から「はーい」という、疲れ切った男性の声がする。
「ああっ、旦那様とお嬢様! や、やっとお帰りで……」
出てきたのは、ラフィエルさんの従者のギヨームさんだった。体中に土だか何だか分からない汚れがついていて、脚衣の腿の辺りが濡れている。
それを見たラフィエルさんが眉をひそめた。
「どうしたんです、ギヨーム。土遊びでもしていたんですか。呑気な人ですね」
「わ、私は真面目に働いておりました」
ギヨームさんは、控えめな口調で抗議した。
「初めはきちんとお嬢様のお母様の診察をする先生のお手伝いをしていたのですが、『もういいから下がりなさい』と申し付けられたので、その通りにしたんです。そうしたらお嬢様のご姉妹が、『お腹が空いた』とか、『床に汚れがついてる』とか言い出して……。ですが、それを処理してくれる方がこの家にはいないので、私にお嬢様を呼び戻すように命じたのです。私、それはできかねます、とお答えました。そうしたらあの二人、『それなら、あんたが代わりにやりなさい』と……」
ギヨームさんは、生真面目にもそれを実行したんだろう。
「料理、掃除、洗濯、畑仕事、ばあやさんの肩もみ……。ああ、破れた下着の修繕もしました」
ギヨームさんの頬が赤くなる。
「私だったら、こんな生活は何日も続けていられません。なのにお嬢様は、聞いたところによるとそれを五年間も……。なんという忍耐力でしょう!」
ギヨームさんが尊敬と同情の入り交じった目で私を見てきた。
「ご苦労様です、ギヨーム。手当ては弾みますよ」
ラフィエルさんが従者をいたわる。そのまま、遠慮なく中へ入っていった。
「女神、お母様のお部屋は?」
尋ねられるままに案内する。ノックをすると、出迎えてくれたのはラフィエルさんの主治医だった。
「お帰りなさいませ、旦那様、お嬢様」
先生が恭しく脇に退いて、私たちは入室した。
母様はベッドから上半身を起こしていた。私が出かける前より顔色が良くなってる……っていうのは多分気のせいなんだろうけど、それでも、具合は悪くなさそうで一安心だ。
「あなたが女神のお母様ですか」
ラフィエルさんが母様のベッドに近寄った。母様が「女神?」と呆けている。
「い、いいの! 気にしないで!」
私は慌てて二人の間に割って入った。でも、ラフィエルさんは止まらない。
「女神が言っていました。確かに美人ですね。健康体になれば、もっと綺麗になりそうです」
ラフィエルさんはいつも通り思ったことをそのまま話して、「先生」と医師を呼ぶ。
「どうなんです、お母様の体は」
先生はそっとラフィエルさんに歩み寄り、耳元で何かを告げた。「なるほど」とラフィエルさんが頷き、私に向き直る。
「女神、残念なお知らせです。君のお母様は、もう長くはないそうです」
ラフィエルさんの正直な発言に戸惑っていた私は、頬を平手打ちされたような衝撃を覚える。
もう長くない……?
「ですが、もう少し環境のいいところで過ごせば、あるいは……」
「出て行ってよ!」
背中を冷たいムチで叩かれたように、私はラフィエルさんの体をドアの方へ向けて押した。
「どうしてそんなこと言うの!? 失礼だわ!」
「失礼と言われても、それが本当の……」
「黙ってよ! どこかへ行ってちょうだい!」
さんざん喚いて暴れて、私はラフィエルさんと先生を母様の部屋からつまみ出した。荒い息を吐いていると、ドアの向こうから声がする。
「女神、話はまだ終わっていません。門の前に止めた馬車で待っています」
続いて聞こえてくる足音。それが段々小さくなり、やがて何の音もしなくなる。
でも、誰が行ってやるもんか。もうあんな人の顔は見たくない。よりによって、本人の前でこんなことを言うなんて。
「母様……」
私は顔を歪めて母様のベッドに近寄った。そのまま、シーツに突っ伏す。
「ごめんなさい。本当にごめんなさい……」
「……ディアーナ、顔を上げて」
優しい声と共に、頭を撫でられる感触がした。
「いいのよ。自分の体のことだもの。母様も、薄々そうじゃないかって気がしてたのよ」
私は身を起こす。母様の目はどこまでも静かだった。自分の運命を受け入れている人の眼差しだ。
「あの男の人がラフィエル様ね」
母様が微笑み、頬がバラ色に染まる。一瞬、元気だった頃の母様の面影がそこに重なった気がした。
「先生が色々とお話ししてくれたわ。本当に変わり者ね。ディアーナは女神って呼ばれているの?」
「……あの人、ちょっとおかしいから」
私が呟くと、母様が笑った。
「ラフィエル様は、きっとあなたに恋してるのね。だから女神なんて呼ぶんだわ。父様も、母様を口説くときはいつも、『私の愛しい女神』って言ってたのよ」
「恋じゃないわ。あれは妄想よ」
そんな風に言ってしまった後で、胸の辺りに妙な軋みを感じる。そのことに、私は少し狼狽した。
同時に、『妄想』という言葉にどこか引っかかるものを覚える。ラフィエルさんもそんなことを言っていた。君も妄想を抱えてる、って。
「あら、素敵な妄想じゃない」
母様はクスクスと笑っている。まるで少女のような表情だった。
「母様は嬉しいわ。ディアーナは長い間、辛い環境に置かれていたんですもの。何か気晴らしが必要だと、ずっと思っていたのよ」
「そんなのいらないわ」
私は母様の手を握った。
「私には母様がいるんだもの。母様が私の一番よ」
本心からの発言だった。でも、母様は悲しそうな顔になる。
「ディアーナ、ごめんね。母様が、あなたを縛っているのよね」
「縛って……?」
私は動揺する。そんな台詞が母様の口から出てくるなんて、思ってもいなかった。
「でもディアーナ、あなたはもうすぐ自由よ。母様がいなくなったら……」
「いなくなったりしないわ!」
私は思わず悲鳴のような声を上げた。
「しっかりして、母様! 母様のいない生活なんて、私、考えられないわ!」
私は立ち上がり、ドアの方へ駆け寄る。母様が「どこへ行くの」と尋ねてきた。
「ラフィエルさんのところ!」
私は半ば投げやりな気持ちで答えた。
「母様のことで、まだ何かあるって言ってたわ! もしかしたら、治る方法を知ってるのかも! それを聞いてくるのよ!」
もう顔も見たくないと思っていたけれど、母様のために私は廊下へと飛び出した。