「あなたが、私の希望」
何のきっかけもなく、目が覚めた。
目覚ましでも、家族の呼び声でも、隣の家の犬でも、飛び交う烏の鳴き声でもなく。
自然に、すっきりと目覚めたのだ。
ここ最近で、いや間違いなく、人生で一番目覚めがよかっただろう。
季節はもうすっかり秋である。個人的に、秋は一番好きな季節だ。春のように虫も花粉もなければ、夏のように猛暑もなければ、冬のように厳寒でもない。
丁度いい気温で、ほとんど害がない。
それだけではない。
オシャレ男子みたいなことを言えば、服の着飾りがしやすい。
ただの食いしん坊に成り下がったことを言えば、食物がうまい。
文学少年になりきったことを言えば、落ち着いて読書のできる、
心底素晴らしい季節なのだ。
更に、俺達の高校には、二学期に入って暫くすると、秋休暇というものが設けられる。二週間程度。
長いといえば長いし、短いといえば短いこの期間は、近所では俺達の高校しか設けられていないだろう。
運動部はほぼ毎日練習で、文化部も発表会なりなんなりに向けて忙しい。
そんな中、どちらのジャンルにも属さないのが、我々“後悔解消部”である。
文化部っぽい一面もあるし、運動部っぽい一面もある。
しかし、胸を張って言えることがひとつ。
後悔解消部はどの部活よりも厳しいだろう。
一回の活動の労力が半端じゃないし、周りも変人だらけなので精神的、及び肉体的疲労は計り知れない。それでいて普通の学校生活もこなさなくてはならないので、この部活が結成されてから、軽く十回は死んでいると思う。
つい先日行われたばかりの定期テストも、普段より点数が悪かった。疲れが溜まって、頭も回らなくなっている。
よって、この二週間程度の秋休暇。俺は完全に思考を止め、その大半をベッドの上で過ごすことにした。
しっかりとエネルギーチャージを行い、休み明けにリフレッシュした状態で臨むための計画である。
とはいえ、ただ寝ているだけの休日も味気ない。溜まっていた分のアニメでも消化して……
「あ、おはよ。」
起き上がると、目の前に美少女。
「うぇ!?」
「え。」
「あ、あぁ、き、響歌。おはよう……」
そういえば、一緒に住んでるんだったな……
深い眠りから気持ちよく目覚めた代償に、いろいろ抜け落ちているようだ。
「もう私行くけど?」
「え、どこに。」
オシャレな私服を着こなし、お出かけするみたいだが、その口調だと、俺も行くみたいになっていないか?なんか約束したっけ?
「勉強会。え、もう忘れたの!?」
「え、なに、こわいこわい。そんなんないっしょ?」
ひょっとして響歌、寝ぼけてるのか?
「いやいや、怖いのは私なんだけど。昨日話したばっかだよね?」
「……昨日?え、昨日?」
「ちょっと、思い出してよ、あんなに叫んでたのに。」
待て待て待て。常に冷静で優雅な俺が所構わず叫ぶわけがないだろう。言いがかりはやめて欲しいな。響歌よ。
「ほら、早く起きて……って、きゃっ!」
響歌が俺を起こそうとしたその瞬間、ティッシュ箱につまずく。
「うおぉ!?おぶっ!!」
人生で二度目の、ラッキースケベだったと思う。(一度目は新川先輩とのファーストコンタクト)
せいぜいいかがわしいサイトを見ながら、自分のイチモツを握って上下させるのが関の山の俺の顔に、響歌のふくよかな胸がのしかかる。
柔らかくて、いい匂いがして、程よい大きさで、程よい重さだった。
「……あ、ごめん!」
響歌がすぐにどいてしまう。
「いやいや。ありがとうございます。」
礼儀として、手を合わせて一礼をした。
ラッキースケベとは、謂わば神の思し召し。俺は今日から、神に感謝し、宗教に属しても構わない所存だ。
「なんで手合わせてんの!変態!」
展開的にも、このセリフも、漫画とかでありそうだなぁとかぼんやり思っていたのも束の間、響歌があの日遥歌さんにしたような、鮮やかな平手打ちが飛んできた。
「いっ!?……あ。」
「なに。」
「思い出したわ。」
思い出してしまった。という方が、この場合は適切だろう。
よくもまぁ自分でも、ここまできれいさっぱり忘れられていたものだ。
だがたった今、このビンタの衝撃で思い出してしまった。
秋休暇突入前日の、あの人のあの発言を────
────秋休暇突入前日────
「勉強会をひらこう!」
「は?」
午前授業が終わり、何となく屋上に集まった俺達は、定期テストや響歌の(この呼び方はまだ少し慣れない)壮絶な後悔解消で疲れ果てていた。
何となく遠くを見つめて、何となく静かになって、何となくこれまでの活動を思い返していた、そんな時だった。
この人の発言は毎回突拍子もなく、落ち着いた空気を切り裂きがちである。
「というわけで、明日からの二週間、ココで勉強会を開きます。はい部長命令。」
「急だね……まぁ僕はこの二週間、基本空いているからいつでも付き合えるけど。」
「わぁ。楽しそうですね!」
「……は?」
東も響歌も、あっさりと受け入れた。
俺はそうもいかなかった。
前述した通り、俺達は疲れ果てているはずなのだ。そのタイミングでこの秋休暇は正直おいしい。しっかりと休養を取るべきだ。いや、まず根本的に、テストはもう終了している。次のテストまでかなり余裕があるし、大学受験に向けてという訳でもないので、勉強会を開く意味が、意図が、需要が分からなかった。
「しんじ君。君のためにいってるんだよ。」
またアンタは腕を組んで偉そうに。
「信仁、今回ボロボロだったもんね……」
サラッと呼び捨てにされたので、ここはときめいた。
「なっ……お前らは点取れたって言うのかよ。」
「当然だろう。模範生徒ともなれば、常に手本を示さなくてはならないからね。」
胸を張って東が堂々と言う。
「今回は優しかったと思うよ……?」
何で点が取れなかったの?みたいな不思議な顔をして響歌が言う。
「はい。お勉強ね。」
満面の笑みを見せつけるように先輩が言う。
俺の成績は、今まではむしろ上位層に食い込むほどだったが、今回に限っては、中の下と言ったところで、非常に残念なことに、この二人にボロ負けであった。
「……分かりましたよ。」
「感謝の言葉は!?」
「……ありがとうございます。」
「たりないたりない。」
「こんな成績をとってしまった僕のために、勉強会を開いてくれてありがとうございます!」
「よろしい〜。」
────回想終わり────
「やっべ……」
思わず頭を抱えた。
……ここまで引っ張っておいてなんだが、勉強会っていってもあのメンバーじゃ十分も持たないんじゃね?
すぐ飽きてまたいつものくだらない茶番が始まる気がする。それなら、別に行ってもいい。というかむしろ行きたいまであるな。俺のかけがえのない友人達に会ってやろうじゃねぇか。
くだらない話に付き合ってやろうじゃねぇか。
しかも響歌と二人で外を歩くんだったら、それはもう実質デートだろう?
なにを躊躇っていたんだ。行った方がいい気がしてきたぞ……!
そしたらまたさっきみたいなラッキーも起こるかもしれないしな!
「ほら。思い出したんなら早く行こ。」
部屋着で寝癖全開の俺の腕を引っ張って急かす。
……前だったら、こんなことは絶対になかったと思う。
嫌われていた頃は、関わりを持たずにただ冴嶋響歌という綺麗なものを見つめていただけの頃は、ここまで親密になるなんて思いもしなかっただろう。
この少女は、愛する姉を失い両親とも隔離されたこの純粋無垢な少女は、今幸せだろうか。
ふとそういうことを考えてしまう。
重すぎるあの過去と事実は、赤の他人の俺でも応えたものだ。響歌は、どう思っているだろう。
俺の家には、一応、本当に一応電子ピアノが置いてある。兄さんが小さい頃習っていた時によく使われたらしいが、ついこの間までは、兄さんが思い立ってたまに少し弾くぐらいで、ほとんど使われなくなった。
最近は、響歌がうちに来たので、再びよく使われるようになった。
やはり触っていないと落ち着かないのか、なんの楽譜もなしにめちゃくちゃな曲をスラスラ弾くものだから、家族全員釘付けになった。グランドピアノとは全然違うだろうけど、ないよりはあった方がいいだろう。両親も捨てるか迷っていたので、丁度良かったといえば丁度良かっただろうし。
「なに、ジロジロみて。」
あの時、初めて言葉を交わした屋上で放ったセリフと全く同じだったが、響きが全く違って聞こえた。
冷たく嫌悪するようなあの時とは違って、
普通に仲のいい友人と話す時のような、何の変哲もないけど安心している声。
俺も、安心した。
「いや、行くか。なんか行きたくなってきたわ。」
「変なの。」
クスッと微笑んだ。
「いいじゃん。笑った顔。」
「な、なに急に。」
「なんでも。え、てか制服じゃなくていいのかよ。」
校則で学校に用がある時は休日でも制服で行かなきゃいけないはずだったが。
「いや、なんかあの時新川先輩が私服みたいって言ってたから。東君も多分私服で来るよ。」
えぇ……なんでまたあの人は部員の私服が校則を犯してまで見たいんだよ。
「バレないの?」
「休日は先生殆どいないからへーき。部活も合宿いってるとこ多いしね。しかも屋上なんて誰も来ないでしょ。」
「へぇ……そんなもんか。」
「うん。」
未だに校則とかそういう決まり事は断固として守るお堅いイメージがあるけど、サッパリしてるなぁ。
一緒に暮らし始めてから、イメージとは結構違った性格なんだなとつくづく思わされる。
「ほら、信仁も多分私服で行かないとダメだよ。」
「まじかよ……」
それから俺はさっさと着替えて、響歌と家を出た。響歌と一緒に学校に行くのはまだ数える程しかないが、割と話しやすいし、異性特有の微妙な距離もない。まぁ、他の男子は俺を目の敵にしているらしいけどな。
「響歌。チャリで行こうぜ。」
「あ、そうだね。」
休日に学校に行く場合は、全生徒に自転車通学の許可が降りている。普段なら、運動部に入っている生徒か、電車を使う距離でもないが徒歩では遠い生徒にのみ許可されるが、まぁ俺はどちらでもないので、普通に徒歩で通学していた。
響歌と自転車をこぐのも、何やかんやでこれが初めてになる。
俺の使い古したママチャリと、驚くことに自転車を持っていなかったので母さんが買ってあげた響歌の赤い自転車。
「そういえばまだ乗ってなかったなぁ、これ。」
「あんま出かけないもんな。洋服とか興味ねぇの?」
「んー。もうある程度揃ってるから。これでもお金持ちだったからね。」
これでもっていうか見たらわかるしむしろそのイメージしかないけどな……!
庶民には羨ましい限りだ。
「そっか。」
「うん。」
微妙な距離感はない。と言ったけれど、暫く沈黙があった。それも、お互いの目を見つめあったまま。
「あ、あついね。」
響歌が途端に目をそらして言った。
暑くはない。ゴリゴリの秋なのでむしろ肌寒いぐらいだ。
ただ何をいえばいいか分からなくなってそう言ったのだろう。
分かる。分かってしまう。
「……秋だけどね。」
「は、早く行こ!」
照れてるのか……?
かく言う俺も、なんだか照れくさくてしょうがない。冷静を装っても、根はこういうベタなのに弱い男子なので、心が叫びまくっている。
スタンドを蹴って、サドルに跨ぎ、ペダルを漕ぎ出す。
錆び付いた車輪の音と、十分に空気が入っていないタイヤ、そこから来る振動、カバーが外れたベル、若干機能しなくなっているブレーキ。
兄さんのお下がりだが、その前は両親が使っていたらしいので、もう立派にボロボロである。
決していい漕ぎ心地ではないが、今更新品も欲しくはないし、むしろいらない。この自転車には、もう底知れない愛着がある……
俺がうっとりしながら漕いでいる後ろで、ピッカピカの新品に乗って風を感じる響歌。全ての部品が効きすぎな程に働いていて、煩い音もしない。
「おそいよ信仁〜!おさきっ!」
「あ、おい!」
立ち漕ぎで勢いをつけて颯爽と俺を抜き去った。いたずらっ子のような無邪気な笑顔を浮かべて、俺を挑発する。
子供っぽいところも兼ね備えるなんて、理想のヒロインじゃん。
そんなヒロインと同棲までしてるなんて、俺はなんて恵まれているんだ。
あの日の自殺ばかり考えていた俺に伝えてやりたいほど、幸せを感じた。
「はやく〜!!」
もうすっかり遠くなってしまったけれど、響歌はその距離でも俺を促した。
彼女の背中に、様々なものを見たきがした。
俺はその背中を追いかけて、必死にボロチャリを漕いだ───
学校到着
「おっそ〜い!そしてきょうかちゃんかっわいぃ〜!!」
はしゃぐ響歌を追いかけて、ガラ空きの校舎を駆け抜けて、階段を駆け上がって、いつもの通り重い鉄扉を開けて屋上に出た瞬間、それだった。
「へへ、かわいいね。すき。すきだよきょうかちゃん。」
女子同士で、よく見るお互いを褒め合う下らないコミュニケーション。今目の前で繰り広げられるそれは、俺が知ってるものではなかった。
頬をすり合わせ、抱きつき、体を撫で、なぞり、揉みしだき、舐める。
「きゃっ!先輩くすぐったいですよぉ……」
なぜそんな犬のお世話をしてる時みたいな対応ができるんだ!?
俺も今すぐ混じりたかったが、同棲してるとはいえ確実に嫌われる。というか訴訟される。
「おお……!目の前でそんな尊いことはやめてくれよ……!」
上から飛び降りてきたのは東だった。高身長の完璧なルックスによく似合う服を身にまとい、首元にはロザリオのネックレスを下げている。
尊い、とこいつは言った。
ファッション雑誌に載っていても違和感のない男の美貌の中に、何か違和感を覚えた。その言葉にも、そして見てくれにも。
彼が右手に持っていたのは、イケメンに似つかわしくない、派手な表紙の漫画だった。パッとみただけでは分からない。違和感の正体はこいつだ。
それとなくどういう漫画か気になったので、注目してみる。
『ゆりゆりパラダイス』
お前の正体はなんだ!?!?!?
「おおい!?なんだその漫画!?」
疑問その一
お前はいつから百合というジャンルに興味を持っていた!?
疑問その二
なぜ彼女がいながらなぜ百合に手を出した!?
疑問その三
なぜ勉強会にそれを持ち出した!?
疑問その四
なぜこの下品なまでの先輩のスキンシップに尊さを覚えた!?お前の尊いの基準はなんだ!
「なんだって、百合だが。」
百合だが。じゃねぇんだよ!違うんだよ!
なんというか上手く言えないけど、お前は間違ってるんだよ!なんでよりにもよってお前という男子の憧れと言っても過言ではない存在が、そのジャンルに興を覚えるんだよ!!
「どうしたんだい。そんな顔をして。」
「……意外すぎたんだよ。」
「テスト期間中、偶然寄った本屋で見かけてね。テストが終わったら絶対に読みたかったのだ。なるほど女子同士の恋愛というのは面白いね!気に入った!」
こういう世界もあるのだね……といつものやれやれといった調子で空を仰ぐ。
「マジかよ……」
「しんじくん。」
舐めることはやめたものの、響歌に身体を密着させて離さないまま先輩に呼びかけられる。
「な、なんですか。」
暫く俺を見つめたまま、黙っている。
学校に行く前の響歌との雰囲気に似ていたが、先輩に見つめられると、見透かされているような気がする。いや、とくにやましいことも思っていないし、考え込んでいる訳でもない。
見透かされるものもないはずなのに、なんだか響歌の時とは違う緊張感がある。
あれほど密着させていた身体を離して、こちらに歩み寄ってくる。え。なに。
先輩のことだから、急にぶったりしてきそうで怖い。
ついに俺とこぶし一つ分の間の距離まで来た。近すぎじゃないか。
「ん。」
むぎゅっ、という感覚を顔面に味わう。
「え。」
先輩の両腕に腕に頭を掴まれ、先輩の胸に顔がうずくまる。胸に押し付けられる?いや、抱き寄せられている。
ラッキースケベでもなんでもない。先輩自らの行動。抱擁。
響歌の時のようないい匂いはもちろん、響歌よりも若干大きくて、息が出来ないけど気持ちいい。だってこの人ノーブラなんだもん。
みんなが私服の中、何故か制服でしかもノーブラなんだもん。
……そりゃあ気持ちいいでしょうよ。
自転車を漕いでいた時とは違う類のおっとりを感じている時、先輩が耳元で何か囁いた。くすぐったかったのでよく聞こえなかったが、聞き間違えがなければ、こういっていたと思う。
「夜、またここにおいで。」
よく意味がわからなかったけれど、なんだかドキドキしたし、ワクワクした。なにかエッチなイベントが!?という期待感が胸に燻り、このままおかしくなりそうだった。
「ワォ、大胆。」
「せ、先輩……!?信仁……!?」
「はい!羨ましそうに見てたのでサービス!」
「おっ……」
羨ましそうに見ていたわけではないが、結果的に興奮したので何とも反論しがたかった。
「さっ!勉強しよ!」
本当に屋上でやんのかよ……
各々梯子を登って、いつもと違って稼働していない換気扇の横に腰掛けた。東がパイプ椅子と机を用意してくれたらしい。
俺が腰かけると、すぐさま響歌が隣に座ってきた。やばっ。
「……ねぇ、信仁。」
響歌から耳打ちが入った。さっきのことを思い出して、また心拍数が上がる。
「先輩、つけてなかったよね!?」
耳打ちにしては声量があったと思う。まぁ、あんだけ身体を擦り付けられれば分かるか。
「正直エロかった。」
耳打ちはなんとなく抵抗があったので、俯いて小声でぼやいた。
「サイテー……」
「しょうがないだろ……」
あぁ、これはちょっと嫌われたかもしれない。
さすがに同棲しているので、多少仲は良くなったけど、未だにこの人には嫌われたくないという気持ちが強い。それでもさっきの先輩はエロかったので、正直に言ってしまった。
できれば、もう1回してほしい。
「……今朝のとどっちが良かった?」
(!?!?!?!?!?!?!?!?)
まさか響歌からそんな問が出てくるとは……妬いているのか?ていうか今日、サービス精神旺盛すぎでは?夢でも見ているのか?
体が熱い。いや、熱いのは特に、俺の局部が尋常じゃなく熱い。
東がいなければ、俺の理性は消し飛んで、二人ともめちゃくちゃにしてしまったかもしれない。童貞だから出来ないだろうけど、そうなってもおかしくないぐらいには興奮している。
というか興奮させたんだ、ここまでの数奇な運命のめぐり合わせが!
「……ねぇ。」
心做しかどんどん距離が近づいてく気がする。
這い寄るように、忍び寄るように、そして撫でるように近づく。ずいずい近づく感じでは無かった。その距離の詰め方が余計にエッチだった。
「……気になるの?」
これじゃあ異性特有の距離感なんてアリアリじゃないか。
「一応。」
「どっちもエロかったよ……!」
ここぞとばかりに気取った声で言ってみる。(タイミング的に間違いでしかないが)
「サイテー……!」
なんて答えればよかったんだ!?
いや、いくらでも答えようはあったかもしれないけれど、何でか響歌の競争心を煽ろうと、完全に度重なる豪運スケベで調子に乗った発言をしてしまった。地雷を踏んだ。
今度こそ愛想を尽かしたのか、拳を強くにぎりしめ俯いているが、しかしそれでも頬を赤らめて、まだこちらをチラチラ見ている。
話しかけたい気もあるけれど、ここで話しかけたらそれこそ本当に噛みつかれる気がした。
響歌は意外と犬っぽい。
構ってもらえないと噛むし、構ってもらえなくても噛む。いや、噛むというのは比喩だけれど、この前、深夜に俺がゴソゴソしていたせいで起こしてしまった時、寝ぼけた勢いで腕を噛まれた。(!?)
ゴソゴソしていた時の腕である。当然握っているものは想像というか察しがつくだろうが。その衝撃に驚いて思いっきり握りしめてしまった時は焦ったものである。
「んん……!」
めちゃくちゃ不機嫌そうなので、ほっとく。
さて、と体制を前に向けて切り替えても、まぁ何となく気になってしまう。そもそも、響歌と先輩のどっちがエッチだったかなんて、当の本人で加害者の響歌が気にすることでもないはずだ。(被害者とも言える。)
んん。これは本当に、響歌は俺に気があるのかもしれない。
俺のこの推察は、世の男子がよくしでかす勘違いとは違う。
同棲だって、確かに言い出しっぺは俺だけど、いくら身寄りがないとはいえ、最近まで嫌悪の対象だった男子の家においそれとついて行くとは考えにくい。
それこそ、普通に面倒見の良さそうな新川先輩にでもお願いするべきだったのだ。(先輩の家とか知らないけれど)
決定的なのは、響歌がわざわざ俺の部屋で寝たいと言い出したことだ。これを聞いた時は流石に驚いた。
夜中の俺の行為がもう出来なくなってしまうという絶望感も僅かながらに存在したけれど、同い年の、有名人の、美人の、めちゃくちゃ人気者の女の子が隣で寝ているなんて、お互い何も無いわけがないじゃないか。響歌がハラハラしすぎて眠れていない可能性だって十分考えられる。
響歌がもし俺に惚れていると仮定した時、原因には覚えがある。
恐らく、響歌の家の前で二人で東と先輩を待っていた時のあの会話だ。あの会話に意味があった。あそこは我ながらにいいことを言ったからな。響歌の氷に閉ざされた心を溶かすには十分すぎる言葉だっただろう。
『な〜にかんがえてんのっ。』
「うぉえぉえ!?」
あまりに突然のことに、ひっくり返る。
「どうしたんだいシンズィー。」
『あ、ダメダメ言わないで。』
この声は……先輩?なんで目の前にいるのにわざわざテレパシー使うんだよ……
「なんでもね。」
「そうかい。」
『耳打ちより効率いいでしょ。これ。すごい。私がすごい。』
こっちを見てニヤニヤしているのに、声は俺の頭に直接飛んでくる。
──何の用ですか!びっくりしたなぁ!
『いやいや、色々と伝え忘れてて。』
伝え忘れって、さっきのことですか?夜来ればいいんでしょ。
『うん。それ別に私がなんかしてあげるとかじゃないから。勘違いしないように。』
──エッチなイベントはないんですか!?
楽しみにしてたのに。いや、残念ですよ先輩。先輩ならあっさりしてくれそうなのに。
『ふふっ。』
──笑った!?いくら冗談でも多少怒られると思ったのに。
『愛想笑いです。』
──そうですか……で、他には?まさかそれだけですか。
『いやぁ。そろそろ、真相に迫ってもいいんじゃないかと思って。』
真相?何の話ですか。
『君の中の君の話。』
あぁ。と思った。
東の過去のあたりから声がして、響歌の過去で形になって現れた白い影、靄、幻のような少年。俺を乗っ取るように、甘く囁く謎の少年。
──あれ、ですか。
『そう。っていっても私は知らないけど、分からないわけじゃない。』
酷く曖昧な言い方だ。矛盾すら感じる。
『私はまだ確信に至ったわけじゃない。けど、だからこそ、しんじ君自身が答えを出してほしいの。』
──つまり、どういうことですか。
『お母さんならきっと、君のことを知ってるはずだよ。君の中の君のことを。』
なんで、どうしてそこで母さんがでてくるんだ。
母さんには俺がこの部活に所属していることすら話していない。
最近の俺のことは、母さんも仕事で忙しいしほとんど知らない。
なのにどうして母さんが……
あ。
何故俺は、最近と断言出来るのだろう。
もしかしたらあの少年は、俺がずっと幼い頃から棲みついていたのかもしれない。無意識のうちに、あの少年が過去にも何度が現れたことがあるのかもしれない。
『確かに勇気がいると思う。自分の知らない自分を知るっていうのは、必ずしもいいこととは限らない。醜くて、汚い自分が姿を現すかもしれないから。でもね、しんじ君。』
『それでも、知らなくちゃダメだよ。君自身のことは、君が一番詳しい方がいい。“君”という人間の一部から、目を背けないで。』
またこの人は、急に最もらしいことを言う。
これでも俺は怖かったんだ。自分の中に、誰かわからない自分がいる。声がする。囁く。這い寄る。真っ暗闇の中で、真っ白な子ども。悪い意味で、他人の気がしない子ども。
知らないはずなのに、自分だと分かってしまう。だから怖い。
だったら、知らなくちゃダメだ。川村信仁という一人の人間を。誰でもない自分自身を。どんなに醜くて、汚い自分だったとしても、目を背けちゃ、ダメだ。
──なんでもお見通しなんですね。自分でも考えないようにしてたのに。
『ふふっ。』
また笑った。目の前の彼女は、にっこりと、優しさを含んだ笑みを浮かべて、そして、俺を見つめる。
『答えが出たら夜おいで。迷って苦しくてもおいで。星が見える時間帯なら、何時でもいいよ。まってるね。』
風が吹いた。秋の少し肌寒い風。
彼女の黒い髪が靡いて、どこか懐かしい香りがする。
……初めてあった時のことをふと思い出す。
すると彼女は儚げな表情で、遠くを見つめるのだった。
涙こそ流していなかったけれど、彼女はきっと、心の中で泣いていたと思う。そういう顔だった────
「みんな!折角だし写真撮らないかい?」
東がいかにも高額そうな一眼レフを取り出した。用意周到なことに三脚までも完備している。
「気合い入りすぎだろ。携帯とかあるのに。」
「なに。やりすぎなぐらいが丁度いいのさ!」
そう言って三脚にカメラを付けて、先輩を中心にして一列になった。
「じゃあ撮るよ〜。よっと。」
タイマーをセットして、東も列に加わる。
「はい、チーズ!」
各々思い思いのポーズをとった。
まぁ、それぞれ個性が出ていてこの部活らしいのかもしれない。
いい写真が、撮れたと思う。
それから丁度日が暮れる頃まで屋上にいて、今現在は響歌と帰路を歩いている。チャリを手で押して、夕暮れ時のんびりと歩いている。
案の定、勉強会なんてハッタリで、青空の下各々のんびりしているだけだった。それでも最初の方、本当に最初の方はみんな勉強に励んでいて、お互いに教えあったりもした。
新川先輩は、意外と頭がよかった。
「いやぁつかれた。」
「教えてもらいっぱなしじゃん。」
「お前らのレベルが高いだけだよ。」
「信仁の勉強が足りないだけ。」
「俺だってやれば出来る。」
「やらないからこうなったんでしょ。」
ある程度言い合った後、何が面白いのか分からないけど、顔を見合わせて笑った。夕日に照らされたその笑顔は、普段見せるそれよりも、一段と綺麗だった。
ずっと見ていたいとも思ったけれど、なんでか、暫く見れなくなる気がした。
「……綺麗だ。」
「えっ……?なにが?」
そう思うと、急に寂しくなって、つい外に漏れてしまった。
「夕日が。」
下手な嘘をついた。今丁度夕日はマンションで隠れているのに。
「そ、そっか。」
彼女もまた、咄嗟に下を向いた。
異性との距離感なんてないと思い込んでいた自分が馬鹿みたいだ。俺はまだ、ほんの少ししか近づけてない。孤独な少女に、ほんの少ししか。
もっと、寄り添ってあげないと……
隠れていた夕日が再び姿を晒す。その威光に思わず顔をしかめる。
その偉大な夕日に向かって、鳥が空を渡っていく。沈みゆく夕日と共に、この鳥も落ちてしまうんじゃないだろうか。
柄にもなくそんなことばかり考えてしまう。何故か先輩のあの儚げな表情が離れない。呼びかけたら振り向いてくれそうだけれど、触れれば崩れ落ちてしまいそうな……
先輩、俺、答えを出します。
自分を見つけます。
やらなきゃ────
「響歌。」
「な、なに。」
「帰ったらさ、母さん、珍しく仕事休みで家に居るから、大事な話がしたいんだ。悪いけど、二人だけで話したいから、その辺で時間を潰してくれないか?」
「え、あ、うん。全然いいよ。」
「悪い。助かる。」
するとそそくさ、響歌はチャリに乗って駅の方へと走っていった。溜め息をひとつ。
なんだか、本当に今から自分に触れるんだなと感じた。
正直怖くてたまらない。自分を保っていられる自信が無い。
そもそも母さんがあの少年を知っているとも限らないのに、どうしてこうも、不吉な予感がするんだ……
俺もボロチャリに跨いでペダルを漕ぎ出した。
家に近づけば近づくほど、何かが崩れてく感覚があった。
紅く染まっていた空が殆ど紺に変わった時、俺は家に到着した。鼓動は聞こえるほどに脈を打っている。手汗で自転車のハンドルはびしょ濡れだった。
明かりがついているのが見える。母さんがいる。
いつもと変わらずに、母さんはいるはずだ。
とうとう鍵を開けて、家に入った。
「……ただいま。」
返答がない。やけに静かだ。玄関の明かりが寂しくついているだけで、一階は暗闇そのものだった。二階のリビングかな。と思ったので、靴のかかとを揃え、重々しい足取りで階段を上っていく。一段一段上がる事に、呼吸は荒くなり、心臓は急ぐ。
二階に上がると、やはり、扉の向こうのリビングの明かりがついていた。
大丈夫だ。ただ、聞くだけ。セリフも少し頭の中でまとめておいた。大丈夫。大丈夫。
深呼吸をしたって、落ち着くことはなかった。ほんの気休め程度。なんだか今から、ものすごく規模のでかい戦争にでも赴くような心持ちだった。屋上のとはまるで違う、木製の軽いドアを開け……いやまて。
ドアについている小窓から、僅かに見えるリビングの様子。
そこには、神妙な面持ちでなにやら話し合っている家族の姿があった。母さん、父さん、兄さん、全員いる。
俺を待っている、という訳では無さそうだ。それどころか、俺が帰ってくるのを望んでいないようでもあった。
胸の内で、悪い予感が燻る。ドアノブを握ったまま硬直していた。開けてはいけない。今ここでドアを開ければ、俺はきっと後悔する。何故だか分からないけれど……
ドアノブからそっと手を離し、小窓から家族の様子を窺った。ほんの僅かに、なにやら話し込んでいる音が聞こえてくる。
その会話の内容に、震える手で震える胸を押さえつけながら、耳を傾けた。
「信仁には……そろそろ言わないとね。」
母さんが手を組んで、俯きながら言った。
今更何をそんな勿体ぶって、と以前の俺なら思うだろう。
しかし、今の俺なら分かってしまう。俺が母さんに聞こうとしていること、母さんが俺に言おうとしていること、きっと同じだ。
良いタイミングのようで、最悪の状況だ。
今すぐにでもここから逃げ出したい……!
「……そっか。まぁ、びっくり、するだろうね……」
いつもはあんなに気の抜けている父さんも、言葉をつまらせながら深刻そうに言った。
みんな下を向いている。重く暗い空気と、加速していく緊迫感が混ざりあって、吐き出しそうになる。誰かに首を絞められているような苦しさを感じた。
「信仁、大丈夫かな……やっぱりまだ早いんじゃないの?最近は響歌ちゃんも来て何かと慌ただしいしさ、もう少し落ち着いてからの方が……」
誤魔化すように、兄さんが提案する。
顔をあげているのは兄さんだけ。父さんも母さんも、食いしばるように一向に面をあげない。
「駄目よ。あの子ももう大人になる。ここで言わなかったら、あの子のためにならないわ。それに、このまま隠しているのも……気分が悪いもの。」
母さんが、泣いている。
いや、母さんだけじゃない。父さんも兄さんも、だらだらと涙を垂れ流している。なんだよこれ。
なんだよこの風景は。地獄か?
神様ってやつは、そんなに俺が気に入らないか。
こんなに家族を泣かせて、俺自身にも誰かを住まわせやがって。
逃げ出したい。暴れだしたい。この不安を、行き場のない怒りを、どうしろって言うんだ。押しつぶされそうだ。助けてくれ。誰か。誰でもいい。お願いだ。お願いします。俺を救ってください。
ガチャ
「……!?信仁……!」
ああ。ドアノブに肘が当たった。本当、肝心なところでついてない。あぁ、泣き出したい。
「聞いてたの……」
「母さん……あぁ、あの……違くて……違う……」
「信仁……ちょっと、座ってくれる。」
嫌だ。行きたくない。聞きたくない。何も知らないと思ってた。だから少し油断してた。どうせ家族でもこの少年のことは分からないって勝手に思い込んでた。
違った。まだ何の話しだったか聞いてないけど、答え合わせをされた気分だ。終わりだ。知りたくない。自分のことなんて知らないでいい。
またいつものように、くだらないことで笑いあって、誰かに救いの手を差し伸べて、みんなで協力して、あの生活に戻りたい。
俺の後ろにいるんだ。あの子が。もう目隠しをされてる。離せ、離せ、離せ────!
『いーち、にーい、さーん、』
少年の声がする。
気がついたら、俺は席についていた。向かいに母さんがいて、その隣に父さんがいて、俺の隣に兄さんがいる。
全然暖かくない。家族の温もりを感じない。
……新川先輩。貴方の見透かしたような目は、本当に見透かしていたんですか。こうなること、全部わかっていたんですか。
『じゅーう、じゅーいち、じゅーに、』
……先輩、助けて……あの日と同じように、俺を助けてくださいよ……怖くて、冷たいんです。あぁ、先輩……もうおかしくなりそうです……
「信仁、あのね……」
「あ、あ、あ……」
母さんの背中を、父さんがさする。兄さんは俺の手を強く握って、俺の方を見ている。
俺も含めて、みんなが泣いていた。
「あなた……私達の子供じゃないの……」
「っっっっっっ!!」
わかる。この話にはまだ続きがある。俺は耳を塞いだ。
この一言でさえまともに受け入れられないのに、これ以上どうしろって言うんだ。心臓が内側から突き破られそうだった。
「信仁!最後まで聞け!頼むから……!」
耳を塞いだ手を、兄さんが強引に解く。
途端に力が抜けた。もう、何となく悟った。
俺はもうおしまいだ。
「それでね、信仁、どこから……どこから話せばいいのかしら……」
「母さん、落ち着いて、ゆっくり話せばいいよ……信仁、父さんたちはね、何があってもお前の味方だ。だから、もう隠し事は辞める。確かに血は繋がっていないけれど、それでもお前は大切な家族なんだよ……!」
いつもは頼りない父さんが、やけに男らしい。
いつもはめったに泣かない兄さんが、隣でぐちゃぐちゃに泣いている。
いつもは強気な母さんが、どんどん弱っていく。
これは夢なのかもしれないと思った。むしろそうであって欲しいと願った。
涙は枯れ果てて、魂が漏れるように口が開きっぱなしになっていたことに今更気付く。俺はどこにいるんだろう。
「あなたは、あなたはね。十一年前に……一度亡くなってるの……!」
「なんだよ……それ……」
底なしの闇に落ちていく感覚だった。もうただの抜け殻になってしまった俺を見て、冷静に聞いてくれていると思ったのか、俺が母さんだと思っていた目の前の女性は、容赦なく話を続けた。
────十一年前────
仕事の関係で、私はそれなりに顔が広かった。
顔が広かった、というより一方的に私が認知しているだけだから、相手からしたらいい迷惑だろう。
私はジャーナリストだった。
政治家、投資家、実業家、エトセトラエトセトラ……
汚職に塗れ、金に呑まれた汚い人間達を執拗に追い回していた。そんな時、私の耳にある事故の噂が入ってきた。それが全ての始まり。川村信仁のルーツ……
事故の噂は、本当に一瞬、風の噂で入ってきた程度だけれど、なんだか妙に気になって、私なりにその事故の詳細を洗ってみた。
交通事故のようだった。
五歳の少年がトラックに轢かれてしまった事故……しかし奇跡的に、男の子は一命を取り留めたという。誰がどう考えても、助かる余地はない重症、重体。頭を強く打って、血も止まらなかったのに、意識も吹き飛んでしまったのに、事故から一週間、男の子は長い眠りから覚めたように息を吹き返した。
誰もが目を、耳を疑った。しかし奇跡のドラマは、世間を騒がすミステリーになってしまった。
男の子が、消えたのだ。
失踪と言えばそうなのだが、脱走という方が適当だった。病院のベッドは荒らされた形跡などは特になく、誘拐という線は考えられなかったし、後日警察の捜査の結果、病院の窓付近に少年の血痕を確認。指紋も付着していたため、彼の傷口から漏れた血液に指紋がそのまま着いたものとされた。
警察や消防隊、自衛隊までもが少年の捜索に入った。今思えば、ここまでの組織がいっぺんに動いたのも不思議だったかもしれない。
私も密かに、この一件ないし消えた少年を追うことにした。
上司に内密で事を追うことは禁忌だが、愚かにも、私の興味と探究心はおよそ底を知らなかった。そしてまた愚かにも、同じ職場で勤務する友人であった“狩野清美”が私に協力すると申し出た。こうして私達は、互いに得た情報を共有し、消えた少年を本格的に追うことになった。
一方世間では、ニュースも大々的に報じられ、多くの一般人が認知するほどの事件になった。それぞれの業界が、組織が、対応や捜索に追われていた。
更にネットでは都市伝説なんて根も葉もない憶測が広がりだして、いよいよ収集のつかない事態に発展していった。
清美と私が手を組んでから、丁度二ヶ月が経った頃だろうか。私達はある企業に辿り着いた。
それが“伊能製薬”という企業だった。
今も尚様々な症状に対抗する薬を作り続け、画期的な技術も相まって医療関係では特に名の知られている大企業だ。
……これもまた噂に過ぎない話だが、表には出せないような効能のある新薬を、身寄りのない子どもや行き場をなくした人間に使って秘密裏に日々実験しているらしい。機関の許可がいる臨床試験とは違う、完全な違法行為である。まぁもし仮に、この噂が事実であったとするならば……
病院から脱走中の傷だらけの少年なんて格好の餌じゃないか。という結論に至るのに、そう時間は要らない。
少年の件自体は、実際の事故が人から人へ伝染した噂だが、伊能製薬の件は、誰かの憶測が、何かの拍子にどんどん膨れ上がっていった事実かどうか不明瞭な噂なので、これを信じ切るのも、どうかと思うのだが、私達もここで引き上げるわけにもいかず、本社に直接出向くことにした。
私達の顔の広さは、こういう時に役に立つ。本社に入れてもらうことぐらいわけなかった。まぁこれも、清美がココに来る前かなり多くの企業で働いてたおかげだ。伊能製薬との関係も薄くはなかった。というわけだ。
とはいえ仕事で来たと言ってしまえばなかなかマズいので、あくまでも社内見学ということにした。中は至って普通の、というわけでもなかったが、物騒な噂がたってるとは思えないほどには、社内環境は徹底されていたし、社員も皆真面目に熱心に取り組んでいた。私達を案内したのは、営業企画部部長の“平出一正”という男だった。社内ではそれなりに権力のある、小太りの中年だ。
清美は、そこにつけ込んだ。
「そう言えば、最近は御社の妙な噂が流れているみたいですね。」
単刀直入に、噂の真偽を問いかけたのだ。
どう考えても攻めすぎだ。と思ったけれど、それが上手くいった。清美は所謂“デキる女”で、大抵の権力者の弱みはしっかりと握っていた。清美が冷酷に脅したてれるや否や、平出は急におぼつかない様子になり、急いで電話をとった。
「くれぐれも、内密に。いずれ世間に公表することに変わりはありません。」
そう忠告して、平出は私達を社内の地下に案内した。重く分厚い扉を開けた先には、にわかに信じ難い光景が待っていた。
何人もの子どもや大人が、男女問わず、ステンレス製の実験台の上に拘束されていた。
皆点滴をうたれていて、吸引器のようなものも取り付けられていた。
「新薬の実験です。どこにも許可を取っていないので、悪行ですが。いずれ善行になりますよ。」
「なにが善行よ。コレ、殆ど死んでるじゃない。」
清美が一層冷酷な口調で嫌悪するように言った。そう言われて、私も初めて気づく。ほぼ骨と皮だけの痩せこけた身体に、色素が抜けた髪。白目を向いて口からは泡が出ている。
「これらは全て“失敗作”です。我々のテクノロジーに耐えうるだけの身体を持っていなかっただけのこと。本当にお見せするべきものは奥に。」
悪びれる様子もなく言い捨てる平出を、思わず殴りたくなる気持ちを抑えるので必死だった。
平出は私達をさらに奥へと誘導した。何重もロックがかかった、ここの入口の扉の倍は分厚い扉だった。
平出が力をふりしぼって漸く扉を開けた向こうには、実験台ではなく、大きい鉄の椅子が堂々と存在していて、そこに、その三分の一ぐらいの大きさの少年が座していた。
「この子が……」
「そう。世間で何かと噂になっている少年です。名前は、“檜野一颯”。」
噂から考えて、病院を脱走したのは最近だから、まだ傷が全身に蔓延っていてもおかしくはないのに、しかしその少年は目立った外傷は全くなく、綺麗な身体をしていた。
「この子は素晴らしいですよ。素晴らしい病気を持っている。」
どういうことかまるで分からなかった。病気を治すために薬があるのに、その研究をこんなことをしてまで続けているのに、なぜ病気を讃える?
疑問に思ったのもつかの間、平出の口から衝撃の事実が飛び出した。
「この子の病気はねぇ?患者の意志や感情に呼応して、様々な超常現象を引き起こす一種の超能力のようなものなんですよぉ!我々はその能力を促進する薬を開発し、この子だけでなく、なんの才能も持たない一般人にも投与することで、どのような影響があるかを調査しているというわけなんですよ!どうです!?画期的でしょう!?」
狂ってる……
そんなことのために、こんなに多くの人々を、こんなに幼い子供を好き勝手に使ってるなんて、この男は、この会社は最低だ。私の首が吹き飛んででも、世間に晒しあげてやりたい……!
「超常現象って例えばどんなの。」
それでも清美は冷静だった。いや、清美は最初からこういう地獄を見る覚悟は出来ていたんだろう。
「そうですねぇ……規模が大きいので、“タイムスリップ”なんて出来ますよ?」
なんて馬鹿馬鹿しい。タイムマシンなんてものは、昔から漫画やアニメでの鉄板だけれど、人間自体が自分の力で時を超えるなんてことが、出来るはずがない。
そう思ったけれど、不思議と興味が湧き出て止まらなかった。多分それは、清美もそうだったと思う。
「理論上はね、ですがそれには膨大なエネルギーが必要なんですよ。その病気を患う患者のエネルギーがね。ですから、こうして病気の成長を促進させる薬を投与しているんですよ。」
「それで結局、何がしたいのよ。タイムスリップだのエネルギーだの、それが貴方達になんの関係があるの?」
「ありますとも、我々は製薬会社ですよ?病気に苦しむ人々の明日を切り開かねばなりません。ならば多少強引な手を使っても、そう。このエネルギーを使って、あらゆる病魔に対抗しうる新薬を作り出すのです!」
それが完全な善意なのか、それともまだ何か企んでいるのか、そこまでは分からなかったけれど、少なくともこいつらの異常性はハッキリとわかった。
結局私達は平出の言う通り、いつか伊能製薬が人々を救う画期的な新薬を作り出すことを条件に、この件は世間には打ち明けなかった。
それでも私は、あの子がどうしても脳裏に焼き付いて離れなかった。あの子は苦しんでいるのかもしれない。あんなに幼い子が利用されていると考えただけで、いてもたってもいられなくなった。
自分にまだこんな感情が残っていることに驚いたけれど、今やるべき事は、誰かの不祥事を晒しあげることなんかじゃなくて、一人の人間として、あの子を助けてあげる事だと思った。
だから無理を言って、清美に何度も相談した結果……
私達は、伊能製薬に侵入して、あの子を取り戻す計画を立てた。
計画が実行されたのはそれから二週間後。清美と連携して、数多のセキュリティを掻い潜り、私達はついに少年の“略奪”に成功した。
「もう大丈夫だからね……」
その冷たい手を握って語りかけても、少年は何も言ってはくれなかった。
無事救出はできたものの、伊能製薬が本当に人間を救う新薬を作り出そうとしていたのなら、私達は人類救済の邪魔をしたに違いない。まぁそんなことは分かってやったのだけれど。
あれから少年は、言い出しっぺの私が引き取って育てることにした。
しかしこの子供が再び“檜野一颯”として生きていくには、あまりにも世界は騒然としていて、あまりにもその力に目をつける連中が多すぎる。だから……
全くの赤の他人として、生きてもらうしかなかった。
“檜野一颯”という少年を赤の他人にするのには、相当な時間を要した。私が親であるということ、この家でのびのびと育ったということ、あらゆる嘘を事実のように刷り込んだ。
一年、一年かかった。
私達の家族が、一人増えた。
少年は私の事を“母”と認識し、時分はこの家で生まれ育ったと思い込んでくれた。もちろん、主人のことも“父”と、泰輝のことも“兄”だと思っている。
心が傷んだのは言うまでもない。しかし、この子がこの先幸せに生きていくためにはこの方法しかない。この子が順調に成長し、大人になった暁には、包み隠さず本当のことを言おうと家族で誓った。その誓の下に、“信仁”という名をつけた。
自分の仁義を信じ、強い人に育って欲しいからだ────
────回想終わり────
全て、繋がった。
文字どおり答え合わせが完了し、俺が何者なのかもハッキリわかった。俺の中の俺はきっと、“前の俺”だ。
あの時の『返せ』という言葉にも合点がいく。
そして遥歌さんが言いかけたことも、漸く判明した。
俺は病気だった。いや、今もきっとそうだ。
俺は川村信仁であって、川村信仁ではなかったという訳だ。
────なんの冗談なんだよ。
「ごめん……信仁……ごめんなさい……!」
違う。母さんは悪くない。見方によっては悪いのかもしれないけれど、母さんは俺の味方でいてくれた。だから、母さんは悪くない。悪いのは……俺にも分からない。
いや、きっと誰も悪くないのだろう。各々が自分の正義の為に動いた。ならば、誰かを恨むのは筋違いだ。
言い聞かせるように、心を落ち着かせる。大方落ち着いてはいたけれど、燃え尽きたと言った方がいい。
「母さんは……その、悪くないよ。けどごめん。ちょっと外の空気吸ってくる……」
足早に退席して、俺は外に出た。夜風の冷たい空気が頬を掠め、街灯は点滅している。夜空には、満天の星が煌々と光っていて、三日月が静かに佇んでいた。
大きく、息を吸った。
今までの家族との思い出を振り返るように、今までの自分の成長を思い出すように、昔見た風景を懐かしむように、大きく、たっぷり息を吸った。
そして呑み込んだ。
その全てを身体に宿して、胸を三回、未だ震える拳で叩いた。
後ろを振り返り、二階のリビングの所だけが灯っている家を前に、深く一礼をした。
「……ありがとうございました。」
紛れもない感謝だった。だって、俺は赤の他人だ。なんの接点もなかった子どものことを、ここまで親身になって、本当の親や兄弟として関わってくれたんだ。
感謝以外の何があろうか。
もう少しこうしていたかったが、兄さんや父さんが心配して俺の様子を見に来るかもしれない。それはありがたいことだけれど、俺はもう、正直どうしたらいいか分からない。少なくとも今はその答えが出そうにない。だから。
俺は走った。
宵闇の中で、俺の足音が響き渡る。叫びながらでも走りたかったけれど、生憎声は出なかった。それよりも涙が滝のように流れ出た。止めどなく、止めようもなく、ドバドバと溢れた。
───やべ、死にてぇ。
あの日とはまた違った自殺願望が芽生えた。過去の自分を嘆くものではなくて、この運命に対して、手も足も出ない歯痒さと、無力感。
このまま夜の闇に溶けそうだ。夜風に吹かれて消えそうだ。助けて、助けてよ……
新川先輩……!!
俺は、学校に向かっていた。
気付けばもう、校門の前まで辿り着いていた。
「走ってきたのかよ……」
自分でも驚くぐらい、長い距離を走った。家から学校はそう遠くないけれど、それは自転車で行った場合の話しで、徒歩なんて、ましてや走って行くならば、それは途方もない距離に成り代わり、疲労困憊、満身創痍の状態になるわけだ。
急に立ち止まって、すっかり息切れしてしまった身体を気遣いながら、足を引きずり、屋上へと向かった。
一歩、また一歩、ただあの人の言葉に導かれるように歩いていく。
夜の学校の灯りらしい灯りは避難経路の緑色のランプぐらいで、後はもう外よりも暗い闇だった。
壁に手をつたいながら、屋上の扉の前に着くと、また感極まってしまった。それと同時に、気に病んだ。
俺は善人を気取ってただけなのでは、とか、本当にみんなは幸せだったのか、とか……
屋上の扉は、いつもより重たい気がした。
そこに待っていたのは、太陽が照る昼間の風景ではなく、さっきから散々見た夜の闇だったが、やはり屋上だけあって見晴らしがよく、夜景が良く見えたものだった。
錆び付いた梯子はもう何回も登った。初めて登った日のことを思い出しながら、ゆっくりと着実に上がっていく。
登りきるとそこには、
「よっ。」
いた。
「先輩……」
「うん。待ってたよ。」
いつもとちっとも変わらない。能天気で天然で綺麗な先輩が、月明かりに照らされて存在していた。不思議と、先輩に明かりが集まっているようにも見えた。
「目真っ赤。辛かったね。ごめんね。」
「悪いと思ってなさそう……」
「なっ!思ってるよ〜!」
少しムキになって腕を組む。先輩、やっぱりあなたは変わらない。
あれ……?変わらないはずなのに……
何だこの違和感は。
「あれ……気のせい……?」
いや、気のせいなんかじゃない。先輩の身体は確かに、透けていた。肉体そのものが透けていたのだ。いくら目を擦って見つめ直したって、どうしても先輩の後ろの風景が透けて見える。
「うん。しんじ君。私、私ね。」
「ごめん、踏ん張ったつもりだけど、もうすぐ消えるわ。」
「え……?」
「またまた、気づいてたんでしょ。てか気づかせたもん。」
何が、何で、何でそんなに笑ってられるんだ。気づかせたってなんだ。
「あ……」
思い出す。俺は気づいていた。そうか、気づかせてくれたのか。
けれど、まさか、そんなことがあるのか……?
「私ね……二年前に死んでるの!」
その言葉はあまりにも軽く発せられたものの、彼女の笑顔からはもう、涙が流れていた。
「馬鹿だよね!あの日君に“死んじゃダメだ”とか言っておきながら、その私がここから飛び降りて死んだんだから!」
ついさっきまでの俺と同じく、涙がまるで止まっていないのに、必死に笑顔をつくって明るい調子で打ち明ける。
なんで笑うんだよ。どうして……誤魔化そうとするんだよ。
「いつも屋上にいるのも、そのせい。死人が急に顔を出したりなんかしたら、みんなびっくりするでしょ?今の三年生は、私の名前位は知ってるからね。」
二年前。そうか。先輩が今の年齢で死んでしまったなら、二年後、当時一年だった今の三年生は、この学校の生徒が一人自殺したということを、知っている。
違う。俺が知りたいのは、そんなことじゃない。
「じゃあ……どうして今ここにいるんですか……」
「“超能力保有症候群”それが君と私の病気の名前。」
「え?」
「意識不明の重体や、よっぽどの重症とか、死にかけの時に極稀に発症するんだって。……私はその中でも更に希少な型。“死んでから発症した”の。」
先輩も“病気”だったのか……
だから、タイムスリップや、治癒能力等、多種多様な能力が使えたんだ。そういう事だったのかよ……
「でも、もう終わり。この通り。誰かを助けてあげる力も残ってないどころか、こうやって君と話しているのでやっと。死んでから発症しちゃったから、期間限定だったみたい。」
「そんな……先輩が消えたら、俺────!」
俺、俺は、どうなるんだ。自分を変えてくれた、助けてくれた、支えてくれた先輩がいなくなったら、俺はどうなる。
俺だけじゃない。東や響歌、先輩の能力によって死の運命を強引に回避した俺の母さんは?華蓮ちゃんだってそうだ。今は更生中の響歌の両親も、いったいどうなるんだよ。
「みんな忘れるよ。みんな私のことは忘れて、その穴が都合のいい記憶で埋め合わされるだけ。」
また俺の心を読むように、見透かすように、いや実際にそうして答えた。みんな、みんな忘れてしまう。“新川七彩”という少女を、恩人を、なかった事のように忘れてしまう。
「それは、俺もですか。」
そんなのあんまりだ。少なくとも俺は、まだなんの恩返しも出来てない。だって、もっと一緒にいられると思ったから。これからも過去に苦しむ人に、手を差し伸べることが出来ると思ったから。このまま何も出来ずに終わるなんて、そんなの……
「ううん。君は病気の影響で、私を忘れずに、覚えててくれる。私のこと、私達がやってきたこと、君だけが覚えてるの。川村信仁君。世界で君一人だよ。」
俺だけが……先輩を忘れないでいられる。けど、それだけだ。先輩に対して何が出来る訳でもない。ただ誰もが新川七彩を忘れた世界に、俺だけが一人覚えているだけ。
川村信仁であり、川村信仁ではない曖昧な人間が、新川七彩というはっきりとした存在を覚えていられるだけ。
「私、最初から気づいてたんだ〜。君が私と同じだってこと!」
どういうことだ。最初から、最初だから、あの日……
そうだ。あの日、俺の自殺を引き止めてから、急に雰囲気が変わった。俺をじっくり観察して、何かを悟ったような表情をしたのは、俺の過去を悟ったのではなく、俺自身を悟ったんだ。
「正解!」
「また人の考えてることを……」
「ふふっ。お見通しで〜す。」
月明かりが一層明るくなった時、先輩が来た時よりも薄くなっていることに気付く。触れても、触れなさそうなぐらい。
「はぁ……こんなことも、もう出来なくなっちゃうね。」
「…………。」
「あれ?もしかして、悲しんでくれてるの?」
「当たり前じゃないですか……!あなたがいなくなるなんて、俺には到底、考えられない……!」
もう泣くまいと、涙をぐっと堪えても、どれだけせき止めようとしても、やはりすり抜けるように流れてきた。
俺は、弱い。
「……そっか。」
柵に寄りかかって、先輩はその満天の星空を静かに見上げていた。
「綺麗だね〜。今までの後悔とか、どうでも良くなっちゃうくらい。」
先輩は続けた。
「きょうかちゃんの過去でさ、はるかちゃんが言ってたでしょ?“後悔した意味が無い”みたいなこと。……刺さっちゃったなぁ。今までやってきたこと全部無駄!って言われてるみたいで。」
あの時の言葉なら、俺も先輩と同じように思った。
真っ当な意見だった。自分たちがやってきたことは正しいと、せめて善意あっての行動だと信じていたけれど、後悔した意味が無いなんて言葉が飛んでくるとは、正直予想外で、それだけ真っ直ぐに心に刺さった。
「だから、ちょうど良かったのかも。こんな力、あっても要らないし。しんじ君も無闇に使っちゃダメだよ〜。」
「そもそも俺には、まだまだ扱えませんよ……」
「ふふっ。そっか。」
先輩は笑ったけれど、その笑顔はよく見えなかった。もう本当に、消えてなくなってしまう一歩手前の状態だった。
「先輩は───その、なんで、自殺なんか……」
「……そうだな〜。色々あったからかな〜。色々ありすぎた。もうどうしたらいいか分からなくなって、死ねば楽になるかな。なんて思ったのに、期限付きで生き返っちゃって……」
「でもこの力は、私に与えられた最後のチャンスだと思ったの。苦しむ人を助けて、私みたいな人を一人でも多く減らすことが出来ればって。……あーあ。思ったより早かったなぁ。まだやりたいこともあったんだけど。」
しばらく先輩は黙ったまま、じっと星を見ていた。先輩の涙が、その星を写すように、さらさらと、流れて落ちていった。
「……先輩。」
「ん?……悪いけど、もうそろそろ限界だから、早く言ってくれないと。ごめんね。空気も読めずに。」
「いえ……その、先輩の懐中時計、頂いてもいいですか。」
これは予想外、という顔で、目が点になっている。
俺のこの発言には、先輩をいつまでも忘れないでいたいからという意図もあったけれど……
「あ、これ?……いいよ。大事なものだけど、あげる!私の形見として、大切に保管するよーに!」
先輩が投げた錆ついた懐中時計を受け取る。これがあれば……
本当に僅かな、それこそ一縷の望みだけれど。
「……じゃあ、そろそろ行くね。今まであり……」
「待ってください。」
「……え?」
「このまま消えて、本当にいいんですか。」
「……しょうがないよ。元々私が自分で死んだんだし。むしろみんなと会えて勿体ないくらい幸せだったもん!」
本当に幸せそうに、満天の星空の下、満面の笑みを浮かべる。
「……いいじゃないですか。」
「もっと生きたいと思っても、いいじゃないですか!」
寝静まった夜の街に、俺の声が響いた。
先輩の心には、響いただろうか。響いているといいんだけれど。
「……るよ。」
「思ってるよ!そんなの!思ってるに決まってるじゃん!」
能天気で天然で綺麗な先輩が、涙でボロボロになった顔で、怒りを、いや、想いをあらわにする。
「なんで死んだんだろうってずっと考えてた!なんで生き返ったんだろうってずっと考えてた!でもしょうがないの!私のせいだもん!後悔してるなんて、贅沢なこと言えないんだよ……!」
「じゃあ!……俺が、今度は俺があなたを助けます!」
そう。今度は俺が。今度こそは。
俺があなたに、恩を、想いを返す番だ。
「あなたの過去も想いも全部受け止めて、あなたを助けてみせる!誰もかもがあなたを忘れても、俺だけは絶対に忘れない!あなたのこと、あなたがくれたこと全部!」
「……そんな、そんなの……」
今にも消えそうなその手を、強く握った。
この幾億の星達が紡ぎ出す、星座達に、そして目の前の少女の涙に、誓う────
「もう離しませんよ。あなたが消えても、あなたの過去に行ってもう一度この手を握ってみせる。」
「だからもう、自分を責めないでください……」
「うっ……うわぁぁぁぁぁぁ!!」
ついに声を上げて泣き出した先輩を、抱きしめる。
もう二度と、あなたにそんな想いはさせない。
俺が何としても、俺一人でもあなたを救ってみせる。
……そうしたいんです。
「ありがとう……ありがとう……しんじ君……」
そうだ。俺は川村信仁だ。誰がなんと言おうと、この俺がそうなんだ。
俺はもう迷わない。挫けない。
「待ってるね……!」
そう言い残して、先輩はとうとう消えてしまった。胸に先輩の温もりが残る。先輩の涙で、ちょっとだけ肩も濡れている。
こちらこそ、ありがとうございます。
だから、今はさようなら。
直ぐに行きますから────
────以下、後日談────
“新川七彩”という少女の存在は、跡形もなくこの世から、歴史から消え去った。俺の部屋に飾ってある後悔解消部の集合写真にも、新川先輩の姿はない。
俺達は、謂わばお悩み相談室のような役割の部活を結成していることになっている。
母さんや華蓮ちゃんは変わらず生きているし、響歌も俺の家に身を置いている。両親も更生中、遥歌さんの墓参りも欠かさず行っている。
つまり、俺達がやってきた事の結果は変わらないけれど、過程が抜け落ちたのだ。
“新川七彩”を無くした世界は、歴史は、臨機応変、直ぐに都合のいい世界に自らを上書きした。この世界であの能天気で天然で綺麗な少女を覚えているのは、俺ただ一人だ。
以前の俺なら、何も出来ずに、あの人が欠けた憂鬱な日々を送っていたかもしれない。
けれど、今の俺は違う。俺は変わった。変わることが出来た。あの人が変えてくれた。
だから、もっと強くなる。こうなった今、先輩の過去に行けるのは俺しかいない。この病気を患った俺しかいない。先輩の過去には、何があるか分からない。先輩の自殺を引き止めて終わりとは限らないのだ。その原因を排除しなければ、事の解決にはなり得ない。
ならばせめて今よりは、肉体も精神も強化しておくべきだった。
俺は先輩が消えたあの日以来、遥歌さんが生前使っていたあの地下室で、地獄のような鍛錬を積んでいた。
肉体を鍛える度に、俺の病気の能力も活性化していった。
鍛錬で傷ついた身体を修復しては虐めあげての繰り返しだった。そんな鍛錬は二ヶ月続いた。このことは誰にも言っていない。でも明らかに前よりも体格がしっかりしてきたので、周りも妙に思っているだろう。
そしてついに俺は、鍛えた肉体に、能力を加算すれば、大木を根こそぎ吹っ飛ばせるぐらいの力は手に入れることが出来た。
とんでもないことを言っているような気がするが、これくらいの覚悟と準備がないと、あの人を完璧には救えないかもしれないし、万が一の状況にも対応出来ると思うので、ひとまずはこれで良かった。大方準備は整った。
「……よし。」
三学期に入ってしばらくした頃の夜。俺は学校の屋上に来た。
あの日のような景色が、静かに、しかし壮大に広がっていた。
俺は内ポケットから錆び付いた懐中時計を取り出し、あの人を強くイメージした。
……まてよ、これ、先輩がやってたみたいに口付けしたら、間接キスじゃんか。
あぁ、これキス以外でも大丈夫なのか?こんな些細なことで戸惑うとは……
取り敢えず、瞳を瞑って、額に懐中時計を近づけてみる。
すると、頭の中で鮮明に先輩との思い出が次々映し出された。
そうだ。あの日の気持ちと変わらない。俺は先輩を救ってみせる。
辺り一面、強烈な青白い光に包まれる。過去に行く前の光だ。目も開けられない眩しさの中、身体中が痺れるような感覚に襲われる。
「ぐっ……おおおお……!」
その痛みに耐えながら、歯をくいしばる。
先輩の無邪気な笑顔を思い浮かべながら────
いつの間にか光は消え、身体の痛みも無くなっていた。
静かに目を開けると、その目前に、俺達の学校があった。
「失敗したのか……!?」
まさか、と思って辺りを見回す。しかし俺の不安は、その光景にかき消される。
『祝!二千十六年、バスケットボール部全国大会出場!!』
二千十六年。二年前。バスケットボール部がまだ強かった時代……は余計か。
俺は辿り着いた。自らの力で辿り着いた。
もうある程度の計画は立ててある。あとはそれになぞって行動しながら、先輩を助けるだけ。
それだけだけれど、それだけでは終わらないだろう。
どんな困難が待っていようと、なんでもいい。全部乗り越えてみせる。他の誰でもない、川村信仁、俺自身の力で────!