【第09話】女忍の一日体験メイド(前編)
ようやく日が昇り始め、喜びが入り混じった、甲高い小鳥の囀りが耳に入る。
新たな朝に目覚めた小動物達が、雑木林の間を駆け出し、森の中を流れる川に近づいて喉を潤す。
川底に沈んだ石が見える程に、透明感のある川を上流へ辿り、森を抜けた先。
森の奥にある開けた場所に、樹々に囲まれた渓谷があった。
高い岩肌の間から、複数の滝が流れ落ち、幻想的な光景を作り出す。
流れ落ちる滝の一つに、人影があった。
天から降る冷水を、頭からその身に浴びながら、白髪の老人が瞑想をしている。
両腕を後ろに回し、直立不動を続けていた老人が、静かに目を開く。
滝の中から身を乗り出し、白い腰巻一つしか身に着けてない体を、外気に晒す。
頭髪や顎髭は老人のように白色だが、その身体は高齢を迎えたとは言えぬ程に、一切の無駄が見つからない筋肉で絞り込まれていた。
若い男性に負けぬ程の半身を晒した男性が、自ら脱いだ衣服の置かれた場所へ、濡れた足を向ける。
奇麗に折り畳まれた衣服の中から、一枚の布を取り出し、鍛え抜かれた肉体を拭き始めた。
濡れた身体を拭いていたグレンが、ふと顔を上げる。
「来たか……ユイナ」
しわがれた声を発したグレンが見つめる先、高所にある樹の枝木に足をのせて、グレンを見下ろす人影が一つ。
「はい、御爺様」
黒装束に身を包んだ怪しげな人物が、獣を模した仮面の中から発したのは、年若い女性の声。
高枝から跳躍し、空中で身を翻した人物が、軽やかに地面へ着地する。
姿勢を正し、黒いフードと仮面を外して現れたのは、凛とした雰囲気の女性。
肩口で奇麗に切り揃えられた紫髪の女性が、意志の強さを感じられる碧眼で、静かにグレンを見つめ返す。
「お久しぶりです。御爺様」
「うむ。久しぶりじゃの。ワシがここにいるのが、よく分かったの」
「はい。朝の日課で滝に打たれてると、手紙に書かれてましたので。もしかしたら、この辺りにいるのではないかと思いました」
ユイナが渓谷を見渡した後、再び祖父を下から上へ眺める。
「ですが、御爺様。もう、お年召された身でもありますので、早朝の冷水に身を打つのは、そろそろやめた方がよろしいのでは?」
「心配せんでもよい。若い頃から続けてる日課じゃ。これをやっておかねば、風邪をひくでな」
それは、むしろ逆なのでは?
祖父の返答に、ユイナは首を傾げそうになった。
霜の降りた冬の寒い時期に、日課である滝に打たれた後、高熱を出して寝込んだ日があったと話す、祖母の記憶を思い出す。
その日は少し体調が悪かっただけ、と不機嫌な顔をして言い訳をしていたと、祖母は笑いながら話していたが……。
頑固なのは、相変わらずですね。
凛とした表情は変えず、ユイナは心の中で溜息を吐く。
着替えをした祖父が、森の中を歩き始める。
ユイナも、その後をついて行く。
「あれ程、ここに来るのは嫌がっていたのに。ようやく、やる気になったのかね?」
「いいえ、御爺様。今日は、お別れの挨拶に参りました」
「なに?」
祖父が足を止め、少し驚いた顔でユイナを見つめ返す。
「御婆様には、既に別れの挨拶は済ませて来ました。王都で本格的な居住を決める前に、御爺様に顔を見せるべきだと思いましたので」
「……そうか。ルヴェン殿の屋敷で働くのは、やはり駄目か?」
「御爺様。手紙にも書いた通り、私には叶えたい夢があるのです」
「……夢か」
「はい」
冗談ではないですね。
王都でも悪名高い、見るもおぞましい醜い豚蛙の棲む屋敷に、誰が好き好んで行くものですか……。
既に予想済みの質問だったので、ユイナは一ミリも表情を変えず、予め用意していた台詞を口にした。
「戦争孤児であり、魔力の適正があるという理由だけで、血の繋がらない私をここまで育ててくれた御爺様と御婆様には、大変感謝しています……」
「うむ」
「ですが。成人の儀を迎えた私は、己の腕一本でのし上り、然るべき主君に仕えたいと願う、幼少から考えていた想いが強くなりました……。できることなら、私の我儘を聞いて頂きたいです」
「そうか……。そこまで考えていたのか……」
神妙な面持ちで語るユイナを前にして、祖父は少しだけ寂し気な顔をする。
「お前も、独り立ちしたのだ。確かに……成人となったお前が決めた人生に、ワシがとやかく言うものでは、ないかもしれんな」
背を向けた祖父が、森の中を歩き始める。
先を行く祖父の背を追いかけながら、ユイナはほくそ笑んだ。
反対されるかと思ったが、これは上手くいきそうですね。
さて、後は王都に戻って、屋敷巡りですかね。
ここに来る前、王都へ立ち寄った際、侍女の募集をしているのをいくつか見つけた。
狙っていた王家の募集はまだ無かったが、腕に自信のある護衛役の募集は、定期的にあると聞いた。
ユイナの大本命は、やっぱりラシュバルツ王家の第三王子。
爽やかなイケメンで、歳もユイナに近い。
間もなく成人の儀を迎え、それを期に多くの従業員を募集するだろうと聞かされた。
王都に飾られた王家の肖像画を眺めた時、ユイナは彼のような御主人様のいる職場で、働きたいと思った。
広い屋敷とはいえ、一つ屋根の下。
毎日のように男女が顔を合わせていれば、様々なハプニングも起こるでしょう。
暗殺者による闇夜の襲撃、そこに颯爽と現れ、身を呈して王子を守り切った謎の侍女。
そのまま王子専属の護衛役に昇格し、更に縮まる二人の距離。
お互いを意識し始めた二人は、主人と侍女の禁断の……くふふふふ。
おっと、危ない。
いつものイケナイ妄想が……。
脳内に広がった桃色の妄想を、慌ててかき消す。
「王都の屋敷で、働くつもりかね?」
「はい。そうです」
祖父から背中越しに尋ねられ、ニヤケ顔をいつもの凛とした顔に直しながら、ユイナは力強く答える。
私が狙っている職場は、時には主の盾になる護衛役だ。
命を懸けて守りたいと思う主人でないと、意味が無い。
私好みのイケメンであれば、なおさらヤル気になると言うものだが……。
一月もせずに、逃げ出す従業員が後を絶たない豚蛙の屋敷など論外だ。
あの屋敷の募集を目にした時、給料は他の屋敷に比べてもかなり良いと思ったが、高給な職場には裏があるもの……。
黒い噂が多すぎて、ここ一年は面接を申し込みする者すらいない現状に、職員が困った顔をしていたのを思い出す。
育ての親である祖父母には悪いが、ルヴェンの屋敷で働くのだけはありえない。
どんなに金を積まれても、即座にお断りです。
「屋敷で働くのなら……。どうかね、ユイナ。今日一日くらい、屋敷の仕事を体験してみるのは」
「……え?」
「一日だけなら、簡単な仕事しか経験できないだろうが。侍女として、仕事をするつもりなら。実際の現場を見て、職場の空気を肌で感じ取るのは、良い経験になるだろう……。今日は、時間が空いてるかね?」
別に急ぎの用事は無いから、時間はあると言えばありますが……。
祖父の言葉に、ユイナは少し考える。
うーむ……。
確かに、そうですね……。
豚蛙に仕えるつもりは微塵もないですが、一日だけ屋敷で働いて、実際の現場を見てみるというのは、良い経験になる気がします。
「ですが、御爺様……。いきなり、私がお邪魔するのは、先方に御迷惑が掛かるのでは……」
「それは心配いらぬ。そのうち来るだろうと思って、既にルヴェン殿には話をしている。面接も兼ねた、職場体験だと思えば良い」
「……分かりました。では一日だけ、お世話になろうと思います」
随分と手回しの良い話に、少しだけ違和感を覚えた。
とりあえず、噂の豚蛙とは直接顔を合わしたくないので、裏方の仕事を申し出ましょう。
それなら、たぶん一日くらいは我慢できると思います。
* * *
「ああ、貴方がユイナさんですか。グレンさんから、話は聞いてます。うちは、いつも人手が足らなくて……。もし良かったら、宜しくお願いしますね」
「よ、宜しくお願いします!」
ガラにもなく頬を赤く染めたユイナは、深く頭を下げる。
――魔法を扱う儀式の為と思われる――魔導石で敷き詰められた黒い床を見つめながら、ユイナは碧い瞳をキラキラと輝かせる。
うっはぁ……私好みの爽やかイケメン!
美しく流れるプラチナブロンドの髪と、澄んだ碧い瞳。
開いた魔導書を片手に、まだ若そうだが落ち着いた雰囲気と、優し気で爽やかな笑顔。
金色の前髪の中央に、チャームポイントなのか、黒色に染めた一房の髪。
イケメンだからこそ許される、オシャレな髪型。
これよ、これ。
こんな広い屋敷なら、こういうイケメンの魔導士が、一人くらいはいるのが普通よね。
爺さん婆さんばっかりのうちの里とは、やっぱり都会はレベルが違いますよね!
ムフーッ!
「朝の貴重なお時間を、お邪魔して申し訳ございません。それでは、失礼します。ルヴェン様」
「……え?」
一瞬、ユイナは隣に立つ祖父が、何を言ってるのか理解できなかった。
あれ?
ルヴェン様って……。
たしか、この屋敷の主の……世にも醜い、豚蛙の……。
思考が停止し、呆然と立つユイナの腕が力強く引っ張られ、部屋の外へ連れ出される。
背後で扉が閉まると同時に、ユイナは錆び付いた歯車の如く、ぎこちない緩慢な動きで首を横に回す。
「お、御爺様?」
何か言いたげな視線を浴びた祖父が、ユイナと目を合わせると薄く笑った。
「言ってなかったかね? 彼が、ワシが仕えてるルヴェン殿だよ」
聞いてませんよぉおおおおお!
ここが、自分と祖父の二人しかいなかった先程の森であれば、そう声に出して叫んでただろう。
口を魚のようにパクパクと開閉して、言葉を失ったユイナを気にした様子もなく、祖父が地下通路を出て行く。
ようやく自分が騙されたと気づき、文句の一つでも言ってやろうと、ユイナは口を尖らせて、祖父の背を追いかけた。
長い廊下を歩く、祖父が目に留まる。
「御爺様。一つ、聞きたいことが」
ユイナの声に反応したのか、祖父が足を止め、窓の外に目を向けて……。
「その子、新人?」
耳元で聞こえた声に、ユイナは反射的に、声がした方へ振り返る。
ユイナの目と鼻の先にあったのは、豹の頭。
いきなり視界に飛び込んだ半獣半人の姿に、驚いて目を見開いたが、それ以上にユイナが驚いたのは……。
「可愛らしい子ね。もしかして、豹頭人を見るのは、初めてかしら?」
「前に話していた、孫娘のユイナだ」
ユイナの肩に手を置いて、祖父が目の前に立つ魔族に、侍女服を着た孫娘を紹介する。
身内……なのですか?
「侍女の仕事を探していてね。今日一日だけ職場体験を兼ねて、うちで働いてもらうつもりだ……。そうだ、チェニータ君。申し訳ないが、ユイナに屋敷の案内をしてやってくれないか?」
「いいわよ。よろしくねー。ユイナちゃん」
笑み浮かべた豹頭人の女性が、優し気な声色で返答する。
表面上は冷静を保ちながら、ユイナは頭を下げた。
「宜しくお願いします、チェニータさん」
「人族のメイドさんなんて、初めてじゃない? お姉さん、張り切って案内しちゃおうかなー?」
楽し気に声を弾ませて、チェニータが背を向けた。
祖父と別れ、廊下を歩く豹頭人の背中を追いかけながら、ユイナは目を細める。
この長い廊下を、あの至近距離に詰め寄られるまで、私に接近を悟らせないとは……。
目の前を歩く豹頭人は雌型だと思うが、雄型かと見間違うほどに大きい。
ルヴェン殿の件で動揺していたとはいえ、これ程に大きな魔族の接近を、私が見逃すなんて……不覚です。
瞳を鋭くさせ、壁や天井に素早く目を向ける。
……どこから現れた?
背後へ振り返り、遠目に小さくなった祖父が、空気の入れ替えなのか、窓を閉じようとするのが目につく。
「ねぇ、ユイナちゃん。一つ、聞きたいことがあるんだけど、いいかしら?」
前を歩いていたチェニータが足を止め、クルリと身を翻す。
腰に手を当て、楽し気な笑みを浮かべる豹頭人の長身女性を、ユイナは見上げた。
「聞きたいこと、ですか? なんでしょうか?」
「雷お爺ちゃんのお孫さんだから、やっぱり腕は立つのかなって、すごく気になっちゃったの。侍女を希望らしいから。武術は、趣味でやってたりするのかなって、思ったんだけど。そのあたりは、どうなのかしら?」
「……趣味」
両手の拳を、静かに強く握り締める。
ユイナの脳裏に浮かんだのは、隠れ里での祖母との厳しい特訓の日々。
祖父母と血の繋がった養父は、戦争で亡くなった。
血の繋がりのある者がいなくなり、ユイナは成人になるまでの全てを、祖父母の技を受け継ぐ為に費やした。
侍女であれば容姿の類などで、よっぽど気に入られることがなければ、屋敷の主に近づくのは難しいだろう。
だが護衛役としてなら、常に主の傍らにいることができ、チャンスもあると言う祖母の話を真に受け、それだけを夢見て一心不乱に、あの厳しい修行に励んだ。
それを……。
私の学んだ武術が、趣味ですって?
「チェニータさん」
「なぁに、ユイナちゃん。怖い顔して……」
「王都で、この屋敷の募集を見かけた時に、侍女の仕事しか見かけなかったのですが……。護衛役の仕事は、募集する予定は無いのでしょうか?」
「護衛役? うーんと、そうねぇ……」
チェニータが人差し指を顎に当て、豹頭を宙に向けた。
しばし考えた後、近くにあった窓に近づき、廊下越しに屋敷の外を眺める。
「必要無い、からかな? ……だってさ」
窓辺に手を置いて、チェニータが振り返る。
その口元が、両頬の口角が、奇妙な程に吊り上がった。
――殺気。
いや、これは魔闘気?
目の前のいる魔族が、青い光を纏い始めたことに驚いたユイナは、無数の視線に自身が囲まれてるのに気づいた。
気配を探り、視線を素早く走らせる。
廊下の突き当たりから覗く、複数の豹頭。
窓の外に、次々と落ちる半獣半人の人影。
廊下にある全ての窓から、屋敷の中を覗き込む豹頭。
全身を突き刺すような、四方八方から飛ばされる殺気立った視線。
隠れ里の森の中で、魔物の群れに取り囲まれたのを思い出すような状況に、ユイナは拳を握り締めて身構える。
……なるほど。
屋敷の上にも、潜んでいたのか。
周辺にいる者達が反応する程に、強烈な殺気と魔闘気を放つ豹頭人を、ユイナは静かに見つめ返す。
先程までと変わらない、薄笑いを浮かべる雌型の豹頭人が、唇をペロリと舐める。
しかし、その眼は笑っておらず、蛇が鎌首をもたげて、チロチロと舌を出しながら獲物を狙うような、危険極まりない視線をユイナに向けていた。
背中を見せれば、即座に毒牙を生やした顎が、その背に食らいつくような……。
「これだけいたらね。お姉さんは、もう必要ないと思うのよね。ユイナちゃんは、どう思う?」
いつの間に抜いたのか、紫色の光沢を放つ短刀を指先で弄びながら、チェニータが優し気な声色でユイナに尋ねる。
形状からして、ククリ刀の類か。
初対面なのに、彼女らしい牙だとユイナは思った。
「私は、必要だと思いますよ」
「……ふーん。そうなの?」
「ええ。少なくとも、私なら……」
十を超える魔族の殺意ある視線に囲まれても、ユイナは動じなかった。
これはおそらく挑発の類であり、先輩から新人に向けた、洗礼のようなものだ。
こんな安い挑発ごときで、技を披露して対抗するなど、武術者の三流もいいところです。
着慣れないメイド服の皺を伸ばしたり、のんびりと手直しをした後、ユイナは不敵な笑みを浮かべる。
「この数を相手でも、正面から突破できる自信があります」
「フフフ……。良い顔をするじゃない。その笑顔、さっきまでの澄まし顔より、ぜんぜん素敵よぉ……。ゾクゾクするわぁ。今すぐ、狩りたくなっちゃうくらいに」