第7話 母性本能を擽られる、それは恋心の始まりともいう。
少し肌寒くなってきたものの、日差しがあたる日中の気温はほどよく暖く、視界に入る紅葉の彩りが季節の移ろいを感じさせます。
私たちはヘンリーお兄様の余計な提案のせいで、ピクニックを敢行する事となりました。
「ウィル、いつまでむくれているのですか?」
今日の私の装いは、胸元にフリルがたくさんついた白いシャツを着て、紺色のマキシ丈のコルセットスカートを合わせている。
そして乗馬のために、手にはやわらかな羊革の手袋、足には牛革のしっかりとした作りの編み上げのブーツを履いています。
「では、エスターはこの状況に満足なのか?」
私たちの周囲には、ヘンリーお兄様やアルお兄様達護衛陣と侍女達が遠巻きに控えていた。
もちろん遠巻きといっても視界の範疇ですし、視界に入らないところでも警護に当たっている人達もいるのです。
皆さまお忙しい最中だというのに、今回のために無理やり予定を調整したと聞きました。
誰かの思いつきのせいで、身内として本当に申し訳なく思います。
「仮にもウィルは将来の皇帝陛下です、なにかがあってはいけないでしょう」
私たちは芝生の上に絨毯を敷いて、向き合った状態で座っています。
「ならばせめて遠出をするくらい……」
どうやらウィルはレヨンドールに乗って、どこか遠くで私と2人きりになりたかったようです。
しかし、そんな事は認められるはずもありません。
そして私も断固阻止します!
「それもダメに決まってるでしょう」
ウィルだって本当はわかっているはずなのです。
それなのにこうやって駄々を捏ねているのは、最近は政務が忙しくて、どこかで羽根を伸ばして遊びたかったのでしょう。
「もう、仕方ありませんね、それよりもお弁当食べなくていいのですか?」
風で揺れる髪を私は手で押さえ、少し俯いたウィルを覗き込むように見上げる。
私と視線のあったウィルは、咄嗟に顔を横に逸らしました。
「む……エスター、まさかとは思うが、誰にでもそのような仕草を……いや、まぁいい」
ふふん、なるほどなるほど。
どうやら私の顔が咄嗟に近づいた事で、逆にウィルは面食らって引いてしまったのでしょう。
ここのところ、やたらとウィルが距離を詰めてくるので少し焦りましたが、どうやら自分から距離を詰められるのは苦手なようです。
攻撃は最大の防御と言いますし、最初から受け身に回るのではなく、こちらから攻めればよかっただけなのだと今更に気がつきました。
「何のことです?」
私は絨毯の上に手をつき、四つん這いのままウィルに近づく。
「え、エスター、待て! その体勢は不味い」
チラチラと一点を見るウィルの挙動不審な視線の先を確かめます。
どうやら何かの拍子に、偶然にもボタンが一つ外れてしまったのでしょう。
シャツの隙間から見える谷間に、私の顔が熱くなる。
「……ウィルのえっち」
私は慌てて片手で胸元を隠し、少し仰け反って後ろに距離を取る。
「いや、いやいやいや、完全に不可抗力、寧ろ私は被害者と言ってもだな」
「被害者……そうだよね、ごめんねウィル、見たくもないものを見せて」
いくら薬で女性の体になっているとはいえ、私のおっぱいは元は男のおっぱいです。
ウィルは私が男だとは知らないけど、もしかしたら本能的な何かで嫌悪感を感じたのかもしれません。
「いや、見たくない事はないんだぞ、寧ろ見たいというかだな」
「……やっぱりウィルのえっち」
遠くで笑いを堪える集団の姿が目に入る。
あの人たち、警護とか言っているけど、本当に警護しているのか多少不安になってきました。
今、襲撃されたら絶対に誰も止められない気がします。
でも、よく見るとアルお兄様だけは至って普通に警護していました。
さすがアルお兄様だけは頼りになりますね。
ウィルもそれに気づいたのか、腹を抱えて笑い転げるウィルフレッド様に殺気を飛ばしていました。
「コホン……それはもういい、弁当、そうだ弁当を食べよう」
何か誤魔化されたような気もしますが、いいでしょう。
それにしてもウィルは、本当に食いしん坊さんですね。
私は後ろを向くと胸のボタンを留め直し、カゴのバスケットを手に取る。
「どうぞ」
バスケットを受け取ったウィルは、留め金とベルトを外し蓋を開く。
「おぉ!」
バスケットの蓋の内側には、取り皿とナイフやフォークが革のバンドで固定されており、箱の内側には、布地の上にサンドイッチ、蓋がついた瓶詰めの容器にスープやサラダ、キッシュなどが敷き詰められています。
苦労しましたが、今回は私がメインで料理を用意しました。
まぁ、皇宮お抱えの料理人や、侍女達にも手伝ってもらいましたけどね。
「よし、それではまずキッシュを頂くとしよう」
このジャガイモとベーコンの一口サイズのキッシュに用いられた食材のほとんどは、皇城や皇宮がある門壁の内側で栽培された物、飼育された畜産物のものが使われています。
基本的に皇族の方の食事は、安全のために特別な食材以外はそういう配慮がなされていますが、外での会食や他国、他領での食事などもあるので、一概に全ての食事がそうというわけではありません。
現に、以前皇后さまが私にもてなしてくれた料理は、サマセット公爵領の物が使われてました。
ただウィルが皆に隠れ、外でこっそりと買い食いしてるのは間違いなく問題でしょう。
まぁ、あの時に同行していたのはエステルなので、エスターの私は知らないという事にしておきます。
「ハーブの香りがするな」
「ローズマリーの香りです、もしかして苦手でしたか?」
このローズマリーもまた皇宮の裏庭に自生したものです。
今回の料理のために、エマと一緒に摘みに行きました。
「いいや、ジャガイモにローズマリーの組み合わせはよく合う、それに、ローズマリーには悪魔払いの効能があるとも言われてるし縁起物だ」
キッシュを食べ終わったウィルは瓶詰めのサラダを手に取り、そのうちの一つを私に手渡す。
私はその間に固定されたベルトを外して、フォークを取り出しました。
「ソースがいいな、これはマスタードソースか? それにしては何時もと少し味が違うような……」
サラダを一口食べたウィルは、フォークの先端でソースを掬いペロリと舐める。
「はい、マスタードの原材料となる種の種類が違います、これは東方から入ってきたものですよ」
「気に入った、次からは料理人にこちらのソースを使ってみるように言ってみよう」
ふふーん、ウィルは絶対こっちの味の方が好きだと思ってたのですよ。
ウィルは野菜でうまくソースを絡めとり、一滴も残さず綺麗に食べきりました。
続いて私達は、瓶詰めされたきのこのクリームスープに手を伸ばす。
「季節を感じる味だが……どこか少し懐かしさを感じる味でもある」
「……これは生前、母がよく私とエステルに作ってくれたスープなのです」
ウィルが懐かしさを感じたのはクリームの部分でしょう。
本来であれば牛の乳を使いますが、母はヤギ乳を使っていました。
ウィルはよっぽど気に入ったのか、最後は瓶に口をつけ余すところなく飲み干す。
私もそれに習い、同じようにスープを飲み干した。
「うん、美味い!」
「ありがとうございます」
ふふ、ウィルったらよっぽど気に入ったのでしょうね。
口の周りにお髭ができてますよ。
私はスカートのポケットからレースのハンカチを取り出す。
「失礼します」
ウィルの口の周りについたクリームを、ハンカチでふきふきします。
「む」
少し気恥ずかしそうに視線を逸らしたウィルですが、何かに気がついたのかこちらに視線を戻す。
「ありがとう、では今度は、こちらの番だな」
「へっ?」
ウィルは私からハンカチを奪い取ると腰に手を回し、優しい手つきで私の口の周りをなぞる。
私としたことが何と恥ずかしい、これではまるで子供ではありませんか。
「どうだ、なかなかにこそばゆいだろう?」
なるほど……私に口元を拭かれていたウィルはこのような気持ちだったのですね。
私は恥ずかしさのあまりに顔を逸らす。
「そ、それよりもメインディッシュに行きましょう」
わざとらしく話題を変えた私に、ウィルは微笑む。
「そうだな、っと、おお! これはサンドイッチか」
もう、ウィルったら子供のように目を輝かせて……思わず笑みが溢れる。
ウィルがサンドイッチが好きなのは、既に皇后様から調査済みです。
そこまで喜ばれるなら、また作ってあげなくもないですよ。
「はい、先ほどのマスタードソースも使われておりますよ」
「それは楽しみだ!」
パンの香ばしい香りが食欲をそそる。
パクッと一口齧ると、マスタードソースが絡んだローストビーフの味が口に広がる。
う〜ん、なんてジューシーなんでしょう。
私が二口目へと向かおうとしたその時、ウィルと視線が合いました。
よっぽど美味しかったのか、どうやらウィルは私が一口目を味わってる間に全て平らげてしまったようです。
「もう、仕方ありませんね……こんなはしたない事、みんなには内緒ですからね」
私はサンドイッチを半分こにちぎると、自分がかじってない方をウィルに手渡す。
ウィルは私より身体が大きいんだから、この量では足りなかったのかもしれません。。
次回は、もっと量を増やさなければなりませんね。
……って、次回なんてありませんから!
「いいのか?」
「……だって、ウィルって凄く美味しそうに食べるんですもの」
女性になる薬を服用してるからでしょうか。
何故かウィルを放って置けないんですよね、どうしてでしょう?
……ハッ! こ、この感情はもしや母性本能という奴ではないでしょうか。
それならこうやって甘やかしてしまう理由にも説明がつきます。
なるほどなるほど、これが母性本能という奴なのですね。
「エスターが俺のために作ってくれたものだからな、美味しくないわけがないだろ?」
歯を見せて笑うウィルの表情は、皇太子殿下というより年相応の普通の男の子に見えました。
願う事ならば、皇帝陛下になられた後も、このような表情を失くさないでいて欲しいと願っています。
叶うのであれば、その対象が自分であればと……って、違います! これは違います!!
そう、これはエスターとしてではなく、エステルとして、友人としてですから、勘違いしないでよね!
なんかちょっと変な感じになったのは、これも多分、母性本能らしき何かのせいでしょう。
きっとそうです、そういう事にしておきます!
「どうした? 先程からぐるぐると表情を変えているが大丈夫か?」
「あ、いやちょっと……そう! 今日のピクニックが楽しみで昨晩あまり眠れなくて、ほほほ」
ふぅ、なんとか誤魔化せました。
遠目に見える、また何かやらかしましたね? という、エマの視線がものすごく痛い。
「それならば、帰りは私が送ろう、体調を崩して風邪などにかかってもいけないしな」
「えっ?」
ウィルに抱き上げられたかと思いきや、側にいた馬の上に私を乗せる。
「えっと、帰るなら別の馬で……」
私は自分の乗ってきた馬を指差す。
「何を言っている、もし乗馬中に寝てしまって落馬などしてはダメだろう?」
後ろに跨ったウィルは、私が逃げ出せないようにと、ガッチリと手綱を握る両手の内側へと私の身体を抱きかかえました。
これでは逃げ出せません、大人しく諦めるとしましょう。
「エスターが私とは別々の馬を用意するとは思わなかったが、これで帰りは一緒に帰れるな」
仕方ありません、これは自らの失態です。
私は諦めて身を委ねる事を決めました。
この感情の正体が母性本能だと気づいた今、もはや距離を詰められても驚く事はないのですから。
……そう思ったのですが、この距離感だけはやはりムズムズします。
何故か少し体温も高い気がしますし……はっ、これはもしや本当に風邪を引いたのでは!?
なるほど、ウィルと距離を取りたがるのも、皇太子殿下に病気を移してはいけないという、帝国貴族としての私の血がそうさせているのかもしれません。
そうとわかれば、全てが腑に落ちます。
今日のところは風邪を引いていたらいけないので、帰ったら大人しく寝るとしましょう、うんそうしよう。
ウィルは皇宮へと私を送り届けると、そのまま馬に乗って午後の政務へと向かいました。
私がそれを見送っていると、馬に乗ったヘンリーお兄様がニヤニヤした気持ち悪い顔でこちらに近づく。
「なんですヘンリーお兄様?」
「いつでも結婚してもいいんだからな」
メガネをクイっと上げ、そう言い残したヘンリーお兄様はウィルの後を追う。
……ヘンリーお兄様と口をきかない期間がたった今延長されました。
私はフンと明後日の方に顔を逸らす。
そんな私にもう1人のお兄様……いやもとより私のお兄様はアルお兄様だけかもしれません。
訂正、私のたった1人のお兄様、アルお兄様が声をかけてきました。
「エスター」
「アルお兄様?」
視線を逸らしたアルお兄様は、少し気まずそうに呟く。
「その……なんだ、俺はいつだってお前の味方だからな」
ぐっ、ヘンリーお兄様のせいで、アルお兄様まで変な勘違いしちゃったじゃないですか!
いいでしょう、こうなったらエステルの時に、最近流行りの『なんぱ』という奴で、女の子を口説き落として疑惑を払拭するしかありません。
ヘンリーお兄様とアルお兄様には、エステルの本気という奴を見せて差し上げますよ!
わ、私だって女の子の1人や2人くらい、100人だって侍らせちゃうんだからね!
お読みいただきありがとうございます。
ブクマ、評価、感想等ありがとうございました。
ピクニック編、ご要望に添えたかどうかはわかりませんが、なんとか間に合いました。
たのしんで頂ければ幸いです。




