「真実」
後悔を、消す……?
実感がまるで湧かなかった。電光掲示板に流れる二月十四日の日付も、街を歩く厚着の人々も全てが嘘のようだった。
夢の中に、いるようだった。
「びっくりしたでしょ!」
イタズラをする子どものような、無邪気な笑顔で彼女は言った。
もしここが本当にあの二月十四日なら、俺は……
「あ、また泣いてる。しんじ君はよく泣くねぇ。」
「あれ……?」
自分が泣いていることに気づかなかった。これで二度目だ。なんで泣いたのかもよく分からない。ただ目の前の景色が、物凄く尊いものに感じる。
「ここら辺、見覚えある?私しんじ君のお家どこか知らないから、道案内して欲しいんだけど……」
「本当に、なかったことに出来るんですか。」
彼女はつぶらな瞳をくりっとさせて驚いた表情を見せた。……そして吹き出した。
「やだなぁ。まだ信じてないの?」
腹を抱えて笑いながら面白可笑しそうにそう言った。
「大丈夫だよ。しんじ君。あなたはきっと大丈夫。」
なにがどう大丈夫なんだ……でも、彼女が本当に大丈夫そうに言うから少し安心した。この訳が分からない現状もとりあえず受け止めることができた。
ひとつ、深呼吸をした。
「ここら辺は近所なのでよく知ってます。家はこっちです。行きましょう、先輩。」
「うん!七彩でいいよ!」
いいわけないだろうと思った。さっきあったばかりの異性の先輩をいきなり呼び捨てで呼べる奴がこの世のどこにいる。
「……新川先輩。」
「う〜頑固だなぁ〜」
(普通だろ……)
さて、俺たちは我が家を目指して歩き出した。ここからは大体十分程度で着く距離だが、なんせ今俺は異性と二人きりで歩いている。しかも新川先輩は割と……というか、かなり美形なのでなんだか妙に気まずい。あと、めちゃくちゃ寒い。当然だ。俺たちは夏から戻ってきた。
前にも言ったように、この日は特に寒い。なのに俺はがっつり夏服だ。半袖だ。風邪確定なんてもんじゃない。過去をどうこうする前に凍え死ぬぞ。
「寒そうだねしんじ君。」
俺は目を疑った。何食わぬ顔で、身震いひとつせずにまさに普通でいられる新川先輩がそこにいた。ひたすら疑問だった。
「はぁ!?先輩寒くないんですか!」
「うん。へーき。」
ありえない。俺はたしかに夏服だが、下は当然長ズボンだし、服の下に体操着も着ている。上下だ。それでも寒い。当たり前だろう。こんな格好で真冬の特に寒さの厳しい日に耐えられるはずもない。さらにこれから、自分の過去をどうにかしなくてはいけないのだから、ゲームなら初期装備でラスボスに挑むようなものだ。なのに新川先輩、あなたはその服の透け具合から推測するに……
体操着を着ていない!
近くで見た時からずっと気になっていた……下着のラインが綺麗にくっきりはっきり見えるし、梯子を上る時も俺を先に行かせた。
ましてや男子と違って女子は当然スカートだ。太ももががっつり露出している。……きれい……じゃなくて、その格好で寒くないなんて無理がありすぎる!
「なにさっきからジロジロ見て。」
「えっち。」
「なっ……!?」
俺の思考はそこで完全に停止した。なぜなら彼女のその台詞があまりにも、あまりにも可愛かったからである。びっくりだ。言葉が浮かばない。もし仮にこの台詞で落ちない男子がいるのなら、俺はそいつの正気を疑う。
……じゃなくて!もうそろそろ家につきそうだ。全く、これから自分の過去を変えれるかもしれない一世一代の大勝負が待っているというのに調子が狂う。俺は本当に、このチャンスに命をかける思いだというのに……
「これがしんじ君のお家?」
「そうです。……でも新川先輩。これから俺、どうすれば……」
どこから始めればいいのか全く分からない。というか、今の家の中の状況はどうなんだ。絶賛口論中か?それとも俺はもう家を出て、父さんも捜しにいった後か?
家の中を覗けば分かるかもしれないけど、どうすればいいのやら……
「うーん。とりあえず見てみないとわからないからなー。」
先輩もアバウトだな……
「こっちの窓からリビングが見えると思います。来てください。」
「ほいほいっと。」
家の塀から顔を覗かせて中の様子を伺った。見ると、母親が項垂れているのが見える。俺は今すぐにでも家に入って母さんを抱きしめたかった。「あの時はごめん」って謝りたかった。だが今はまだその時じゃない。歯を食いしばって必死に堪えた。
「テレビ、ついてないね。」
そうだ。新川先輩にも話したが、俺と口論する前、母さんはテレビを見ていた。口論中にもお笑いが流れていて余計に苛立った記憶があるので、そのテレビが消えているということは……
「家出したあとっぽいね。」
俺が言うより先に新川先輩が言った。ここに来る途中に“過去の俺”らしい人物も見かけなかったし、かといって父さんも見なかった。
「父親が帰ってきたかどうか気になります……」
「多分お父さんもう捜しに行ったと思うよ〜」
新川先輩が背伸びして塀から顔を覗かせたまま言った。
「え……なんで分かるんですか。」
「予想だけど、君が家出した直後ならお母さんも怒ってるだろうし、そのままテレビ見て気を紛らわせようとしてたんじゃないかな。でも今のお母さん、すっごい深刻そうな顔だし、ずっと項垂れたままだし、心配なんじゃない?君のこと。やっぱり親だねぇ。」
まぁたしかに、そう言われればそうかもしれないけど、やっぱりあくまでも先輩の予想だから、事実がそうとは限らない。考えれば考えるほど不安になってきた。今度こそ……失敗したくないから。
「うらやましいな〜。」
「え?」
少し間をおいてそうぼやいた彼女の方を見ると、どこか儚げな表情で俺の母親を見つめていた。
「ううん。なんでもないの。」
「はぁ……」
彼女の表情は依然として変わらなかった。何か隠している気がしないでもないが、特にそこから先、何か会話に繋げようという気も起こらなかった。
「二手にわかれてみる?」
新川先輩が背伸びをやめて、こちらをみてそう言った。我ながら名案だと思ったのか、さっきとは違って表情が明るい。
「私が家出した君を追う。君はここに残ってお母さんを見張る。それなら、家出した君を私が説得しつつ、お母さんの安全も確保できると思うけど?君がお母さんを襲うような人を退けるぐらいの力があればの話だけどね。」
なるほど。それはたしかにいいかもしれない。母さんを俺が守れるかどうかは不安だが、手段を選んでいる暇はないし、実際これ以上の案が浮かびそうにもない。
「よし。そうしましょう先輩。」
「おっけー!じゃあ、君が家出してから何処に行ったか教えてくれる?」
「確か……さっきの街の方だったと思います……人通りの多い、もう少し奥の方。」
「さっきよりも人通りが多いとなると結構大変だなぁ……まぁでも頑張って捜してくるよ!見つけたらここに連れてくから、それまでに何とかしておいてね!バイバイ!」
そう言って先輩は俺の背中をバンバンと叩いた。
えぇ……と言う間もなく新川先輩は行ってしまった。みるみる遠くなっていく先輩の背中を見てため息をついた。
……ここからが勝負どころだ。必ず母さんを守ってみせる。そして犯人も突き止めて、警察に突き出してやる……!
……と意気込んだのはいいが、一向に様子が変わらない。母さんは相変わらず項垂れたままで、このまま俺が帰ってきて平和的に仲直りなんて展開があってもおかしくないほどだった。だがこの後母さんは死ぬ。何者かに殺される。神経を研ぎ澄ませ。後悔なんて消し去ってやる……
「ただいま〜」
……え?
「……あら、泰輝。おかえり。」
いや、いやいや、おい。うそだろ?
「あれ、信仁は?」
「それがね……」
いやいやいやまてまてまて。
何帰ってきてるんだよ、兄さん!あんたが帰ってきた時には母さんは死んでたんだろ!?
「家出か、全く世話の焼ける弟だなぁ。」
え……は?なんだよこれ……まさか、嘘ついてたのか?兄さん。でも何のために……
「なら丁度いいや。」
俺がパニックに陥っていると、兄さんはここからでも辛うじて見えるキッチンの方に行って、何やらゴソゴソしている。
「……おい」
兄さんが取り出したのは、包丁だった。鋭く光る刃先の鋭利な包丁。そしてあろう事か、兄さんは笑っている。
「死んでくれ。母さん。」
「……え?泰輝?何言ってるの……」
最悪だ!誰が気づけるんだこんな落とし穴!
兄さんは最初から嘘をついていた!全部自分が実母を殺したことを隠蔽する嘘だったんだ!
「母さん、あんたは信仁が生まれてから、こっちのことは全く気にかけなくなったよな。学校のことを話したって、何も言ってくれなかった。」
「……泰輝、やめて、違うの、母さんは……!」
「もういらないんだよ、あんた。」
兄さんがあの日流していた涙は嘘だった!あの日俺を叱ったのも演技だった!とんでもないやつがすぐ近くにいた!兄さん!あんたは!!
俺は咄嗟に塀を乗り越えて、家のリビングの窓を開けた。幸い鍵がかかっていなかった。
「やめろぉおおぉ!!!」
家に入った俺はすぐさま兄さんにしがみつき、包丁を取り上げようと必死になった。
「……!?信仁!?チッ……どけぇ!」
さっきまでいつもの温厚な表情をしていた兄さんは、皺のよった怒りの形相に変貌し、俺を振り払った。そこには、まさにこれから実母を殺す殺人鬼の姿があった。
「信仁!」
母さんの叫び声で俺はすぐに立ち上がった。
「やめろ!兄さん!!兄さん!!」
「……邪魔なんだよッ!!」
強烈な一刺しだった。
俺の横腹から、さっきまで俺の身体をめぐっていたであろう赤い血が溢れ出てきた。
「ぐっ……!ぁぁぁっ……!!!」
気が狂いそうなほど痛かった。それでいて、全身の力がスゥッと抜けていくようだった。……だが、ここで俺が倒れたらまた同じことが繰り返されるどころか、もっと最悪な事態に陥る。クソッ!
「らぁッ!!!!」
兄さんの足を引っ掛けて、腹に包丁が刺さったまま体を床に打ち付けた。肘を強く打った兄さんが一瞬柄を握っていた手を緩めたので、その隙に包丁を奪い、遠くに投げ捨てた。母さんは口を抑えたまま震えている。
「また俺の邪魔をするのか……信仁ィ!!」
兄さんは俺の顔を鷲掴んで視界を奪い、体に跨って俺の首を締めた。
「うっ!がッ!!」
兄さんは革の手袋をしているので、これだけ掴み合ってもどこにも指紋はつかない。……意識が朦朧としてきた。息が続かない。折角過去を変えようと来たのに、真相を突き止めたのに、こんなところで……!
「とぉおおりゃぁぁぁぁ!!」
「ぐはっ!」
次の瞬間、兄さんの頭に強烈な飛び蹴りが炸裂した。兄さんは吹き飛ばされ、床に倒れたまま動かなくなった。
「間に合った……!よね!」
「新川先輩!」
俺のピンチを救ったのは、見事に過去の俺を連れ戻してきた新川先輩だった。
……その過去の俺も、床に倒れているんだが……
「いやぁ!見つけて説得するまでは案外上手く行ったんだけど、胸騒ぎがして急いで帰ってきたらこれだから!過去の君を放り投げてでも今の君を助けるしかなかった!」
そういうことか。過去の俺は今の俺が助かるために塀から放り投げられて気を失ったというわけだ。かわいそうに。過去の俺よ。
「信仁!?なんで信仁が二人いるの!?」
さて、母さんは息子(兄)が包丁を持ってとち狂ったかと思えば家出した息子(弟)が二人現れて大パニックだ。しかも可愛らしい女の子が兄さんをぶっ飛ばしてしまったから、母さんの精神状態はもう大変だ。
「ただいま〜……信仁どこにもいなかったよって……えええええええ!?」
なんてタイミングの悪い父親だ!父親からしたら、必死になって捜した息子が二人いて、そのうちの一人は腹を刺された挙句首を絞められて瀕死、そしてもう一人は床に倒れて動かない!さらには血だらけの包丁が落ちていて、いつの間にか帰ってきていた長男も床に倒れたまま動かない!
さらに全く見覚えのない女の子がドヤ顔で仁王立ちしているんだから、もうわけがわからないだろう!
……バタン
父親は前にも言ったとおり、ナヨナヨしていて情けない。この状況はどうやら父さんの理解を超えていたようで、というよりかは相当ショッキングな絵面だったようで、気を失ってしまった。
まぁこのタイミングに帰ってきた時点で予想はついていたので特に驚くこともない……
「さて……後処理めんどくさいなぁ……」
新川先輩が頭をかいて気だるそうにそう言った。一方の俺はただでさえ外で待ってて寒かった体に包丁が突き刺さり、首も思いっきり締められていたので今すぐにでも病院に行きたいんだが……
「よいしょ。」
すると新川先輩は、俺の胸に手を当てて、あの懐中時計を取り出した。ここに来る前とは違って、錆が一切なく、新品のように綺麗な銀色で、眩しく光っている。
「いたいのいたいのとんでいけ〜。」
その時、不思議なことが起こった!
……というナレーションが入りそうなほど不思議なことが起こった。時計がまた青白く光りだし、俺の傷がみるみる癒えていく。
その上寒さも感じなくなった。
「これは……」
「すごいでしょ。」
新川先輩はそう言って笑った。特に説明もせず、ただ特技を自慢する子どものように笑った。
「お兄さんのほうもっと……」
……え、いやまずい!また誰かを殺そうと……!
「……あれ?俺、何を……」
「え……」
「お兄さんの心綺麗にしてあげたの。さっきの記憶も消しといたから……」
そんなことまでできるのか……?一体、一体何者なんだ、先輩は……
「お父さんの記憶も消去っと……」
気絶してるのは治してあげないんだ……
「お母さんもしつれ〜い」
「え……ちょっと……」
母さんも気を失ってしまったようだが……
「あ、そのうち起きるから大丈夫だよ〜。」
「過去のしんじ君の心も綺麗にしましょうね〜ついでに記憶も……」
手馴れた感じで次々に記憶を消していく。新川先輩が何者なのかという疑問が一層深まっていく。
「よし!全員終わり!みんなの心に溜まってた汚れも綺麗にしといたから、当分家族のトラブルはないと思うよ?」
「おわった……ってことですか?」
「そう!よかったね!」
そうか……終わってみると、実に呆気ないものだった。この日がきっかけで俺は死のうとまで考えていたというのに、何とも、呆気なかった。
「“後悔解消”だね!」
「え、なんですか?それ」
「あなたの後悔、これでなかったことになりました!お母さんも生きてるし!」
……そうか、これはある意味で、歴史が変わったんだ。母さんが死ぬという歴史がかわった。そしてその発端となる兄さんの怒りと恨みの感情も消えたらしいから、もうこんなことが起こらない。唯一この事件を覚えている俺が配慮をすれば、ずっと家族が平和でいられる……
「帰ろっか。私たちのいた時間に。お母さんも待ってると思うよ。」
新川先輩は優しく微笑んだ。
「ありがとうございます……ありがとう……ありがとうッ……」
「も〜また泣いてる〜」
泣かずにいられるか。俺は救われたんだ。この一人の少女に、救われた。もう、自分を呪いながら生きずに済む……!これからは、家族みんなで生きていけるんだ……!
「よかったね……本当に……」
そうして新川先輩はまた、その懐中時計に優しい口付けをした。
ここに来る時の強烈な光とは違う、優しくて暖かい光に包まれた。
────後日談。
あれからというもの、我が家は実に平和に暮らしている。夏休みは久しぶりに家族全員で旅行に行った。兄さんとも好きなアイドルのライブに行ったり、毎日が楽しくてしょうがない。
だからこそ、俺は思った。
「俺のように後悔している人が、まだいるはずだ。」
二学期が始まった。気だるい始業式が終わった直後、俺は屋上に急いだ。
屋上の重たいはずの扉は軽く感じた。
「新川先輩!いるんでしょ!?」
「おやおやしんじ君。どうしたの?」
いた。俺の恩人と言っても過言ではない華奢な少女。
「お願いがあってきたんです。」
「……なにかな。」
俺は誰にも、あんな思いをして欲しくない……だから!
「前の俺みたいに、後悔してる人っていっぱいいると思うんです。」
新川先輩は屋上から冷たい視線で俺を見下していた。予想外の対応で少し気が引けたが、それでも俺はもう決めた。
「そういう人たちを助けてあげたい……今も後悔してる人たちに手を差し伸べたいんです!」
「ふーん……で、なにがしたいのかな。」
新川先輩の口から鋭く冷ややかな言葉が俺に降りかかる。
「そういう人達を……俺達で救う部活……みたいなのを作りたいんです。」
新川先輩は相変わらず冷たい表情のままだった。先輩は俺を見下しながら黙っていて、その間の沈黙に俺は緊張しっぱなしだった。
「ぷっ……はっはっはっはっは!」
え。
「面白い事考えるね!しんじ君!いいよ!作ろうその部活!」
新川先輩にいつもの楽しそうで無邪気な表情が戻った。
「じゃあ……!」
「うん!名前は……!」
そうして俺達、“後悔解消部”の活動が始まった。
ネーミングは新川先輩の即興だ────