「過去へ」
彼女の髪は、屋上に吹く風に靡いていた。
あともう少しで彼女のスカートの中身が見えそうなぐらい風は強かった。
「……おいで!」
彼女は笑った。逆光で多少見えにくかったが、にっこりと笑ったのが見えた。
言葉が詰まった。完全に呆気に取られた。まさか止められると思ってなかった。朝会が終わった直後の屋上に誰かいるなんて予想だにしなかった。
「んもう!じれったいなあ!」
すると彼女は換気扇の上から飛び降り、俺の方まで歩み寄ってきた。
彼女との距離が近くなってやっと気づいたが、制服の襟についているピンの色が緑色だったので、二年生の先輩だった。しかも、顔立ちも整っていて、髪もサラサラで艶があった。なかなかに美人だった。
「なに……してるんですか……」
俺が問いかけると、彼女は鼻で笑った。
そうして真剣な表情になり、俺をじっくり見回して、しばらく沈黙したままだった。俺の顔色を覗き込むようにして見たり、俺を観察しているようだった。
「ふーーーん!」
彼女は何かに納得したらしかった。
「意外なこともあるんだなぁ」みたいな顔をして俺を見下しながら、その白く細い華奢な腕を組んで偉そうな雰囲気を醸し出している。
「………………大変だったんだね。」
今までの、といっても僅か数分の間だが、さっきまでの声の調子とはまるで違った重みのある声で、俺を哀れんだ。困ったような表情を見せて、俺に同情するようであった。
「ねえ、授業はとりあえず置いといて、話してくれない?あなたの過去のこと。」
俺は兎に角驚いた。
屋上の柵を越えて今逝かんとする全くの赤の他人を引き止め、事情を悟り、ましてや相談に乗ろうとするなんて随分と度が過ぎるお人好しもいるものだと心底驚いた。
俺と彼女は柵を間に挟んで暫く黙り込んでいた。その沈黙は俺の場合は驚きから、彼女は同情から来るものだったろう。
「とりあえず、ほら、たって。滑って落ちちゃったりしたらそれこそ悲しいことだよ。」
また悲しそうな顔をした。さっきまでの勢いは何処に行ってしまったのだろう。まるで別人のようだ。とはいえ、彼女の名前でさえも、まだ知らないのだけれど。
彼女は黙って手を差し伸べた。一段と強い日差しに照らされて、神々しくもあった彼女の手のひらに、俺は希望を感じずにはいられなかった。それだけで少し救われた気分になった。
俺が躊躇いながらも彼女の手のひらを握ると、彼女はより強く握り返して、足がすくんでいた俺を立ち上がらせてから、満面の笑みを浮かべた。
「もう大丈夫だよ!私が来たからにはね!!」
子どもの頃、母さんとよく見ていた特撮のヒーローみたいなセリフをいって笑う彼女を、俺はほんの少しだけ、綺麗だと思ってしまった。
そうして彼女は俺の手を掴んだまま、換気扇に上がるための梯子まで来て、
「パンツみえちゃうから、先上がってね。」
と、あまりにも恥じらいがない調子で言ったものだから、こちらも反応に困った。
話は上で聞くということだろう。俺は錆び付いた梯子を一段ずつ上っていった。期待のような不安のような感情に苛まれながら、カツンカツンと一段ずつゆっくりと上っていった。
「よいしょ。」
どうやら彼女も上り始めたらしい。自分のすぐ真下に彼女がいると思うと、急に緊張してきた。
何分、今まで女の子と二人きりになったことは人生において一度もない。女の子とあれほど話したのも初めてかもしれない。それほど俺の人生に女は無縁だった。
俺は顔立ちから能力まで特にずば抜けてるものもない、ごく普通の人間だったので、自分から話しかけない限り、女の子と目を合わせて話す機会は無かった。
梯子を上りきると、平らで真っ白な地面に避雷針が鋭く聳えていて、大きな換気扇がゴオゴオ音を立てて回っていた。彼女も俺が上りきった後、すぐに上りきって一息ついてから、
「ここはやっぱいいねぇ!」
と、意気揚々とした調子で言った。
俺からすれば、周りの音がそれなりに大きいし、烏も何羽か向こうで飛び回って忙しく鳴いているので、あまり落ち着いて話が出来そうになかったが、彼女には、俺の過去を話した方がいいと、そう直感したので今更退く訳にもいかなかった。
そうすると彼女は換気扇から少し離れた避雷針のそばまでいって、俺を手招きした。
避雷針の近くは換気扇のそばにいるよりかは当然だが落ち着いていて、ここならまだ話ができそうだ。
「じゃあ自己紹介からだね!私は新川七彩!二年生です!」
彼女はにこっと笑ってそう言った。
「一年、川村信仁です……」
「よろしくね!」
なれない女子との、しかも先輩との会話にどうすればいいか分からず目も合わせられない俺の手を握ってまた笑った。
ドキッとした。なんだか変な感じだ……
「よし、じゃー自己紹介も終えたことだし!はなしてちょーだい。」
彼女はそこで腰を下ろした。俺も腰を下ろして一つ深呼吸をした。なんせこの話は今まで人に話したことがないので、どこからどう話せば……とは思ったものの、彼女の顔を見ると安心して落ち着いて話せるような気がした。
そして俺は、絶対に忘れることの出来ない“あの日”の記憶を脳裏から一片も残らず引きずり出して話始めた。
以下、回想────
今年の二月十四日。今が七月だから、最近と言ってしまえば最近なのかもしれない。その頃はちょうど大寒波がきていた頃で、寒くてしょうがなかった。
俺は受験生だったので、苦手教科である数学を何とかしようとして、机に向かって必死に過去のノートを見たり、公式をしらべたりしてかなり切羽詰まっていた。
いつも勉強を見てくれる兄がバイトで出かけていたので、イマイチ調子がでなかった。集中も切れてしまったので、ペンを投げ出し自分の部屋から出て、リビングへ水分補給しに行った。
リビングの扉を開けると、退屈そうにテレビを見ている母親がいた。
「あんた、勉強は捗ってるの?いつまでも泰輝に頼ってたらダメだよ。」
急に話しかけられて体がビクッとした。泰輝というのは兄の名前で、昔から俺は兄に頼りながら生きてきた。頼りすぎなほどに。
「わかってるよそんなの……」
受験勉強からくるストレスのせいか、いつもは何ともない母親の説教もやけに腹立たしく感じた。
「何よその態度。勉強を疎かにして高校落ちたら、母さん許さないからね。」
母さんがすかさず鋭い声で俺を叱った。今思えば、母さんは俺のことを心配してくれていたはずなのに、俺は諭される感じが気に食わなくて、無性に腹立たしくなって、イライラして掻き毟って、
「うるさいなぁ!こたつに入りながらのんきにテレビ見てる人に言われたくないねぇ!」
つい、こんな言葉を口走ってしまった。少し悪態をついてやろうぐらいの気持ちでいたが、自分でも驚くほどの大きな声が出てしまった。これには気の強い母さんも流石に驚いた様子だった。無理もない。俺は普段反抗なんてしないから、ここまで言い返されるとは思わなかったのだろう。
母さんもちょうど仕事から帰ってきて、疲れきっていたはずなのに、そんなことも知らず、俺は母さんを邪魔とさえ感じていた。
今思えば、俺は本当に大馬鹿者だ。
「……なさい。」
俯きながらあまりにも小さい声で呟いたので聞こえなかった。
「あぁ!?なに!?」
「出ていきなさい!!!!」
その時の母さんは、目にじんわり涙を浮かべていた。俺はそれが見えていながら、苛立ちが収まらなかった。少しも“やってしまった”とか、そういう感覚が無かった。完全に苛立ちに支配されていた。
「あぁ!出ていってやるよこんなクソみてぇな家!!!」
こうして母さんに怒号を浴びせると、あの日の俺は、勢いよく家を飛び出した。
飛び出した後、暫く俺は宛もなく走り続けていた。問題が全く分からないことの無力感、クラスの奴らにどんどん置いていかれる劣等感、そして何より、母さんに分かりきったことを言われたことで今まで募っていた不安が一気に爆発した。
一生家に帰らないでやるぐらいのつもりでいた。
しかし、俺も所詮は子どもだった。結局腹が減ってきて、無性に家族に会いたくなってしまった。今になって罪悪感がこみあげてきて、泣き叫んでしまいそうだった。
街の方に出ると、幼い子どもの家族が手を繋いで楽しそうに歩いているところを何度も見た。俺は歯ぎしりをして、指を噛んで、石ころを蹴飛ばした。見るからに小物感溢れる行動だ。思い出してみれば、みっともなくてしょうがない。
結局俺は、意思を貫き通すことも出来ずに、フラフラと帰ってきてしまった。帰ったら母親にしっかり謝って勉強も真剣にやろうと心に決めた。だが、俺を待っていたのは“家庭”なんて平和なものじゃなかった。
家の前に集っている救急車やパトカー。野次馬も出来ていて、よく見ると俺がいない間にバイトから帰ってきたであろう兄と仕事から帰ってきたであろう父親が、警察に事情聴取をされているのが見える。
この時点で、俺は気が気でなかった。胸騒ぎがするなんてものじゃなかった。まさか、まさか、と焦りっぱなしだった。
俺は気づいたら野次馬の中に走っていって、人をかき分けて一番前の方まで来た。するとちょうどそこに、担架で運ばれていく、血だらけの母さんが見えた。
「おい……」
「おい……!母さん!母さん!!おい!!!」
野次馬を堰き止めていた黄色いテープを掻い潜って母さんのところまで駆け寄って、必死に呼びかけた。
「君は息子さんかい?……気の毒だが、君のお母さんはもう……」
担架を運んでいた内の一人が、申し訳なさそうにいった。
俺は頭が真っ白になった。
そして、俺を見つけた兄と父が駆け寄ってきた。
「どこいってたんだ信仁……!!」
兄は涙目で、俺を睨みつけてこういった。
普段はナヨナヨして弱々しい父親も、拳を握りしめながら泣くまいと必死に歯を食いしばって俯いている。
聞けば、俺が家を出たあと、父親が帰ってきて、項垂れる母さんから事情を聞いた父さんが俺を捜しにいったらしい。
兄さんはその後に帰ってきたが、その時はすでに母親は倒れていたらしい。腹部に刃物が突き刺さっていて、床に血がべっとり広がっていたそうだ……
母さんの葬儀のことだって、俺は決して忘れないだろう。母さんの遺影の笑顔はとても綺麗だった。母さんは笑う時クシャッと笑う。非常に嬉しそうにクシャッと。
母さんは、家族で飯を喰っている時にも、よく俺に、
「学校はどう?」
なんて聞いてきた。
「楽しいよ」
俺が素っ気ない返事をしても、母さんはクシャッと笑って、
「そう!それは良かった!」
なんて心底嬉しそうにするから、俺もそれをみてなんだか心が暖かくなっていた。
そんなことを思い出しながら、遺影と、その前に置かれた棺を見て、呆然としていた。
棺に眠る母さんの表情が苦しそうだったのも覚えている。
殺された人が安心して眠れるわけがない。最期に何を思ったかまでは分からなかったが、もし、俺のことを気に病んでくれていたなら……と考えてしまって、何もできなかった。兄さんも、父さんも、棺の前で泣き崩れていた────
「……終わりです。」
初めて人に最悪の過去を打ち明けた。思い出すとまた、心が空っぽになってしまいそうだ。いや、もう十分か。
「ふーん。それが、あなたの後悔なんだね。」
「……え?」
後悔。あぁそうだ。あの時母さんにあんなことを言わなければ……というのもあるが、何より母さんを殺した奴が誰なのかまだ分かっていない。
「悔やんでも悔やみきれないでしょ?お母さんを殺したのも誰か分からないわけだし……」
「やり直してみない?」
俺はそこで思考が止まってしまった。今彼女はなんて言った?頭の中を疑問符が飛び回り、完全に混乱状態だ。
「消しちゃうの!あなたのそのでっかい後悔!」
「後悔を……消す?」
どうやって?と聞く前に彼女は身を乗り出して笑顔で言った。
「過去に戻るの!あなたのその過去にね!」
「“コレ”で!」
全くついていけていない俺を他所に、彼女は制服のポケットから錆ついた懐中時計を取り出した。もっと意味がわからなくなった。
俺はとんだ無駄な時間を過ごしてしまったのかもしれない。
漫画の読みすぎ系少女の妄想に、今まさに付き合わされているのかもしれない。なんだか馬鹿にされているような気がして、たまらなくなった。
「馬鹿にしないでくれ!!あんたなんかに話した俺が間違ってたよ!!」
流石に我慢ならなかった。俺の過去に対する想いを踏みにじられているような気がしたからだ。
「じゃあ、試してみる?」
彼女は得意げに言った。
「今年の二月十四日、時間はちょうど……午後六時ぐらいかな?」
「……だからッ!」
俺が今まさに彼女に怒号を浴びせようとしたその時だった。
彼女はその錆ついた懐中時計に優しい口付けをした。
「なッ!?」
「お願い……」
彼女が瞳を閉じると、辺りが青白く強烈な光に包まれた。眼を開いてはいられないほどの強い光だった。体も消し飛びそうなぐらいの圧迫感が俺を襲った。
そして、視界は真っ暗になった。
最初は冷たく、音もなく、感覚も一切なかったが、徐々に徐々に感覚が戻っていき、俺は目を覚ました。
……そこには日が沈んだばかりの夜空が広がっていて、無数の星が散りばめられていた。
「やっと起きた!」
彼女がいた。俺の顔を覗き込んでそう言った。
「ここは……?」
「ふふっ、実際に見た方が早そうね!」
そう言って彼女は俺の自殺を止めた時のように手を掴んで、夜の街を駆けていった。不思議なことに、さっきまで錆が殆どを覆っていた懐中時計も、綺麗な銀色に輝いていた。
彼女にされるがままに引っ張られて、ビルや店が立ち並ぶ大通りまで来た。ここは、家から割と近い距離にあるから見慣れている。まさか。
建物につけられた電光掲示板に、『2018年2月14日』という文字が流れていった。
「改めまして!あなたの後悔、消しちゃいます!」
どうやら俺は本当に、あの日に、あの過去に“帰ってきた”らしい。