伏魔殿――物語の始まり――
セトは泣きながら駆けた。
涙の粒が宙を舞う。しかし、彼はそんなことは気づかなかったし、気づいたとしても歯牙にもかけなかっただろう。それぐらい彼の頭の中は悔しさの一色で染められていた。
やっと肩を並べられたと思っていたのに。
友人と呼べる存在がいなかったセトは、二人の兄に置いて行かれるのが嫌で嫌でたまらなかった。独りぼっちが嫌だった。
世界の管理を任せてもらえるようになったら―――。
その言葉を信じて、ひたすらに待ち続けた。
少しでもその時を早めるために努力もした。独りで剣を振るい、魔術も修めた。優秀な息子と思ってもらえるよう、父の前では立ち振る舞いにも気を付けた。
そしてその努力が功を奏したのか、父は自分に一つの世界の管理を任せてくれた。
「この世界はお前と同じまだまだ未熟だが、無限に成長する可能性を秘めている。しっかりと管理してくれることを私は期待している」
父のその言葉は素直に嬉しかった。だがそれ以上の喜びが彼にはあった。
―――これでようやく独りぼっちじゃなくなる。
兄たちがあの「遊び」を父や他の神に秘密で行っていることは薄々、感づいていた。二人ともあの「遊び」の前には決まってどこか落ち着かなくなるし、決まって二人そろって姿を消すので、口外しているのと変わらなかったのだ。最も、父は気づいていないようだったが。
その秘密を共有できることは、セトにとっては無二の喜びであった。
だが、その喜びは脆くも崩れ去ってしまった。
「もうお前とは遊んでやれない」。たったそれだけの言葉は、セトに独りぼっちの日々を想起させ、彼の心を大いにかき乱した。もうあの日々は繰り返したくはない。
そして、焦りにも似たその思いは、彼にある一つの決意をさせた。
セトは勢いよく扉を開いた。
部屋の中は明かりもなく陰々としており、人もとい神ですらまともに脚を踏み入れたがらない場所であることを明示している。
部屋の中に所狭しと並べられているのは、神々が管理している世界と同じ、ビー玉の数々である。
だが、それは澄んだ青色では無い。
そこに並べられたビー玉は、どれも見るのもおぞましいほどの黒一色に染め上げられている。
セトは小さく息を飲んだ。
自分たち若年の神には入ることも許されない未知の領域。
「伏魔殿」。それがこの部屋の名前だ。
創造主たる父がこの世界を創造する際に多くの犠牲と引き換えに封じ込めたといわれる悪魔や邪神がこのどす黒いビー玉の中で今も眠り続けている。
普段はこの部屋に入るには年長の神といえども父の許可が必要で、この部屋からの持ち出しは一切、禁じられている。棚に並べられたビー玉一つ一つに眠るのは、どれも一体で悠に千の世界を滅ぼすことの出来る魔物ばかりなのだ。
セトは棚を念入りに覗き込む。
そして目的の対象を見つけると、迷わずそれを手に取った。
「僕の世界の冒険者が、魔王が弱いなら、強くするまでだよ。……誰の手にも負えないくらいに、ね」
一体の悪魔が眠るビー玉を手にしたセトは、それを持ったまま伏魔殿の外に出た。
「……見てなよ兄さんたち。今に僕の世界の悪魔が兄さんたちの勇者や魔王や精霊なんか、あっという間に倒してやるんだからね」
セトは来た時と同じように駆けだした。まだ幼さの残る笑みを浮かべながら。
これはそんな神のほんの出来心と、それに巻き込まれた冒険者志望のある少年の物語である。