夜の聖女(1/2)
小さなハサミの刃を閉じると、ハラリ、と私の頭から髪の束がいくつか落ちた。
「今回はこのくらいでいいかしら……?」
机の上に落ちた自分の黒い髪を一本も残さないように丁寧にかき集め、それを束にして紐で縛る。明日の朝、朝食を作り終えたら売りに行こう。そんなに長いものはないけど、高く買い取ってもらえるかしら?
ハサミを片付けながら、私はほとんど丸刈り状態の自分の頭を何気なく触った。チクチクと、まるで生えたての芝生のような感触がする。
手のひらを見ると、少し血がついていた。さっきハサミを入れるのに失敗したときの傷かもしれない。私は汚れた手を、ぼろ切れのようになった服の裾で拭った。
「ディアーナ! ちょっと来なさいよ!」
大声で私を呼ぶ声が聞こえてきたのは、そのときだった。かなり機嫌が悪そうな声色だ。髪の束を机の引き出しにしまい、私は慌てて席を立った。
「ディアーナ! これ、どういうこと!? あたし、『胸元にサファイアのブローチをつけて』って言ったじゃん!」
談話室に入るなり、怒った顔でドレスを握りしめている少女の姿が目に入った。私の妹のレイラさんだ。
「それからこの袖のところの布! もっと濃いピンクじゃないと嫌! フリルの数だって少ないし!」
レイラさんは、私が三日徹夜して作ったドレスを床に放り投げた。私はそれを拾って、肩を竦める。
「宝石やフリルをつけるには、お金が足りなかったの。布も、売っていた中で一番色が濃いものを買ってきたんだけど……」
「知らないよ、そんなの! 作り直してよ! 舞踏会は明日なんだよ! これじゃ、男の人たちの気が引けないじゃない!」
「男の人たちの気を引く?」
野太い嘲笑が響いた。笑っているのは、室内にある数少ない家具のソファーにどっかりと座ったナンシー姉様だ。
ナンシー姉様も、私が作ったドレスを太い膝の上に乗せていた。きっと、二人で見せ合いっこでもしていたんだろう。
「あんたじゃ、国で一番高いドレス着たって無理よ。まだ十三歳のお子ちゃまじゃない」
「後一ヶ月で十四歳だもん! そしたら、もう成人じゃん!」
言い返すレイラさんに対し、ナンシー姉様はさらに大きな声で笑って、これ見よがしに深い胸の谷間を強調するポーズを取った。
「そういうこと言ってんじゃないのよ。あんた、鏡見たことないの? そんな寸胴じゃ、誰も相手してくれないわよ。あたくしみたいな大人の色気、どこにも漂ってないじゃない」
「お姉様は、ただ太ってるだけじゃん!」
「なっ……もういっぺん言ってみなさいよ!」
売り言葉に買い言葉。二人は私の存在を忘れて、口げんかを始めてしまった。いつもの光景だ。
「お嬢様方、落ち着いて」
この隙に退散しようと後ずさりしかけていると、部屋の奥からばあやがやって来た。
「お嬢様方は、どちらもとてもお美しいですよ。ナンシーお嬢様は包容力があって母性的。レイラお嬢様は溌剌としていてお可愛らしい。お二方とも、素晴らしい女性です」
二人の顔つきが少し穏やかになる。ばあやは、今度は私を見た。嫌な予感がする。
「少なくとも、どこかの娼婦の娘よりはずっとお綺麗です。日焼けでカサついた肌、爪は真っ黒で服も継ぎだらけ。手足だって太いし、それにその髪型といったら、みっともないことありゃしない」
ばあやは、いつもの悪口でこっちをチクチクと攻撃してきた。私は頬を引きつらせる。
私の母様は娼婦じゃないわ! それにあなたたち、誰が髪を売ったお金で生活してると思ってるの!?
「そうね。ばあやの言う通りよ」
喉元まで出かかった言葉を、私はグッと呑み込む。ここで反発なんかしたら、何倍にもなって返ってくるのが目に見えている。
「本当、ディアーナったら、日に日にみっともなくなってるわね」
「黒い髪はお守りになるはずなのに、ディアーナのことは守ってくれないんだね!」
ナンシー姉様とレイラさんは、声をそろえて私を馬鹿にした。いつもは不仲な姉妹だけど、私をいびるときだけは息ピッタリになる。
「じゃあ、私はこれで。そろそろ母様の様子を見てこないと」
もう悪口にも慣れた私は、そのまま踵を返そうとした。その背中に、レイラさんが怒ったように声をかけてくる。
「ディアーナ! ドレス、きちんと直しておいてよ!?」
「あたくしのもお願い。ウエストの辺りがきついの」
「……ええ。分かったわ」
ウエストのサイズを直すくらいなら簡単にできそうだけど、装飾品を足すのはそうはいかないわよね……。
さっき切った髪を売ったお金の使い道が早くも決まってしまい、私はこっそりとため息を吐いた。
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「ああ……ディアーナ……。またこんなに髪が短くなって……」
狭くて日当たりの悪い部屋。私がベッドの端に腰掛けるなり、母様はヨロヨロと起き上がって、私の頭を撫でた。
「母様、寝ていないとダメよ!」
私は慌てる。案の定、母様はゴホゴホと苦しそうに咳き込み始めた。
私は母様の痩せ細った背中をさする。落ち着いた頃合いを見て、水差しをそっと手渡した。
「ごめんね、ディアーナ」
水を飲み干した母様が、涙ぐんだ声を出した。
「母様がもっとしっかりしていれば、あなたをこんな風にはさせなかったのに……。父様が死んでから、あなたには苦労ばかりかけさせて……」
母様がすすり泣く。肉がそげ落ちて、色あせた栗色の髪の母様は、実年齢よりずっと年取って見えた。昔の美しい面影がまったくないその姿に、心が痛む。
「大丈夫よ、母様。私、こんなことで負けたりしないわ」
私はいつものように、母様を励まそうとした。
「だから母様も元気を出して。……あっ、そうだ。見て、このドレス。レイラさんとナンシー姉様のなんだけど、私が縫ったのよ」
二人のために作ったドレスを母様に見せる。談話室から母様の部屋に直接来てしまったから、ドレスは小脇に抱えたままだった。
「私、昔と違って、お裁縫、とっても得意になったのよ。母様が教えてくれたお陰だわ」
「そう……」
母様の表情が和らいだ。その反応に気が緩んだ私は、困った声で付け足す。
「でも、二人は……特にレイラさんは不満みたい。もっと派手な色がいいとか、綺麗なブローチをつけろとか……」
「そんなにおしゃれして、何かあるの?」
「舞踏会ですって。ニューゲート家で開催されるらしいわ」
「あら、ニューゲート家」
先日屋敷に届いた招待状の差出人の名前を告げると、母様が目を見張った。
「あんな名門のお家が、どうしてうちみたいな小貴族を招待してくれたのかしら?」
「知らない。姉様たちは喜んでたけど」
ニューゲート家から舞踏会の招待状が来た、と伝えるなり、二人とも有頂天になったのはいい思い出だ。きっと、この機会に、お金持ちの貴族といい仲になろうって思ったんだろう。
なにせうちは、貴族とは思えないほどに貧乏なんだから。二人とも、そのことにしょっちゅう文句を言ってる。もっとお金があれば自由に遊べるのに、って。
「……ディアーナ、気をつけるのよ」
私が二人の放蕩っぷりに呆れていると、母様が心配そうな顔になる。
「ニューゲート家のご当主は、かなり女癖が悪いらしいわ。少しでも気に入った女性は、すぐに手込めにしてしまうんですって。あなたも用心してね」
「母様、私は舞踏会には行かないわ」
私は肩を竦める。
「そんなところに着ていくようなドレスも持ってないし、それに、こんなひどい見た目じゃ……」
母様が悲しそうな顔をしているのに気が付いて、私は口を閉ざした。急いで話題を変える。
「ところで母様、どうしてニューゲート家の当主のことを知ってるの?」
「母様が昔勤めていた娼館のお得意様だったからよ」
まだ憂いを含んだ顔で母様が説明してくれる。
「母様は会ったことはないけど、娼婦さんたちがそう話しているのを聞いたことがあるわ」
ばあやは母様のことを娼婦だと思ってるみたいだけど、そんなことはなかった。確かに父様と結婚する前は高級娼館で働いてはいたけれど、母様は顧客名簿の整理とか、娼婦たちのスケジュール管理とか、そういう裏方の仕事をしていたんだ。
まあ、そんなことをいくら説明しても、ばあやは聞く耳を持たないんだけど。
「私、そろそろ行くわね」
母様との短い語らいを終えた後、私はその場を後にしようとした。「もうそんな時間?」と母様が首を傾げる。
「これから、町へ行かないといけないの。急な出費をすることになったから……」
急な出費っていうのは、レイラさんのドレスを作り直すための費用のことだ。「また髪を売るのね」と母様が目を伏せる。
「ああ……ディアーナの髪色が黒じゃなかったら、こんなことをしなくてすんだのに……。それに、同じ髪を売るのなら、ディアーナ自身のために使って欲しいわ。舞踏会に行くドレスを買うとか……」
「もう、まだその話?」
私は苦笑いした。
「本当にいいんだってば。……じゃあ、また夕食のときに」
私は母様の部屋を出た。
傷んでギシギシと音を立てる床板を踏みながら、少し暗い顔になる。
……舞踏会、か。
母様にはああ言っちゃったけど、全然興味がないって言ったら嘘になる。私だって女の子だ。綺麗なドレスを着て、素敵な男性とダンスを踊るっていう状況には、心惹かれるものがあった。
でも、そんな機会、私には一生訪れないに決まってる。毎日の家事労働で真っ黒に汚れて、煤だらけになってる私が、舞踏会なんかに行けるはずがない。
日常的に力仕事をしているせいで手足も太くなってしまっているし、第一、こんな丸刈り頭に似合うドレスなんかあるわけないじゃない。
――黒い髪はお守りになるはずなのに、ディアーナのことは守ってくれないんだね!
レイラさんの嘲る声が聞こえてくる。本当にその通りだと思った。